和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

震災と握飯。

2024-02-27 | 安房
『安房震災誌』をはじめて読んだ時に、印象に残ったエピソードがあります。
それは焚き出しの握り飯に関係する場面でした。まず、その経緯から紹介。
ここでは、瀧田村の震災被害の様子から引用をはじめます。

「 瀧田村における悲嘆の叫びは村を全半して南部に多かった。・・・

  北部は全潰だけは免れたが瓦の落ちたのと壁の崩壊、亀裂、
  家屋の傾斜など相当に被害があった。ただ全く一つの不思議は

  中央小学校校舎の倒潰したのを一つの境として、
  南部平野に阿鼻叫喚の修羅場を現じ、
  北部山谷に静寂の光景を見せたことである。      」(p121)


震災の当日9月1日。安房郡役場の重田郡書記は、県庁へ急使に立ちます。

「・・途中瀧田村役場に立寄り、炊出の用意を託して行ったので、
 翌2日の未明には、山成す炊出が青年団によって、北條の群衙へと運ばれた。

 瀧田村が逸早く震災応援の大活動に当られたのは
 重田郡書記の通報に原因したのであった。・・     」(p236)

ここには、重田嘉一郡書記の手記がありますので、関連個所を引用。

「 飛び出したのは午後3時半である。・・・
  道は被害程度少なき國府村瀧田村を経て
  岩井町に出づる予定で走ったが、途中
 
  比較的被害少なき瀧田村役場に寄り
  鏡ケ浦沿岸の被害惨状を伝へ即時之が救済方を依頼して先を急いだ。

  岩井、勝山と順次被害程度少なきを悟り、
  この程度ならば北に進むに従ひて被害少なきものと確信し得た。

  その時までは千葉市も亦既に全滅かも知れぬと言ふ
  深き不安にかられて居たのである。・・・     」
            ( p248 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


さて、はじめて『安房震災誌』をひらき、忘れがたい場面がありました。
今回の最後に、そこを引用しておきます。

「9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が沢山郡役所の庭に運ばれた。

 すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、握飯をうんと背負ひ込んで、
 北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、之を飢へた人々に分与したのであった。
 また別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。

 兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
 郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、臭気鼻をつくといったありさまである。

 そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに疾病でも醸されては一大事だと
 気付いたので、甚だ遺憾千万ではあったが、その日の握飯の残り部分は、
 配給を停止したのであった。

 ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
 腐ったむすびがあるそうですが、それを戴かして貰ひたい。と、いふのであった。

 それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
 その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。

 ・・・・・そこで、郡当局は、こうした面々に向って
『 よく洗って更らに煮直してたべて下さい 』と条件付きで、
 寄贈品の握飯を分配・・・・

 こうした米の欠乏は、大震動と殆ど同時に来た悲劇である。・・・ 」(p260~261)
コメント (2)
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