杉本秀太郎著「洛中生息」が手元にあるので、
そのなかの「神遊び 祇園祭について」を改めて読む。
はじまりは藤枝静男著「欣求浄土」を紹介し、
その宮司の声と所作を引用しているのでした。
「 突然、宮司が『オーッ、オーッ』というような
叫び声をあげて神を呼びはじめた。・・・ 」
この声に導かれるように杉本秀太郎は
ご自分の祇園祭を語り始めるのでした。
「・・祇園囃子を子守歌にして育ったようなものだ。
もっとも、この子守歌は、二階囃子といって
お囃子の練習がはじまる六月末から七月二十四日までの
子守歌なのだが、幼少期を通じてほぼ一箇月のあいだ、
毎日かならず聞いていた・・・・」
「 祭の近づいたことをカミに知らせるのは、
・・・・・祇園囃子の練習開始である。 」
こうして祇園祭は、囃子の話からはじまります。
それが導入部です、ここだけでも引用しなきゃ。
「梅雨明けまでに、まだ幾日もある六月のかわたれどきに、
・・家には二階囃子が聞こえてくる。
能楽で用いるのとおなじ太笛が、幽婉とした曲想をかなでて、
カミをさそう。・・鉦叩きで内がわの縁辺と底とを打叩く・・
太鼓が、下方から笛と鉦とを支えながら・・
前へ、前へと衝迫的にこころをそそのかすリズムを刻み、
カミのこころに、ときめきを起こさせる。
祇園囃子といえばコンコンチキチン、コンチキチンと、
人びとは受取ってしまうが、二階囃子の練習期間に、
祭の音楽の担い手たちがくりかえし練習するのは、
そういうふうに聞こえるせわしない囃子ではなくて、
・・・きわめてゆるやかで荘重な曲である。しかも、
単に一種類ではなく、そういう曲がいつくも・・・
七基の鉾三基の曳き山それぞれにまたちがった曲が、
それくらいずつ伝えられていて・・だから、半月近くも、
毎晩そういうむつかしい曲を、ことさらに練習するのである。
七月十七日の山鉾引きまわしの日・・・
それらの曲は出鉾囃子と称して、鉾が四条通をまっすぐ
東へすすむ数町のあいだだけ奏される。そして四条通の
まっすぐ東の突き当りといえば、八坂神社である。
出鉾囃子は、つまり神楽囃子のようにカミに奉納する音楽であり、
また舞いをともなっている。舞い手は鉾のうえに乗っている稚児である。
『コンコンチキチン、コンチキチン』というふうに聞こえる囃子は
戻り囃子といって・・町かどを折れてしまってから奏される。
すでに戻りにかかっているのだ。戻り囃子もまた二十曲、三十曲と
曲目があり・・くりかえし練習される・・こころせわしい曲だ。
・・そして、カミとヒトとの別離がもう間近いことを予感している
悲しみが、戻り囃子には表現されている。」
はい。このあとでした。杉本秀太郎氏は、カミとヒトとを語ります。
「 戻り囃子の時間は、
ヒトは、カミからヒトへと戻ろうとし、
カミは、ヒトのもとを去ろうとして後ろ姿を見せている。
ヒトは突然、カミの姿を見失う。
カミは、来年ふたたびあらわれるためには、
ここで姿を消さなければならないのだ。・・・ 」
はい。杉本秀太郎氏の「祇園祭」の文は、とりあえず半分
なんですが、私はこれで満腹。はい。ここで中〆とします。
どういうわけか思い浮ぶのは、徒然草の第137段でした
( ここは、島内裕子さんの徒然草訳でもって引用 )。
「それはさておき、賀茂祭では、牛車や簾など、どこにも
葵の葉を懸けているのが何とも優美だ。
夜がすっかり明けきらぬうちから、目立たぬように、
行列がよく見える場所を取るために、牛車があちこちから寄せて来る。
・・・
そうこうしているうちに祭が始まり、面白くもあり、
また華やかなきらめきが素晴らしくもあり、
さまざまな様子で行列が過ぎてゆく。それを見ていると、
本当に飽きることなく、あっという間に、祭りの一日が終わってしまう。
いつの間にか夕暮れになって、通りに面して
あんなにも立ち込んで並んでいた牛車も、また、
ほんの少しの隙間もなくぎっしりと並んでいた見物の人々も、
いったい、いつの間にどこへ行ってしまったのだろうか、
・・・・
この一日の明け方から夕暮れまで、都大路のありさまの
すべてを見るのこそ、本当に賀茂祭を見たということになるのだ。
華やかな行列を見るだけが、祭を体感することではない。
・・・・・・・・ 」
はい。吉田兼好が観た賀茂祭と、
杉本秀太郎のよく知る祇園祭と、
その両方が同時に肩を並べます。
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