「新潮45」9月号には、
どういうわけか、北大路欣也・原節子・橋本忍と
三人が揃っているのでした。
まずは、俳優の北大路欣也さん
「わが役者人生の『支柱』」と題しております。
とびとびに引用。
「『八甲田山』では、雪中行軍演習で青森歩兵第五連隊
を率いる神田大尉を演じたのですが、雪山ロケの終盤、
まるで最後の晩餐だとでもいうように、囲炉裏端で
お世話になった土地の方々と夕餉を囲んだんです。
横には高倉健さんもいらっしゃいました。
十和田の旅館でのことでした。
暖かな火を見つめていると、ふと家庭を持ちたくなりましてね、
彼女との結婚を決心しました。知り合ってから十年以上経った
34歳の時です。仲人は『八甲田山』の総指揮者、橋本忍さんでした。」
(p128~)
そして、新婚旅行に行くためだった期間が
小林正樹監督の映画『燃える秋』に化けることとなります。
「ロケはイランで行われ、テヘラン、イスファハン、シラーズと
都市を北から南へ移動していきます。・・・
僕たちがロケから戻って三カ月後、世界三大ホテルと言われる、
イスファハンのシャー・アッパースホテルが爆破され、
パーレビ国王が国外脱出をしてイラン革命が起きました。・・
妻は初めて、俳優だけではなく、スタッフの皆さんがいかに
過酷な現場で働いているかをつぶさに見ることになりました。
・・実感したのでしょう。彼女はそこで僕を支える覚悟をし、
以来ずっと応援してくれています。
あのタイミングで、彼女がロケ現場に同行を許されたのは、
僕たち夫婦のその後を運命づけるものだったのです。」
「初めて体感したのは、僕が十三歳の時でした。・・
父は『うちの子を俳優にするつもりはないから』と
断ったそうです。・・ところが、ある日突然プロデューサーと
監督さんがうちに訪ねて来られて、僕の目の前に脚本を置くと
こう言われました。『君、勝麟太郎役をやりなさい』。
それが父主演の映画『父子鷹』(1956年)です。
劇中でも父と親子の役でした。」
「僕は若いころ、酒ばかり飲んでいた。
特に25歳から30歳の頃はむちゃ飲みばかりしてました。
・・29歳の頃、僕は(高倉)健さんに東京の第一号に
出来たアスレチックジムに連れていかれて、
『脱げ、やってみろ』と、健さんと同じメニューを
やらされたんです。もちろん、すぐにダウンですよ。
できるわけがない。僕はみんなの前で
『お前の職業は何だ』と健さんに聞かれました。
『俳優です!』と答えると、『俳優がこんな体力でできるか!』
と、叱られました。・・」
まあ、こんな調子で語られる8ページ。
飽きたら、雑誌の前の写真帖をご覧ください。
そこには、ドイツにいった16歳の原節子が、
着物を着てニッコリしています。4ページ。
つぎに、
西村雄一郎氏による
「追悼・橋本忍」。
「・・その橋本忍が、7月19日、ついに亡くなった。享年100。
『羅生門』でデビューし、『生きる』『七人の侍』
という超弩級のシナリオで、黒澤明にライターとして
鍛えられた。・・」
とはじまる6頁。
これじゃあ、映画の雑誌かなあ?
はい。2018年「新潮45」9月号は、
そうも、読めちゃうのでした(笑)。
どういうわけか、北大路欣也・原節子・橋本忍と
三人が揃っているのでした。
まずは、俳優の北大路欣也さん
「わが役者人生の『支柱』」と題しております。
とびとびに引用。
「『八甲田山』では、雪中行軍演習で青森歩兵第五連隊
を率いる神田大尉を演じたのですが、雪山ロケの終盤、
まるで最後の晩餐だとでもいうように、囲炉裏端で
お世話になった土地の方々と夕餉を囲んだんです。
横には高倉健さんもいらっしゃいました。
十和田の旅館でのことでした。
暖かな火を見つめていると、ふと家庭を持ちたくなりましてね、
彼女との結婚を決心しました。知り合ってから十年以上経った
34歳の時です。仲人は『八甲田山』の総指揮者、橋本忍さんでした。」
(p128~)
そして、新婚旅行に行くためだった期間が
小林正樹監督の映画『燃える秋』に化けることとなります。
「ロケはイランで行われ、テヘラン、イスファハン、シラーズと
都市を北から南へ移動していきます。・・・
僕たちがロケから戻って三カ月後、世界三大ホテルと言われる、
イスファハンのシャー・アッパースホテルが爆破され、
パーレビ国王が国外脱出をしてイラン革命が起きました。・・
妻は初めて、俳優だけではなく、スタッフの皆さんがいかに
過酷な現場で働いているかをつぶさに見ることになりました。
・・実感したのでしょう。彼女はそこで僕を支える覚悟をし、
以来ずっと応援してくれています。
あのタイミングで、彼女がロケ現場に同行を許されたのは、
僕たち夫婦のその後を運命づけるものだったのです。」
「初めて体感したのは、僕が十三歳の時でした。・・
父は『うちの子を俳優にするつもりはないから』と
断ったそうです。・・ところが、ある日突然プロデューサーと
監督さんがうちに訪ねて来られて、僕の目の前に脚本を置くと
こう言われました。『君、勝麟太郎役をやりなさい』。
それが父主演の映画『父子鷹』(1956年)です。
劇中でも父と親子の役でした。」
「僕は若いころ、酒ばかり飲んでいた。
特に25歳から30歳の頃はむちゃ飲みばかりしてました。
・・29歳の頃、僕は(高倉)健さんに東京の第一号に
出来たアスレチックジムに連れていかれて、
『脱げ、やってみろ』と、健さんと同じメニューを
やらされたんです。もちろん、すぐにダウンですよ。
できるわけがない。僕はみんなの前で
『お前の職業は何だ』と健さんに聞かれました。
『俳優です!』と答えると、『俳優がこんな体力でできるか!』
と、叱られました。・・」
まあ、こんな調子で語られる8ページ。
飽きたら、雑誌の前の写真帖をご覧ください。
そこには、ドイツにいった16歳の原節子が、
着物を着てニッコリしています。4ページ。
つぎに、
西村雄一郎氏による
「追悼・橋本忍」。
「・・その橋本忍が、7月19日、ついに亡くなった。享年100。
『羅生門』でデビューし、『生きる』『七人の侍』
という超弩級のシナリオで、黒澤明にライターとして
鍛えられた。・・」
とはじまる6頁。
これじゃあ、映画の雑誌かなあ?
はい。2018年「新潮45」9月号は、
そうも、読めちゃうのでした(笑)。
北大路欣也さんのファンでした。
雑誌経由でファンレターを出したこともあり。
その後 グループサウンズに熱中したので
それっきりでしたが TVのCMや 時代劇などで
中年の魅力で人気になったときは
やっぱり ちょっとうれしかったです。
中学生時代を知ることができて、
ちょっと、うれしくなりました(笑)。