和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

編集者の夢。

2021-06-11 | 本棚並べ
さてっと、この本
鷲尾賢也著『編集とはどのような仕事なのか』(2004年)を、
本棚にもどそうと思うのですが、なんだか書き残したことが、
あるような気がしていて、もどかしい感じがしておりました。

私の読書範囲内なら、そのもどかしさに筋道がつくかも。
そう思って、今日になって浮かんできたことがあります。

西堀栄三郎著『南極越冬記』(岩波新書・1958年)。
清水幾太郎著『論文の書き方』(岩波新書・1959年)。

はい。このあとほぼ10年たって、
梅棹忠夫著『知的生産の技術』(岩波新書・1969年)
が登場しております。
岩波新書の『南極越冬記』には
桑原武夫と梅棹忠夫のお二人が関係しております。
『南極越冬記』あとがきに、それを見てとれます。
うん。そのはじまりは

「南極へ旅立つにあたって、わたしは親友の桑原武夫君から宣告を
うけた。『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。
 ・・・
しかし、いったいどうして本をつくるのか。
わたしは生来、字を書くことがとてもきらいである。
この年になるまで、本というものをほとんど書いたことがない。
  ・・・・・・
かれの意見に従おうと思ったけれど、
時間の余裕があった南極越冬中でさえ、
何一つ書きまとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中で、
とうてい桑原君のいうようなことができようはずがない。
 ・・・・・・
ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコラムへ向け出発してしまった。しかし、運のいいことには、
ちょうどそのまえに、東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。」
(~p268)

西堀栄三郎追悼の文に、梅棹忠夫氏はそのことを書き残しております。
そして、『新書』編集者・梅棹忠夫が、ここに登場してきます。
うん。新書の創成期として、ここにちゃんと引用しておきましょう。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。
講演や座談会などにひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊の本にして
出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。

ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、
『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
君がかわりにつくってやれ』という命令である。・・・・・

材料は山のようにあった。大判ハードカバーの横罫の
ぶあついノートに、西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
さまざまなエッセイの原稿があった。

このままのかたちではどうしようもないので、
全部をたてがきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
岩波新書一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。

わたしはこの原稿の山をもって、
熱海の伊豆山にある岩波書店の別荘にこもった。
全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、
要所要所にエピソードをはさみこみ、
いくつもの山場をもりあげてゆくのである。

大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
クリップでとめた原稿用紙をならべて、
それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
文章をなおしてゆくのである。

この作業は時間がかかり労力を要したが、どうやらできあがった。
この別荘に一週間以上もとまりこんだように記憶している。

途中いちど、西堀さんが陣中見舞にこられた。
そして、わたしの作業の進行ぶりをみて、
『わしのかわりに本をつくるなんて、とてもできない
 とおもっていが、なんとかなっているやないか』
と、うれしそうな顔でいわれた。・・・」
(西堀栄三郎選集別巻「人生にロマンを求めて」悠々社・1991年)


さてっと、『編集とはどのような仕事なのか』の最終章は
『著者に育てられる』という見出しで、まず清水幾太郎氏が
登場しておりました。そのあとには、こうあります。

「新書の世界で講談社が、岩波、中公の後塵を拝していたことは
すでに述べた。東京より京都の方が差別される度合いが少なかったのだろう、
当時の編集長は企画のターゲットを京都の著者に絞っていた。
 ・・・・・・
『季刊人類学』という雑誌を社会思想社からひきついで、
編集実務を講談社が引き受けていた。当然赤字である、
今西錦司、梅棹忠夫以下のいわゆる文化人類学関係の
著者獲得の一方法としてはじめたと聞いている。・・・」
(p210~211)

そのすこしあとに、梅棹忠夫氏が登場する箇所があります。

「人文研時代の梅棹忠夫さんは知らない。
私は民博館長になってから以後のおつきあいである。
『館長対談』という本を何冊かつくっている途中、
視力を失くされる不幸に遭われた。
私が担当した『夜はまだ明けぬか』という体験記は、
そのときのことを書かれたものである。・・・」(p213)

はい。
梅棹忠夫著「夜はまだあけぬか」(講談社・1989年)の
まえがきの最後には、こうあります。

「この奇妙な体験記の出版については、
講談社の専務取締役加藤勝久氏、
学芸図書第一出版部長鷲尾賢也氏、
ほか講談社のみなさまのご高配をいただいた。
あつく御礼もうしあげる。」


またの読み直しを期待しながら、今回はこのくらいにして、
『編集とはどのような仕事なのか』を本棚にもどすことに。




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