和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

柿と白菜(その1)

2007-12-25 | Weblog
まえにこのブログで書いたものをまとめてみました。
まとめた方が、ネット検索した時に読みやいだろうと思ったからです。
画家佐藤哲三と詩人尼崎安四とをとりあげております。

柿をもらいました。庭になった柿です。
たくさんもらったのを毎日食べていると、柿の話がしたくなってきます。
部屋には、ここ数年「富山和子がつくる日本の米カレンダー」が掛かっております。
そういえば、その11月は「柿と伊吹山」と題した小文と写真。白く雪をかぶりはじめた伊吹山を背景にして前に柿の木が写っております。葉が落ち枝の隅ずみまで柿がなっています。ここに、添えられた小文を引用してみます。

  柿は日本原産の果物
  日本を起源として世界中に広まった木
  保存食になり葉もヘタも薬用になり
  柿渋は塗料になり
  日本中に植えられた
  カキの語は「ディオスピロス カキ」という
  学名にもなっている
  日本の並木道の歴史は古いが
  始まりは柿や梨など果物のなる木の並木
  古代、街道に植えさせたもので
  飢えた旅人を救うためだった
  豪雪で知られ
  日本武尊や信長ゆかりの霊峰伊吹山の
  この雪姿を背に色づいた柿を見ると
  深まり行く日本の秋の
  原風景を思う

う~ん。いままで、気にしないでカレンダーを見ておりましたが、何げなくも小文と写真が呼応しているように思える瞬間。あらためて写真を眺めておりました。身近に住んでおられる人が目にしている、そんな何げない視線で伊吹山がとらえられており、それが伊吹山とも知らずに、つい何げなく見逃しちゃうところでした。
柿といえば、正岡子規の有名な俳句が思い浮かびます。
その明治28年の句を、すこしまとめて引用してみましょう。

 川崎や梨を喰ひ居る旅の人
 柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな
 渋柿やあら壁つづく奈良の町
 渋柿や古寺多き奈良の町
うん。古寺といえば、和辻哲郎著「古寺巡礼」がありますね。
大正8年に出版されております。たしか、明治維新以来捨てて顧みられなかった奈良付近の古寺を訪ねた印象記でしたですよね。
ということで、また正岡子規の句にもどります。

 町あれて柿の木多し一くるわ
 柿ばかり並べし須磨の小店哉
 村一つ渋柿勝(がち)に見ゆるかな
 嫁がものに凡(およ)そ五町の柿畠
   道後
 温泉(ゆ)の町を取り巻く柿の小山哉
  法隆寺の茶店に憩ひて
 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

ところで、柿ということで、私に思い浮かぶ絵があります。ここに書いてみます。
3年前(2004年)。東京ステーションギャラリーに佐藤哲三展を見に行ったことがあります。立ち去りがたくって、展示会場をうろうろしておりました。うろつくたびに印象に残る作品が違ってくる。最初はどの絵に興味をもったかというと、柿の絵でした。「コドモと柿の夢」という作品。縦46.0×横75.5の油絵。ちょうど右上角から左下角へと河がゆっくりと流れているように、柿が並べられています。いくつかは枝の葉もそのままに描かれ、青い柿も混じっており、色のコントラストは鮮やか。きちんと描かれたそれら柿の後方にまだ習作のような描きかけの丸い柿が輪郭もボヤケて描きこまれ。そういう柿の丸さと同じ大きさでもって子どもたちの顔が、背景のここかしこに描き込まれているのです。それがまるで、ぼやけた柿に目鼻をつけたような何ともワイワイガヤガヤとした絵です。机に両手をだして柿をほうばっているような姿。その脇でものほしそうに見ている子ども。お絵かきやら積み木やらしている様子の子もおります。うつ伏せで顔をこちらにむけて眠っている子ども。大人の腹の上に頬と手をのせている子ども。裸のあかちゃん。そう。子どもといってしまったのですが、ほとんどが赤ちゃんからすこし大きくなったかなといった丸顔をしております。そうした背景の前にもぎたての葉も新鮮な柿がきちんと描かれているのでした。
その楽しさは、たとえばマチスの絵などを思い描いてみてください。模様の壁紙を背景にして描かれた人物画。それが佐藤哲三の絵では、子ども模様を背景にして中心に柿を描いているのです。人物と背景とが見事に逆転したような描き方。いま思うとそういう面白さなのですが、ギャラリーを訪れた時には、ただ何となく微笑んでしまう面白さとして印象に残っていたのでした。

芥川喜好編・文「画家たちの四季」(読売新聞社・1994年)という画集があります。
そこには佐藤哲三の「田園の柿」が絵とともに紹介されておりました。
その絵は昭和18(1943)年作とあります。
「『田園の柿』は、そのころの作としてはめずらしく明るい、野性のにぶい輝きに満ちた絵だ。物資欠乏の折、柿だけは豊かだった。この大地への愛、大地が贈ってくれた素朴な果実への愛が、率直に伝わってくる。幼いころ脊椎をわずらい、病弱だった佐藤は、しかし明朗で健康な精神の人だった。晩年の代表作には悲痛な情感をたたえたものもあるが、この柿に見られるように、基本的に彼のめざしたのは『あたたかさ』だったといってよい。・・」


え~と、ちなみに「コドモと柿の夢」も、
「田園の柿」と同じ昭和18(1943)年に描かれておりました。


彌生書房より「定本尼崎安四詩集」が出ております。
その尼崎安四の詩に「柿」があります。


    柿

 暗い山がある 暗い野がある 暗い空がある
 暗い世界の中に人間のともした灯火でなく
 空と地がおのづからともした灯火がある

 往くところいづこにも熟れる枝々の柿
 陽と月の周期につれてめぐつてくる
 地球の上の翳りにも似て この季節
 地の涯からあげ潮のやうに覆うてくるとり入れの色

 崩れた古い寺の庭に 人住まぬ兵舎の跡に
 柿の実は人の知らぬ期待のために輝いてゐる
 永劫にめぐつてくる寂かさの中のいとなみの輝き
 言葉のないその歩みはただ見えぬものの歩みにつれてめぐるばかり

 森の野の風にとぼり消える灯火でなく
 人のとぼし 人の吹きけす幻でなく
 暗い山に 暗い野に 暗い空に
 木枯しの中にもおのづからともつてくるひそかなその灯


この詩には「人住まぬ兵舎の跡に」とありますから、
おそらく戦後の荒廃した風景に
立つ柿の木を詩にしているのかと思われます。



柿を食べおわる頃に、台所にあるのは白菜。あたたかな鍋料理にかかせませんね。
この時期、白菜(はくさい)はお新香にしても、鍋料理にしてもおいしいですね。
寺田寅彦の俳句に「塵の世に清きものあり白菜哉」というのがあります。


寺田寅彦といえば、「柿の種」という本があります。
そこには、寺田寅彦が書いた俳句雑誌の巻頭随筆が集められております。
それですから、短章の文の終りには、掲載された年月が記載されて文章がならんでいます。
はじまりは大正9年5月からでした。
そうして、読みすすむと関東大震災に遭遇し、それからのことも、書きこまれておりました。その時間的経緯をたどることもできそうなのです。

たとえば、昭和2(1927)年7月の短章に

「ラジオの放送のおかげで、始めて安来節や八木節などというものを聞く機会を得た。にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。自分は、なんとなく、霜夜の街頭のカンテラの灯を連想する。しかし、なんと言っても、これらの民謡は、日本の土の底から聞こえて来るわれわれの祖先の声である。・・・・
われわれは、結局やはり、ベートーヴェンやドビュッシーを放棄して、もう一度この祖先の声から出直さなければならないではないかという気がするのである。」(p92)

関東大震災が大正12(1923)年ですから、4年後の書き込みなのですが、
私には、続けて読んでいると、何となく震災をくぐり抜けてきた人の思いが感じられるのです。まあ、それは私の個人的な感想かもしれません。
ところで、大正12年11月の短章には、こうあります。

「震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった樹の幹に鉛丹(えんたん)色のかびのようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。樹という樹に生え広がって行った。そうして、その丹色(にいろ)が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さびの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映え合っていた。道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖していた。そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦土の上に、早くも盛り返してくる新しい生命の胚芽の先駆者であった。
三、四日たつと、焼けた芝生はもう青くなり、しゅろ竹の蘇鉄(そてつ)が芽を吹き、銀杏(いちょう)も細い若葉を吹き出した。藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰って来た。焦土の中に萌えいずる緑はうれしかった。崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。」


寺田寅彦著「柿の種」に出てくる「笑い」という言葉は、さまざまな登場の仕方をしており、興味ある視点を提供しております。けれども「涙が出た」とあるのは、めずらしいと私には思われました。

これは震災後の状況を書かれておりますが、
戦争中のことを書いた文を思い浮かべました。

V.E.フランクル著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房)にある、
あの有名な箇所が浮かんできました。そのエピソードは一人の若い女性のことでした。

「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。・・・その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。『あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。』と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。『この樹とよくお話しますの。』と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女に訊いた。『樹はあなたに何か返事をしましたか?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?』彼女は答えた。『あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・。』」(p170~171)

ここから、尼崎安四の詩へとつなげたいのですが、
諌川正臣は尼崎安四の病状が急変した際に病院へ訪れて、手帳やノートのメモ的なものを、写しておかれたそうです。「定本 尼崎安四詩集」の拾遺詩集の最後に、その写した言葉が載っております。

     ひよつと

 さあ いよいよ これからだ
 このメスが僕の腹に立つと

 ひよつとしたら死ぬかも知れない
 「ひよつと」といふ事実は非常に微妙なのに
 僕の心は労働者の手のやうにぶざまだから
 却々 ひよつとがのみこめない
 それに死とは 変化であつてもう還元はしないといふことなのだ
 生きてゐる僕は 空でも木でも草でもあるんだが
 死んだ僕は多分草なら草一本きりになつてしまふんだ


尼崎安四の詩「白菜」は、そういえば、霧からはじまっておりました。
ここに、引用してみます。

    白菜
          和清湘老人極戯墨

 霧がつめたく
 白菜の白い根が光つてゐる
 その光にはじかれた露の流れ

 土を出て光る根の軸がまつすぐ空へのびる
 光りつつ固く抱き合つて沈黙し
 全身にこめた力の深い寂かさにゐる

 のびる軸のまはりのあいまいなもの
 風にゆれ 霧にふるへる 青いはつぱ
 ふたしかな位置で ふたしかな形にひろがつてゐるものら

 空は暗く 地は涯しなく暗く
 一すぢの光る軸ばかりが趨つてゐる
 霧の中を もやもやのはつぱの中を あいまいなものらの中を
 貫きてらし 涯しない世界に結晶させる 白菜のひかり


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