安房の関東大震災。9月1日当日。
電気も電話も不通。電車も道路も破壊され。
大橋高四郎安房郡長は、警察署などと協議し、
郡役所から合計3名の郡書記が、県庁へ向かうこととなり、
警察署からも、急使が立ちます。
そのあとに、
「むろん、県の応援は時を移さず来るには違いないが、
北條と千葉とのことである。今が今の用に立たない。」
(p317 「安房震災誌」)
そこで、久我武雄氏が、大山村への急使となります。
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
急使が到着した記録が残っておりました。
以下は、大山村役場の記録を引用。
「9月1日午後8時頃千葉県農会技手伊藤正平、
北條税務署属久我武雄両氏来着、
稀有の大震災にて北條、館山、那古、船形等は全滅し倒潰せざるものは
房州銀行及び税務署の二棟のみにして死傷者其の数知れず・・・
両氏は・・闇夜ただ一個の古提灯を携え、亀裂凸凹の悪路や
陥落の橋梁を乗り越えて来り郡長の意を述べ、
直に応援出動せられ度旨聞く事々に被害の惨禍は驚愕せざるものなし、
なお病院医師薬剤師宅も倒潰し負傷者の応急手当に要すべき材料なくて、
右衛生材料携帯片時も早く出動方心配せられたく、
又出動者には当然食事を給与なすべくも
罹災民全部食料に窮し目下之れが救助の講究中なれば、
食料は携帯せられ度、なお又堀井戸水道は崩落全く汲むに水なく
飲料水も携帯を乞う有様なれど水はまず如何なる方法によるも
差しつかひなきことなるべく、食料の用意にて足るべき由、
よって時の在郷軍人大山分会長塚越均一、青年団長宮崎徳造の両人は
東奔西走団員会員中自転車所有者を以て先発隊となし、
これに衛生材料、脱脂綿、ガーゼ、アルコール、エーテル石灰酸、
葡萄酒等を取り纏め各人に分与携帯せしめ
大山救護隊なる紙旗を箙(えびら)となし、
ようやく11時頃急行を命じたるに、
夜中の悪路を厭わず2日午前1時18分に着し、救護隊第一着一番乗なりき。
順次徒歩のものもあり午前11時には154名参着せられたるに、
北條、館山、船形の三ヶ所に配置せられ、
分会長塚越均一氏は北條町において総指揮官となり、
青年団長宮崎徳造氏は共に連絡をとり、
出動者食料弁当の焚出し従事し、自宅前に四ヶ所の炊事場を設け
附近の人々の援助を乞い握り飯を作り、残暑なれども腐敗を恐れ
朝昼夕の三食を伝令の通知による人員数により
不足を生ぜざる様に伝送したり。 」(上巻p935~936)
ここに出てくる、急使による『郡長の意を述べ』る箇所など
読んでいると、ポイントを指摘して、至急必要な品の用意を
述べているくだりは、用意周到な意向が伝わってくるようです。