和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あついなあ、いうて。

2022-06-30 | 本棚並べ
杉本秀太郎の「夏涼の法」を探すと、
あんがいに、簡単に見つかりました。

杉本秀太郎著「洛中生息」(みすず書房・1976年)。
目次では、第4章「心象風景」にはいっておりました。

はい。「夏涼の法」は、はじめて読みます。
といっても、4ページほどです。ありがたい。

大阪生まれで京都びいきの友人との話が出てきます。
その友人は「冷暖房自在の家を、京都の南郊に建て」たのでした。
そのルームクーラーの友人が、杉本さんに語りかける場面でした。

「――やっぱり夏はああ暑う、あついなあ、いうて、
 なんにもせんと、ひっくり返ってるのがええわ。
 夏は暑がっているのが文化いうもんや。君がうらやましいわ。

 クーラーを使ってはいない私の苦笑もかまわず、彼はつづけて、
 
 東京の文化人のように別荘避暑地というものをもつ習慣のない
 ことを京都人の長所として指摘し、別荘避暑地代りに工夫された

 町なかの夏の年中行事を称賛するのであった。

 七月の、ほとんど一箇月つづく祇園祭、
 土用丑の日の上賀茂みたらし参り、
 六道さん、五山の送り火、地蔵参り、等々。  」(p199 単行本)

これに同感する杉本さんは、考えます。

「 もともと京都人の夏涼の法は、
  霊(たま)の信仰行事に托した遊楽によって暑さを忘れる法か、
  さもなければ、一種の見立ての方式にもとづいているのだ。
  ・・・・    」

うん。短い文のなかに、あれこれ詰まっているのでカット。
それでも、なけなしの京都の夏の長所も、あげております。

「 昼のあいだが耐えがたく暑くても、
  日が落ちて、夕闇が深まるにつれ、
  京都の市中には、北の山地から
  涼しい空気が流れこんでくる。
  これが救いである。  」


うん。私には分かったようで分からない。
分からないようで、分かったようなチンプンカンプン。
そう思いながら、ページを閉じ、単行本の表紙を見る。

表紙のカバーには、祭りの装束姿なのでしょうか
『棒振り』(明治初期 四條派の画師 村瀬玉田 画)。

そのカバーをとってみると、表紙には
『大原女』(「浅井忠図案集」より)がニッコリ。

見返は、「京町絵図細見大成(天保2年7月)より」
建仁寺と川をはさんで京町のゴチャゴチャ絵図。

扉には、「祇園囃子の譜帖より」とあり、
譜帖にカタカナが読める。
「ヨヲイ トントコトントコトン トコトントコトン
  ソコジャ ソレ テテ ・・・・」

うん。なにやら七月の祇園祭に町屋に招かれて、
祇園囃子の練習の音でも、もれ聞いている気分。
これって、装幀による一種の見立てなのかなあ。



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