和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

安房郡震災の流言蜚語の始り。

2024-02-26 | 安房
安房郡の関東大震災でも、流言蜚語はありました。
その流言飛語を、まとめて括ることはせず個々に、
見てゆくことが現代への参考となるかと思えます。

ということで、まずは漁師町から食糧掠奪に来る。
という流言蜚語を、取り上げて見ることにします。

まずは、警察署のあった北條町の、震災被害を引用。

「 ・・斯くまで死傷者の多かったのは、一面には
  北條町が地震の強烈であったことを物語り、多面には
  当時避暑旅客の入り込んでゐた為であったことに原因する。 」
                ( p91 「安房震災誌」 )

 北條町の死亡者は222人。負傷者は268人。( p92 同上 )


つぎに、漁師町であった船形町の、震災状況を引用。

「 ・・家屋の倒潰に加ふるに枢要なる区域の大部分は
  火災の為めに烏有に帰した。町民の大部分は漁業に
  従事し、農家は同町戸数の1割に足らざる状態なるが故に・・」
                      ( p96 同上 )

  船形町の死亡者は132人。負傷者は290人。 ( p96 同上 )


この状況に放り込まれて、そこに流言飛語がわきおこるのでした。

「 ・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され、
  人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・・
    ・・・・
 『 今、那古方面より、暴民大挙八幡、湊付近まで来襲しつつあり、
  船形の漁民が食糧品奪取の目的なるらし、其の襲来の合図があった。  
  即ち先刻乱打された警鐘がそれである。
  私は町内各自の警戒を促し来れり 』と、 訴へ出たのである。 」
          ( 『大正大震災の回顧と其の復興』上巻のp894~896 )

この箇所は、昨日詳細に引用し流言飛語だったと分かります。
この場合の、『流言 蜚語』を、とりあげてみたいと思います。

『 人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった 』とあります。
その『悲壮の極み』へ、薪をくべるような要素があったのではないか。

そういう思いで、この時代の歴史を振り返ってみますと、
大正7年に『米騒動』というのがありました。7月22日
富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会がそのはじまりでした。

「 9月17日・・・暴動でおさまるまで、すべての大都市、
  ほとんどすべての中都市、全国いたるところの
  農村、漁村、炭坑地帯など、1道3府38県、およそ
  500カ所以上に飢えた民衆の大小の暴動、あるいは
  暴動直前の不穏な状態として出現した・・  」
          ( 「米騒動の研究」第1巻(有斐閣)のはしがきより )

この井上清・渡部徹編「米騒動の研究」(有斐閣・昭和39年)全5巻の
第3巻をひらくと、千葉県での米騒動も記録されておりました。

安房郡の関東大震災直後に、空腹をかかえながらの避難民に、
以前の『米騒動』が鮮やかに頭の中で結びついたのではないか?

「 ・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され、
  人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・・ 」

このような状況のなかで、新聞で大々的に報道された5~6年前の記事が
避難民の中に共有されていたから、流言飛語へと容易に結びついたのでは
なかったのでしょうか。

まあこうして、活字でもってあれこれと類推をたくましくしてる、
私にしてみれば、いざ、関東大震災のその状況の中におかれたら、
まっさきに、流言蜚語を振りまく一人となっていたかもしれない。

そうならないためには、日頃から、どうすればよいのか?
その心構えが、平素から必要なことなのかもしれませんね。






  


コメント
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