「安房震災誌」の記述から
「死者負傷者の多いのは、村落よりも市街地である。
なかにも鏡浦沿ひの北條、館山、那古、船形の市街地は最も悲惨であった。
今此の4町村に就て見るも、死者は604人・・負傷者は1784人・・。
家屋の倒潰数も之を百分比例で見ると、北條は96、館山は99、
那古は98、船形は92といふ多大な倒潰数である。
したがって病院や医家も、倒潰を免れたものは少数である。・・
北條町でも僅かに北條病院と諸隈病院とが、倒潰を免れたのみである。」(p242)
ここで、安房郡役所と北条病院との位置関係はどうだったのか。
北條停車場(現在の館山駅)から、北條病院へむかって、
倒潰を免れた北條病院の右側が北條町役場。病院の左側が安房郡役所。
さらに郡役所の隣りには北條警察署がありました。
北條病院を残して、郡役所・警察署・役場は倒潰しております。
また、北條町の中目町長は自宅で圧死。
安房郡長・大橋高四郎はというと、
郡長舎宅は倒潰するも、家族は無事でした。
安房郡役所に来てからは、庭前の檜の老樹の下に陣取り、
出来るだけ広く被害の状況を聞くことになります。
それでは、郡役所跡の隣の、倒潰を免れた北條病院ではどうだったのか
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に、吉井栄造氏の文がありました。
「かの堅実な純日本式の郡庁舎も大家高楼を誇った議事堂も瞬時にして
『ピシャリ』倒潰した。・・・・
北條病院の庭内は見る見る内に死体重軽傷者を以て埋められた。
街は見渡す限り住家全潰して道路をおおい交通途絶し電信電話はもちろん不通である。
夜に入るも燈火なく、流言蜚語は次から次へと伝えられ人心は戦々恐々、
こうした悲惨、暗黒、不安はひんぴんたる余震と共に数日間続いた。」(p824)
「安房震災誌」の編纂は白鳥健氏でした。その第2編「慰問と救護」の
はじめの総説は、こうはじまっておりました。
「・・・本編はその惨害を如何に処理救護したか。
即ち自然力に対する人間力の対抗的状態を詳記するのが目的である。」(p210)
そして次のページに、郡長の指示がでてきておりました。
「この際郡当局の最も苦心したのは、こうした人心を平静に導くの方法であった。
もとより物資の欠乏も重大事であることは勿論だが、
この上人心がひとたび自暴自棄に陥ったならば、その波及するところは
予め測定することが出来ないのである。
そこで郡長は、声を大にして、
『 この際家屋の潰れたのは人並みである。
死んだ人のことを思へ、重傷者の苦痛を思へ。
身体の無事であったのがこの上もない仕合せだ。
力を盡して不幸な人々に同情せよ。
死んだ人々に対して相済まないではないか。 』
といって郡民を導き、かつ励ましたのである。
そしてこの叫びは実際において、多大な功を奏した。
万事この態度で救護にあたったのである。 」(p220)
そして、p225∼226には、
郡長が「郡民一般に対して諭告を発した」としてその文を載せております。
「今回の震災は未曽有の惨害にて・・・・・
・・・・・・・
一、 罹災者はこの際勇鼓萬難を排し自ら恢復に努むべし
一、 幸に被害を免れたるものは自己の無事なるを感謝し
万斛の同情を以て被害者を援助すべし
・・・・ 」
「安房震災誌」から、もう一か所引用してみます。
「吉井郡書記、能重郡書記はこういっている。
『 あの時若し死んだならば 』という一語は、
私共には総ての困難な場合を切りぬけるモットーとなっている。
震災直後に、大橋郡長が、廳員の総てに対して訓示せられた
『 諸君はこの千古未曽有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
罹災民の為めに奮闘せられよ 』
には何人も感激しないものはなかった。・・・ 」(p319∼320)
話はかわりますが、コメント欄に、きさらさんが記載してくださった。
臼井真(うすいまこと)作詞・作曲の『しあわせ運べるように』を
昨日ユーチューブではじめて聞きました。
臼井真の紹介文がありました。
「1960年、兵庫県神戸生まれ。
神戸市内の小学校で音楽専科教諭を務める。
1995年、阪神淡路大震災で東灘区の自宅が全壊。
震災から約2週間後、身を寄せていた親戚宅で、
生まれ育った街の変わり果てた姿を
テレビニュースで見て衝撃を受け、
わずか10分で『しあわせ運べるように』を作詞・作曲。・・」
はい。その歌詞を引用させてください。
地震にも 負けない 強い心をもって
亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
・・・・響きわたれ ぼくたちの歌