和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

関東大震災後の『72時間』。

2024-02-03 | 安房
阪神淡路大震災の際に、同じ地続きなのに、
家屋の倒壊の場所と、街並みが整然として被害がすくなかった場所と
の境界が、何だか不思議な感じで印象に残っております。

千葉県安房郡での、関東大震災の場所的被災状況を思う時、
関東大震災当時の安房郡には、どのような町村があったか、
まず、その確認からはじめてみます。

東京湾の内房から海岸に沿って、外房へとめぐってゆくと、
保田町・勝山町・岩井村・冨浦村・船形町・那古町・北條町・館山町
西岬村・神戸村・富崎村・長尾村・白浜村・七浦村・千倉町・千歳村
南三原村・和田町・江見村・太海村・鴨川町・東條村・天津町・湊村。

また安房の内陸部を北から南へと紹介すると
佐久間村・大山村・吉尾村・主基村・田原村・西條村
八束村・平群村・曽呂村・瀧田村・稲都村・丸村・北三原村
國府村・豊田村・館野村・九重村・健田村・豊房村。

郡役所の沿革によると、
「明治11年・・郡役所を開設せらるる・・
当時敷地は北條町北條の所有にかかり・・
表門は北條病院の前なる大槇樹の北にありて長屋門なりき。
明治16年5月10日新築落成・・現庁舎是なり(大正12年の大震にて倒潰す)」
          ( p497 「千葉県安房郡誌」大正15年6月 )

「安房震災誌」には、各種被害の写真が掲載されており、
そのなかには、「倒潰セル郡役所」「倒潰セル警察署」の写真もありました。

これら各町村への安房郡による「震災状況調査表」(大正12年9月19日調べ)
の数値一覧が載っております。全潰・半潰戸数・焼失・被害数百分比
死亡数・負傷数他・・とあり、調査項目として行き届いております。

もどって、震災当日の9月1日。

郡長は、家の前の松の木に腰を据えて、余震をやりすごし、
安房郡役所に来てからは、庭前の・・老樹の下に陣取り、
出来るだけ広く被害の状況を聞くこととなります。

『能ふだけ深切な救護の途を立てることに腐心した。
 県への報告も、青年団に対する救援の事も、
 皆なこの樹下で計画したのであった。』( p233 「安房震災誌」)

郡役所では合計3名の郡書記が、県庁へと向かうこととなり。
警察署からも、急使が立ちます。

そのあとに、郡長はどうしたか?
安房震災誌の記述から引用します。

「・・眼前に横たわる死者・傷者その累々たる中に、
 建物の下敷きとなった半死の悲鳴。悲絶とも惨絶とも形容の言葉がない。

 むろん、県の応援は時を移さず来るには違いないが、
 北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。

 手近で急速応援を求めねば、この眼前焦眉の急を救うことが出来ない。
 しかしどの地方に応援を要求したらよいか。
 郡長は・・・沈思黙考してみた・・・  」(p236~237)



別の本に、平川久太郡書記の記述が読めました。
それは、大山村から急遽、郡役所へもどる場面が描写されております。

「私(平川)は命を帯びて秋繭の共同販売斡旋のため
 大山村へ出張し佐久間書記と共にその準備中、
 轟然たる音響とともに、アア地震・・スワ無心の中に飛び出したが、
 居たまらず、庭に二人転び居った。・・・
 さっそく用務を中止して帰庁した。

 平群、瀧田、國府と北條に近づくにつれて潰れ家、土地の陥没、亀裂
 等次第に烈しく、一面空を見れば太陽には光りを失い真紅なる大きな
 輪郭を見せ、船形、北條の方面には大火らしき煙りを上げ
 その物凄さはいよいよ私を恐怖の中に包んだ。一時も早く帰らんと
 あせるも橋は落ち道は崩れてはかどらず4時頃やうやう北條に着いた。・・

 郡役所に馳せつけてみると郡衙、警察署、皆影も形もない。
 職員はほこりまみれになって皆青黒く半ば死想を帯び
 何かとそわそわしていた。

『 ヤア君帰ったか、杉田君はやられてしまったよ。
  中川君も下敷きになったが命だけは助かった。 』

  と大橋郡長が云うて呉れた。・・・  」
       ( p825~826  「大正大震災の回顧と其の復興」 )


この倒潰情報も含め、被害少ない大山方面に応援要求することとなります。
うん。これに関しては、安房郡長・大橋高四郎氏の文が残っております。

のちに県へ調査報告した表彰するに値する
『功績顕著と認むる事実の概要』は、
安房郡長による推薦文が残っておりました。
最後は、その記述のまま引用しておきます。

「 大震災によって稀有の大惨状を現出するや郡は直ちに
  急を本県に報じ救援を求めたるも当面の惨状は
  少時も放擲し置くを許さざるをもって
  急に手近に応援を求めるの要あり

  郡内平群、大山、吉尾等山間部は被害少なく求援に便なるを想像するも
  郡吏員はすでに救護のために八方に奔走し使者として適任者なく

  使丁、学校職員その他に人を求むるも遂に応諾するものなく
  大いに苦心の折柄たまたま同氏(久我武雄)のあるあり

  交渉中激震あり人々色を失ふの際
  氏は快諾一番闇夜悪路を冒し約13里の道程を突破して、
  平群、大山、吉尾等各町村に到り、

  青年団、在郷軍人分会、消防組の出動を請ひたるに
  いずれも即夜動員を行ひ2日未明2百余台の来援を得て
  死傷者の収容、救急薬品の蒐集、食糧の配給等に努力せらる

  なお之を端緒として引きつづき各町村青年団、在郷軍人分会
  等の活動を見る功績顕著なり。   」(p344)



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