東日本大震災のあとに、
方丈記を読み、
それから一遍へとたどって、
そこまでの、私の読書でした。
さてっと、山折哲雄著
「これを語りて日本人を戦慄せしめよ
柳田国男が言いたかったこと」(新潮選書)
を昨日半分ほど読んだところです。
その第三章「偉大なる人間苦」に
こんな箇所が出てくるのでした。
「柳田がその論述のいたるところで
もちだしているのが、『空也上人』と
『一遍上人』であり、その門流のあいだで
保持されつづけていた
『生活第一、信仰第二』の多彩な事業である。
日本列島ヒジリ史の原型を形づくった
真の主人公こそ、空也と一遍だったと
いってはばからない。
その議論の出発点に、亡霊と鎮魂、
葬送と勧進の事業がつねに位置づけ
られているのである。」(p81)
「柳田国男のいう『半僧半俗』は、
親鸞の生き方を象徴する『非僧非俗』と
真向から対立する概念だったというほかはない。
・ ・・・・・
おそらくかれは、親鸞という存在をつよく
意識していたのだったと思う。
本山本寺の異常な繁栄ぶり、その貴族ぶるまい
のあり方にある種の反撥心を抱いていたからだとも思う。
十三世紀の親鸞の流れをくむ十五世紀の蓮如の存在を通して、
大きな発展をとげた本願寺教団の存在にたいして、
一つの大きな問いを投げかけようと
していたのではないだろうか。」(p82)
うん。
「これを語りて日本人を戦慄せしめよ」は
私は、半分しか読んでいないのでした(笑)。
方丈記を読み、
それから一遍へとたどって、
そこまでの、私の読書でした。
さてっと、山折哲雄著
「これを語りて日本人を戦慄せしめよ
柳田国男が言いたかったこと」(新潮選書)
を昨日半分ほど読んだところです。
その第三章「偉大なる人間苦」に
こんな箇所が出てくるのでした。
「柳田がその論述のいたるところで
もちだしているのが、『空也上人』と
『一遍上人』であり、その門流のあいだで
保持されつづけていた
『生活第一、信仰第二』の多彩な事業である。
日本列島ヒジリ史の原型を形づくった
真の主人公こそ、空也と一遍だったと
いってはばからない。
その議論の出発点に、亡霊と鎮魂、
葬送と勧進の事業がつねに位置づけ
られているのである。」(p81)
「柳田国男のいう『半僧半俗』は、
親鸞の生き方を象徴する『非僧非俗』と
真向から対立する概念だったというほかはない。
・ ・・・・・
おそらくかれは、親鸞という存在をつよく
意識していたのだったと思う。
本山本寺の異常な繁栄ぶり、その貴族ぶるまい
のあり方にある種の反撥心を抱いていたからだとも思う。
十三世紀の親鸞の流れをくむ十五世紀の蓮如の存在を通して、
大きな発展をとげた本願寺教団の存在にたいして、
一つの大きな問いを投げかけようと
していたのではないだろうか。」(p82)
うん。
「これを語りて日本人を戦慄せしめよ」は
私は、半分しか読んでいないのでした(笑)。