和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

新美南吉詩集。

2008-11-23 | 詩歌
新美南吉詩集が角川のハルキ文庫で出版されております。これ、私には楽しい読了感があったのです。楽しいと、ついつい、あれこれと思いながら詩を読みすすみました。う~ん。それをどういえばよいのやら、たとえば、こんな具合です。


俗に現代詩と呼ばれるジャンルがあるわけです。私には、どこから読んでよいのやら、戸惑うばかりの詩の一群。素人が下手に読み齧ると迷路にはまり込むような雰囲気があります。それにしては、現代詩をつくられる方々は、まるで水道の蛇口をひねって自家製のコップに水をそそぐようにして、作詩をしているように感じられる不思議。ということで、現代詩水道水説というのを、ちょいと私は思い浮かべたわけなのです。

たとえば、養老孟司さんは対談で、こう話しております。
「水がまずくなった。山へ昆虫採集に行って山の水を一週間飲むと、東京の水が飲めなくなります。口に近づけただけで臭いますから。毎日飲んでいると気がつかないだけです。先日浦和で講演したときにお茶を出してくれたのですが、やはり臭いがきつい。水道の水で淹れたことがすぐにわかりました。昔は、金魚を飼うときにいきなり水道水を入れちゃだめだと言われたものですが、その通りです。」(「本質を見抜く力」PHP新書p216)

(ちょっとそれますが、竹村公太郎著「日本文明の謎を解く」の中に「ローマ衰亡から見る命の水道」という魅力的な文があるのです。引用新書の続く箇所などは、それとうまく呼応しておりまして、養老・竹村対談が楽しめるのでした。)


さてっと、現代詩を、現代という水道水をつかった、活字というイメージでとらえと、すっきりとします。そして、新美南吉の詩を、この文庫で読むとですね。あらたに詩の源泉に口をつけているような錯覚を覚えるのでした。と、ここまでが前口上。では、ついこんな連想をしてしまった、きっかけになった新美南吉の詩を引用しましょう。

   泉(A)

 ある日ふと
 泉が湧いた
 わたしの心の
 落葉の下に
  ×
 蜂が来て
 針とぐほどの
 小さな泉
  ×
 しやうもなくて
 花をうかべて
 ながめてゐた

  この詩が、最初の方のp40にありました。
  この文庫詩集の最後p217、に登場していた詩はというと、

  泉(B)

 この泉の水を汲んでくれ
 これはささやかな泉だ
 恰度茶わんに一ぱいほどの水だ
 だが見てくれ
 この水は清冽で
 ま新しいのだ
 無限の青空が
 そのはりつめた方寸のおもてに
 くつきりうつつてゐるではないか
 しんと動かないが
 耳を近づけてきいてくれ
 その底にしんしんと
 力のみなぎるつぶやきが
 聞こえるではないか
 この泉は四方の大きい岩を
 じみじみと永い日夜をかけて
 絶えずしみとほつて来た水が
 一切の汚辱を去り、
 みぢんのにごりもとどめず
 今朝ここに充ちたものだ
 見てくれ、底の砂粒の一つ一つが
 宝石のやうにきらきらしてゐる
 塵一つ、枯葉の片(かけ)一つ
 沈んではゐない
 もつと頬をその表面に近づけて
 見てくれ
 水のやうな息吹が
 泉からたちのぼる冷気が
 君の感覚をさしはしないか
 さあ
 この泉を汲んでくれ
 もろ手を出してすくつてくれ


南吉の詩のフトコロが広いので、ここでは、まずは2篇をもってきました。
文庫最後の「編者解説」は谷悦子氏でした。
そこには、こうあります。
「・・所収されている詩・童謡275篇の中から126篇を選び、作品の特質によって全体を6つの観点に分けて編んだ。通史では見え難い南吉の詩の多様性と豊かさ、民話的と評されがちな童話とは異質な、絵画・音楽・ヨーロッパ文学に精通した南吉の、あまり知られていない世界を開示できるように心がけた。」

その谷悦子氏の「心がけ」がみごとに生きた文庫になっております。
新美南吉詩への門戸が開かれた、そんな絶好の幕開けの一冊となっております。
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