大村はまの年譜には
昭和3(1928)年 3月 東京女子大学卒業
8月 長野県諏訪高等女学校に赴任
昭和13(1938)年 府立第八高等女学校に転任
とあります。大学を卒業して赴任した諏訪という場所が
どういうところだったのかを藤原正彦氏が書いています。
「 大村はま先生は十年間、諏訪高女で教えられた。
信州というのは特殊な地域である。
田毎(たごと)の月にちなんで田毎の学者と言われる。
人々は理屈っぽい。風呂たきおばさんが文芸春秋を読んでいた、
などとよく言われる。教育にも熱心で、
我が国最初の開智学校以来、信濃教育として名を馳せてきた。
諏訪は信州の中でももっとも信州らしい所で、
長所短所がここでは増幅されている。
短所の一つであろう、諏訪人は誰彼かまわず、
ぞんざいな言葉で単刀直入に斬り込む癖がある。
・・・信州の教育界では、
諏訪で四年間勤めれば一人前になる、
とよく言われたものである。
・・・諏訪の旧制中学校や女学校の教師陣は、
今も語り継がれるほどの多士済々だった。・・
私の母のような鼻っ柱が強くて生意気な者が多かったはずである。
野武士とジャジャ馬の群の真っ只中に舞い降りた・・女教師 」
( p323 藤原正彦「我が家の文運」・大村はま白寿記念文集 )
藤原正彦氏は、平成15年の秋に、大村はま先生と対談します。
その場面も引用。
「 気性の激しい母を指導した大先生ということで、
さすがの私も大分緊張した。・・・・
ソファの先生は、私をどこか懐かしそうに眺め、
『 ていさんの息子さんねー 』とおっしゃられた。 」( p322 )
注:
大村はま(1906年(明治39年)6月2日 - 2005年(平成17年)4月17日 )
は、98歳没となっております。これは亡くなる2年前の対談のときでした。
く赴任されてきた小学校の校長先生に初めてあった
とき一人の生徒の母親が「おめさんはどこの土地か
ら来ただかね」と聞いた。諏訪地方では普通の会話
だが校長先生は自分がおめさんと言われたことに驚
き、なるほどここは諏訪だと!確かに男女差別なく
身分差別なく人はみな同じという世界でした。おそ
らく冬寒くものなり悪くみな等しく貧しい土地だっ
たのも理由の一つだと思います。
コメントありがとうございます。
ちっとも、諏訪の大村先生から
さきに進めないでいたのですが、
阿智胡地亭辛好さんからのコメント、
これは思わぬ贈り物を頂いたようで、
当時の諏訪からの風を感じたようで、
先生の息づかいが感じられてきます。
貴重なコメントありがとうございました。