安房郡の関東大震災を語るときに、
『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』の2冊が
材料の宝庫でした。
『安房震災誌』の編者・白鳥健氏の言葉を紹介しておくことに。
「 終に私(白鳥)が安房郡役所の嘱託によって、
本書の編纂に干与したのは、震災の翌年のことであったが、
当時は各町村とも、震災の跡始末に忙殺されてゐた・・・・
若し此の小さき一編の記録が、我が地震史料の何かの
役に立つことがあれば・・・ 」と凡例の最後に記しております。
また、安房郡長・大橋高四郎氏は、『安房震災誌』が完成した際には
前安房郡長という肩書で「安房震災誌の初めに」を書いております。
その最後にはこうありました。
「・・本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、
資料も亦た其處に一段落を劃したのである。
そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにしたのであった。
今編纂成りて当時を追憶するば、身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代える。
大正15年3月 前安房郡長 大橋高四郎 」
ここには、もう一冊の『大正大震災の回顧と其の復興』からも引用。
『 編纂を終へて 編者 安田亀一 』(上巻・p978~989 )から
そのはじまりを引用しておきます。
「千葉県の大震災に何の関係もない私が、その震災記録を編纂することになった。
而してそれが災後8年も経ってゐる(引受けた時)ので、
その材料の取纏めや当時の事情の一通りを知る上に、
多少の苦心なきを得なかった。それにも拘わらず私は、
このことを甚だ奇縁とし、且つ光栄とするものである。
あの当時私は大震災惨禍の中心たる帝都に在って、
社会事業関係の仕事に従事してゐた。
しかも救護の最前線に立って、一ヶ月程といふものは、
夜も殆ど脚絆も脱がずにごろりと寝た。
玄米飯のむすびを食ひ水を飲みつつ、
朝疾くから夜遅くまで駆け廻った。
頭髪の蓬々とした眼尻のつり上った垢まみれの破れ衣の人々が、
右往左往する有様や、路傍や溝渠の中に転がってゐる焼屍体の臭気が、
今でも鼻先にチラついてゐる。
電車で本所の被服廠前を通るにも、
私は心中に黙祷することを忘れないのである。
そんな関係で、ここに大震災の記録を綴ることは、
何か知ら私に課せられてゐる或る義務の一部を履行するやうな気がしてならない。」