安野光雅美術館と、ちひろ美術館。
そこに登場するお二人の方を思う。
① 竹迫祐子(たけさこ・ゆうこ)さんの略歴を見ると
「1956年、広島県生まれ。安曇野ちひろ美術館副館長。
1984年より、いわさきちひろ絵本美術館に勤務・・」
② 大矢鞆音(おおや・ともね)の略歴
「1938年東京に生まれる。・・・・
・・NHK 出版編集顧問。
2001年3月開館の津和野町立『安野光雅美術館』館長。」
え~と。略歴は、本にあるものでした。
大矢鞆音著「画家たちの夏」(講談社・2001年)
竹迫祐子編「初山滋 永遠のモダニスト」(河出書房新社・2007年)
二冊同時に紹介すると煩雑になるので
今回は、竹迫祐子さんの本をとりあげます。
じつは、初山滋を最近になってしりました。
うん。知らずに通り過ぎていたのですが、
たとえば、柳田国男の「こども風土記」に
描かれていた絵は、初山滋でした。
それに、教科書の表紙も描いておりました。
この本には、光村図書の
『小学新国語六年上』表紙(1961年)
『小学新国語三年上』表紙などが載っていて、
その脇には紹介文があります。
「子どものためにこそ本当の芸術を届けたい。
画家は、自分の装飾美の集大成ともいえる作品を描いた。
1957年(昭和32)4月から1979年(昭和54)3月までの
22年間・・・いつも子どもたちとともにあった。 」(p82)
本の「おわりに」は、竹迫祐子さんが書いております。
そこから引用しておくことに。
「1972年(昭和48)2月、初山滋の訃報を受けて
いわさきちひろは、顔面蒼白となり、とるものもとりあえず、
向山の家を訪ねたといいます。
・・・・・・・
日本では、そして、世界でも、絵本のイラストレーションが
美術として扱われることなく、長い年月がすぎ、
多くのすぐれた作品が破損し、散逸してきた現実のなかで・・・
生前の初山滋は、子どもの本のイラストレーションを
美術として真摯に取り組み、また、その画家の立場を
守ることに力を尽した人ではありました。 」
このあとに、竹迫さんは、エピソードを添えることを忘れません。
「けれど、それに反して、こと自分のこととなると、
惜しげもなくその作品を人にあげた、
とくに女性に希望されると断れなかったといった
エピソードは有名です。
そんな人間くささも、この人の限りない魅力のひとつでした。
粋でいなせで、そのくせ、無頓着ともいえる格好を好み、
もののない時代にタバコ欲しさに
空襲のなかでも版木を彫りつづけるくせに、
戦争のために絵を描くことはしなかった。
初山滋という画家の、本質を見極めていく目の鋭さと、
真実をみつめる目の確かさや感覚のまっとうさは、
今の時代に多くのことを教えてくれるように思います。
・・・ 」
( p157 「初山滋 永遠のモダニスト」らんぷの本 )
はい。最近の収穫でした。
古本で見て読める楽しみ。
ただ、今日取り上げられているお二方については、まったく存じ上げませんでした・・・
初山滋さんの穏やかで温かな挿絵は印象に残っています・・・ 大切なことを思い出させて頂いた思いでおります。 ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
「ふたつの美術館」と題しながら、
じつは、私は安野光雅美術館へは、
行ったことがありません。
言い忘れました白状しておきます。
はい。飛躍しすぎましたけど、
まあ、いいかなあ。
「子どものためにこそ本当の芸術を届けたい」
「22年間・・・いつも子どもたちとともにあった」
初めて知る初山滋という画家です。人柄がうかがえますね。
世田谷美術館館長・酒井忠康氏の著書(『鍵のない館長の抽斗』)にあった一節が思い出されました。
美術との接触・鑑賞によって子供たちはこころの下塗りをする。
ものの見方の面白さや、様々な感受の仕方があるということを知る。
いかなる創造活動も、この下塗りの如何にかかっている。
美術教育が学校現場から削られていくことへ意見をした、ということでした。
「美術と絶縁した世界で育った人はいないのである」と。
美術関連の本を読むことは少ないので、印象に残っているようです。
コメントありがとうございます。
世田谷美術館館長・酒井忠康ですか。
なんだか、美術館つながりで豊かな
気分になります。
コメントありがとうございます。