和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

いやむしろ。

2021-07-20 | 本棚並べ
『生活』という言葉が、気になっております。
たとえば、板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)に、
こんな箇所があり、何だろうと、気になっておりました。

「・・・・われわれは生きるために働かなければならにけれど、
働くために生きているのではない。

自分の仕事を専門と呼ぶなら、同時に自分の生活も専門と呼ぶべきだ。
家庭生活も社交生活も、趣味も嗜好も、すべてわれわれの専門であるべきだ。

いやむしろ長い人生から見れば、人生の重要な部分は
生活の方にあると考える方がよい。」(p39~40)


はい。まったくノロいのですが、65歳を過ぎるころから、
この『人生の重要な部分は生活の方にあると考える方がよい』
という指摘を後生大事にして、考えてみたくなりました。

まあ、そういう視点から
梅棹忠夫著『知的生産の技術』の『はじめに』を読むと、
こうあります。

「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、
組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、
ということにもなりかねないのである。

組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、
などというのは、まったくばかげている。
あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである。」
(p18)

『はじめに』には、もう一箇所「合理主義」という言葉がでてきます。

「合理主義に徹すればいい、などと、かんたんに
かんがえてもらいたくないものである。

技術という以上は、ある種の合理性はもちろん
かんがえなければなるまいが、知的活動のような、
人間存在の根底にかかわっているものの場合には、

いったいなにが合理的であるのか、
きめることがむつかしいだろう。

機械や事務組織なら、きわめて目的合理性の
たかいものをつくることもできるだろうが、
人間はそうはゆかない。・・・・」(p20)


さてっと、1988年には、岩波新書から
『私の知的生産の技術』という読者からの募集原稿から
選ばれた入選作12編でなる一冊がでます。
そこに梅棹忠夫氏は序論ふうの文章を載せました。
その梅棹氏の文の最後を引用しておきます。

「はっきりいって、知的生産のエネルギーが
はげしくほとばしりだして、技術開発も情熱的におこなわれるのは、

どうも実用や仕事よりも、たのしみごとないしは
あそびの分野においてであろうといえば、いいすぎであろうか。

企業や組織の内部では、仕事はおおむねルティーン・ワーク化し、
マニュアルも確立していて、創造的な知的生産はできにくいのかもしれない。

それはそれでよいのであろう。
知的エネルギーが大量に個人のたのしみごとにそそがれ、
創造性もその場面において展開するというのも、
ある意味ではもっともなことである。

それによって個人の人生の充実がえられるのならば、
それでよろしいではないか。
『知的生産の技術』という本のはたした役わりも、
そのへんのところにあるのかもしれない。」
(p261「梅棹忠夫著作集 第11巻」)






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