私はろくすっぽ泳げなかったけれど、
いちおうは、海辺で育ちましたので
生れてしおに浴(ゆあみ)して
浪を子守の歌と聞き、
千里寄せくる海の気を
吸いてわらべとなりにけり。
( 「尋常小学読本唱歌」明治43年7月 )
という、唱歌「われは海の子」の二番は、身近に感じられます。
ところで、唱歌「故郷」は「尋常小学唱歌(六)」大正3年6月。
唱歌「故郷」のはじまりの言葉「 兎追いしかの山 」のことが
思い浮かぶので備忘録がてら知らない世界なので記しておきます。
松田道雄著「京の町かどから」(昭和37年)のなかに
「ウサギ狩り」と題する文があるのでした。そのはじまりから
ここは、長くなりますが、貴重だと思うので引用しておきます。
「 こよみのうえで寒があけようとするころ、
盆地の京都は一年で最低の気温になる。
愛宕山や鞍馬山の尾根はいつみても白い。
比叡おろしに肌がいたい。
この時期をえらんで、私のいっていた中学では
毎年ウサギ狩りをやるのだった。朝まだ暗いうちに、
一番電車にのっていって校庭にあつまる。学年ごとに一隊となって、
それぞれの方角にわかれて出発する。
京の町は南をのぞいて、まわりはみんな山である。
いまのように、山すそまで人家がたてこんではいなかった。
町はずれから山までは、田んぼや畑のなかの細い道を、
霜柱をふんで、かなりながい距離をいかねばならなかった。
その途中で、すっかり明るくなるのだった。
ウサギ狩りは、ひどく原始的な狩猟法であった。
奥山にえさがなくなって、畑に近い山に移動してくるウサギを、
山をかこんだ勢子(せこ)がおいあげて、山の背にはった網に
ひっかかるのをつかまえるのである。
ウサギは耳のさとい動物だから、私たちは山に近づくと
いっさい口をきいてはならないと、言いわたされていた。
中学の子どもが、ながいあいだ絶対の沈黙をまもらねば
ならぬということは、かなりの苦痛であった。
いよいよ山のすそにつくと、甲組、乙組、丙組とわかれていた私たちは、
それぞれがコの字の一辺をなすようにして、山をとりかこむ。
両わきにあたった組は、こんどはもっと隠密に、音をさせぬようにして、
一列になって山をのぼっていかなければならない。
五十人のクラスの生徒が、三、四㍍の間隔にたてにならぶと、
ちょうど山の下から、上までとどくのであった。
コの字の、あいたほうを山の背にむけて、そこに網番にえらばれた
三、四人がすばやく網をひろげて、はりめぐらす。
こうして用意がおわると、総監督の体操の先生が、
いま交通巡査がつかっているのとおなじ笛を吹きならす。
山のすそから、これも、三、四㍍の間隔にならんだ一組が
いっせいに山をのぼりはじめる。
『ほーい、ほーい』
山にこだまして、勢子の追いあげる声がひびく。
・・・・・・・
ウサギは、山をかけのぼるほうが得意であるらしく、
それを利用しての狩猟法なのだから、『ほーい、ほーい』を
忠実にやっていれば、下にはむかってこない。
ところが、道のない坂をのぼりながら、『ほーい、ほーい』を
ひっきりなしにどなることは、生理的にかなり困難な作業であった。
それでも、やっと木立と灌木のしげみを脱して、
あかるい山の上の平地にでたとき、網番が黒褐色の
こわい毛の大きいウサギの耳をつかんで、みせてまわって
いるのにあうと、つかれを一度に忘れてしまうのだった。
この原始的な狩猟法は、あまり能率のいいものではなかった。
ウサギが一度に二羽以上とれることはなかったし、
一時間か一時間半かかって、一山を追いあげても、
一羽も獲物がないということもめずらしくなかった。
それに一つの山を狩ると、もうその近所の山のウサギは、
奥山に逃げてしまうので、つづいて近所でやるということはできなかった。
第二回の狩猟をやるためには、また一時間か二時間、沈黙の行軍をやって、
もっとふかい山にはいっていかねばならなかった。・・・・・
せいぜい、三つか四つの山を狩ると、もう陽はかたむきかけ・・
こんどは、いままでの沈黙をとりかえすような気持で、合唱したり、
しゃべったりしながら、六尺棒に四肢をしばったウサギを通して、
おかごみたいにかついだ網番たちを先頭に校庭にひきあげていった。
・・・・・・・・・・・・・・
私たちは校長の森外三郎先生のみじかい慰労のあいさつをきいてから、
ウサギ汁を『立食』した。ニンジンやダイコンや油あげの
きざみこんである京都式のカス汁であった。
野ウサギがどんな味がしたものか、てんでおぼえていない。
ウサギが足りないので、まぜられていたブタしかあたらなかったせいだろう
それでも、早起きしたうえ一日かけずりまわったあとの、
ウサギ汁はおいしかった。・・・・ 」
松田道雄は、1908年(明治41年)生れでした。
ちなみに、1982年発行の「洛々春秋 私たちの京都」(三一書房)。
この鼎談に、こんな箇所がありました。
松田道雄】 ウサギ狩りちゅうの、ありませんでしたか? あのころ
天野忠】 ああ、学校から連れていかれました。 ( p107 )
はい。唱歌の『故郷』のその一行目に、この原始的な
狩猟法が記してあったなんて、思いもしませんでした。
コメントありがとうございます。
コメントを読んでいたら、そういえば、と思い、
古本で安かった東邦出版(2017年)の高橋こうじ著
「日本の童謡・唱歌をいつくしむ」をひらく。
それは、p52にありました。
「作詞者、高野辰之が子どもだった頃、
生地である長野県下水内郡永江村、
現在の中野市近辺では、冬の行事として
集団でのうさぎ狩りがおこなわれており、
『うさぎ追いし』の詞は、その様子を
回想したものと言われています。
子どもたちがうさぎを追い、
待ち受けるおとなたちが捕獲する、
という分担だったようです。 」
うん。あるいは今でも長野県などでは、
この言葉が想起するイメージがあるのかも。
W.H.オーデンの言葉に
『 詩人の望み。
どこかの谷でできたチーズのように
その土地特有のものだが、しかも
よそで称賛されること。 』
うん。うる覚えですが、そんなのが思い浮かびます。
へえ~という思いです。
「兎追いしかの山」に
こうした山狩りで追い詰める猟があったとは。
単純な方法ではあっても大がかり? それでいて収穫は少ない。
情景もよく想像できますね。
耳から入ってくる言葉には映像があるから…。
確か角野栄子さんが言われていたと思うのですが。
歌っているうちに何かしらイメージが描かれていくのでしょうか。
「立食」の話はオモシロイですね。
コメントありがとうございます。
知らずして歌っていたくせに、
それでも伝わるものはあって、
あれは、一体なんなのだろう。
はい。こういう疑問は大切に
してゆきます。
知って歌うのと知らずに歌うのとでは雲泥の差があります。