たとえば。宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」に、
電車が、水をかきわけて走ってゆく場面がありました。
その時は何となく見ておりましたが、水害などの被災を
目の当たりにするような、身近な、実感として思い浮ぶ。
たとえば、幸田文著「崩れる」を読んだ時に活字で思われたことも、
こうして、災害が多発するようになると、それが実感として読める。
何も説明を要しない、そのままに飲みこめるような気がしてきます。
さてっと、能登半島地震の隆起に関する記事を昨日読みました。
こうあります。
「石川県能登地方を中心に1月1日に起きたマグニチュード7.6の
能登半島地震では、半島北岸から西岸にかけての広い範囲で
地盤の隆起が確認された。実は、能登半島では長い年月の間に
何度も発生した地震で、海岸の隆起が繰り返されてきたという。・・」
( 産経新聞2月18日の特集記事 )
掲載されている図には
「 約4メートル隆起した皆月湾付近
地震後、海岸線が約200メートル移動 」とあり、
地震前と地震後の海岸線が隆起した写真が載っておりました。
ところで、私は「安房郡の関東大震災」をふりかえっているのですが、
こと隆起に関しては、津波よりも説明がしにくい感じをもっておりました。
今ならば、ごく自然に理解され、隆起の話ができそうな気がしております。
たとえば、関東大震災当時、安房で学生だった和田金治氏の文があります。
それを引用。
「私が安房中学(当時の)に入学したのは、大正11年であった。
翌12年の9月1日が関東大震災であった。
木造の校舎は、講堂などまで全倒壊。・・・・・
・・その前後に北条海岸に出て見て驚いた。
昔の安房中学では、たしか5月だったと思うが、
創立記念日の行事として、海での学年毎のクラス対抗の
7人乗りのボートレースが行われたが、そのボートを
保管しておく艇庫があった。それが何と、はるか
丘の上の方に飛び上がっているように見えるではないか。
もちろん艇庫自体が飛び上がる筈はない。・・・・隆起したわけである。
館山湾の遥かかなたの沖合にあり、我々は水泳の3級(白帽)をもらうべく、
頑張って沖の島往復をやったが、その時代の鷹島は四囲深い海であったのが、
ほとんど歩いて渡れる陸続きと化してしまったのも半島隆起のためである。」
( p592 千葉県立安房高等学校『創立百年史』 )
あとひとつ、関東大震災での隆起のエピソードを引用させてください。
関東大震災当時の安房郡和田町。その真浦地区の威徳院には
元禄16(1703)年の元禄大地震大津波の石碑があります。
それは墓塔として建てられ、1752年に供養塔として立て直され、
さらに、摩滅につき1831年に供養塔が再建されてありました。
その和田町で関東大震災が起きた際に、
港の中は、隆起した岩がゴツゴツと出ておりました。
これについては、「安房震災誌」に記録があります。
「 和田町には火災も海嘯もなかったが、
海水は見る見る減少し、漁港その他沿岸一帯の
岩石は露出せしかば、定めし海嘯襲来せんと、
老若男女は安全地帯へと馳せ集まった・・・・ 」(p215)
この本には、もう一ヵ所記述がありました。
「 和田町は大震当時干潮甚だしく沿岸一帯の
岩石露出せるを見て町民は海嘯襲来の前兆と思ひ、
一家を挙げて山野に避難する者も夥しかったが、
9月15日、農商務省より門倉技師、及川技手の両氏視察せられ
なほ陸地測量部より技師出張せらるるに至り、全然、
ここは土地隆起の結果なるを知るに至った。・・・・ 」(p84~85)