読売新聞2007年12月27日「編集手帳」は年賀状をとりあげております。
そのはじまりと、おわりとを引用まずは引用。
「辞書のなかに『戻り年賀』という言葉を見つけたとき、ほんの少し気分が軽くなった覚えがある。日本国語大辞典には、『年賀状を受け取ってから、その相手宛に出す年賀状』とある」
「今宵、机の前で、ひと踏ん張りなさるのもよろしかろう。・・・と、ひとのことは言える。」
はじまりとおわりだけじゃ味気ないので、真ん中も紹介しましょう。
「そういう言葉があるところをみれば、世に同憂の士は少なくないと察せられ、いくらか救いになる。どなたの命名か、『無精年賀』や『無礼年賀』とは呼ばず、『戻り年賀』の風雅な響きがありがたい。とはいえ、今年は年賀はがきの売れ行きが好調で、発行枚数は2年ぶりの40億枚を超えるという。・・・」
年賀状について編集手帳子は最後に「・・・と、ひとのことは言える。」と結んでおりました。そういえば、思い出す本があります。坪内祐三著「考える人」(新潮社)。そのなかの「深代惇郎」をとりあげた箇所でした。ということで、その本を取り出してきて、あらためてパラパラとめくってみたのです。こうあります。
「今の中学、高校の国語(現代国語)あの授業方針はどうなっているのか知りませんが、当時、私の中学、高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』を読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。・・それがたまたま深代惇郎の担当期間に当っていたのです・・それはとても幸福なことでした。しかし、その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベルの文章という印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。それ以後の『天声人語』はろくなもじゃない。・・・」(p125)
つづきも、引用させて下さい。
「深代惇郎と、それ以後の『天声人語』の違いは、端的に言って、教養の違いです。・・具体的に述べれば、教養のふところの深さの違いです。そしてその深代惇郎の教養のふところの深さは、タイムリーなネタに困った時に、真価を発揮します。」
そしておもむろに、コラムを引用しておりました。以下惇郎コラム。
「毎日、コラムを書く。心の動くような話が、そうそう毎日見つかるわけではない。机をカリカリとかきたくなるようなこともある。・・・・書くことがなくて・・・雪月花にも感慨がわかないときは、政治の悪口を書くといってはふがいない話だが、そういう時もある。本人は、ほかにないから書いているのであって、そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。ジャーナリズムには、そういう気のひけるところがある。」
この惇郎コラムを引用した、坪内祐三は、こう記しておりました。
「これこそまさに『天声人語』です。かつて(そして今も)、これほど正真な心情を吐露する新聞コラムニストが日本にいたでしょうか。・・・」(p127)
編集手帳は竹内政明氏が書き続けておられますが、今日のコラムの最後「・・・と、ひとのことは言える。」の言葉に思わず、坪内祐三の「深代惇郎論」を想起したというわけです。今日は朝からよい文が読めました。
そのはじまりと、おわりとを引用まずは引用。
「辞書のなかに『戻り年賀』という言葉を見つけたとき、ほんの少し気分が軽くなった覚えがある。日本国語大辞典には、『年賀状を受け取ってから、その相手宛に出す年賀状』とある」
「今宵、机の前で、ひと踏ん張りなさるのもよろしかろう。・・・と、ひとのことは言える。」
はじまりとおわりだけじゃ味気ないので、真ん中も紹介しましょう。
「そういう言葉があるところをみれば、世に同憂の士は少なくないと察せられ、いくらか救いになる。どなたの命名か、『無精年賀』や『無礼年賀』とは呼ばず、『戻り年賀』の風雅な響きがありがたい。とはいえ、今年は年賀はがきの売れ行きが好調で、発行枚数は2年ぶりの40億枚を超えるという。・・・」
年賀状について編集手帳子は最後に「・・・と、ひとのことは言える。」と結んでおりました。そういえば、思い出す本があります。坪内祐三著「考える人」(新潮社)。そのなかの「深代惇郎」をとりあげた箇所でした。ということで、その本を取り出してきて、あらためてパラパラとめくってみたのです。こうあります。
「今の中学、高校の国語(現代国語)あの授業方針はどうなっているのか知りませんが、当時、私の中学、高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』を読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。・・それがたまたま深代惇郎の担当期間に当っていたのです・・それはとても幸福なことでした。しかし、その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベルの文章という印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。それ以後の『天声人語』はろくなもじゃない。・・・」(p125)
つづきも、引用させて下さい。
「深代惇郎と、それ以後の『天声人語』の違いは、端的に言って、教養の違いです。・・具体的に述べれば、教養のふところの深さの違いです。そしてその深代惇郎の教養のふところの深さは、タイムリーなネタに困った時に、真価を発揮します。」
そしておもむろに、コラムを引用しておりました。以下惇郎コラム。
「毎日、コラムを書く。心の動くような話が、そうそう毎日見つかるわけではない。机をカリカリとかきたくなるようなこともある。・・・・書くことがなくて・・・雪月花にも感慨がわかないときは、政治の悪口を書くといってはふがいない話だが、そういう時もある。本人は、ほかにないから書いているのであって、そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。ジャーナリズムには、そういう気のひけるところがある。」
この惇郎コラムを引用した、坪内祐三は、こう記しておりました。
「これこそまさに『天声人語』です。かつて(そして今も)、これほど正真な心情を吐露する新聞コラムニストが日本にいたでしょうか。・・・」(p127)
編集手帳は竹内政明氏が書き続けておられますが、今日のコラムの最後「・・・と、ひとのことは言える。」の言葉に思わず、坪内祐三の「深代惇郎論」を想起したというわけです。今日は朝からよい文が読めました。
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