読売の古新聞を、数か月分もらってきた。
とりあえず、日曜日の読書欄をひらくと、
欲しい本が数冊できてしまう。
うん。買おうかどうしようか。
と迷っていると、思い浮かんできたのが
桑原武夫の「書評のない国」という2頁弱の文でした。
はい。こういうときは話題をかえて、
違うことを考えるにかぎります(笑)。
「書評のない国」は1949年12月の雑誌に掲載された文でした。
そのころは、今みたいに、書評が盛んになる前の時代でした。
こうあります。
「書評というもののないことが、日本の出版界の特色である。
フランスでもアメリカでも、雑誌には毎号必ずガッチリした、
つまり漫評でなく、内容を分析した上で批評を加えた書評欄があり、
それが全誌の五分の一、さらにそれ以上を占めている。
民衆も学者もそれによって本を選ぶのだが、一流の雑誌に
取上げられたものは、ともかく一応の本だという安心感があるのである。
日本では広告によるのみだが、広告活字の大きい方がいい本
というわけにはゆかず、デタラメで買っている。
用心ぶかい人は著名書店の有名著者の本を、という卑屈な態度になっている。
かつて『思想』は書評欄に努力したが失敗し、
唯一の雑誌『書評』も廃刊した。
これを惜しむよりも、なぜ日本では書評が成立せぬかを
分析してみる必要があるだろう。
よい書評は高くつき、貧しい出版資本ではもたぬこと、
学界、文学界の前近代性が公平な批評を忌避すること、
インテリに悪しきオリジナリティ意識がつよくて書評に頼らないこと、
大衆は流行で本を選び書評を不要とすること、まだまだあろうが、
ともかく書評が成立せぬかぎり日本の出版界は一人前ではない。 」
( p568~569 「桑原武夫集 2」 )
はて。74年前のこの言葉を、現代ではどのように読むのだろう?
私が小さいころには町に映画館があった。
近くの市にいけば、そこにも映画館通りがあった。
いまは、町にも近くの市にも、映画館がなくなり、
映画を観に行くにも、旅行気分となります。
ということで、映画館で映画を観るのは、
地方にいると、それは贅沢体験になります。
最新映画の紹介で、『銀河鉄道の父』を紹介しておりました。
そのなかに、原作の紹介があったので、さっそく古本で注文。
ぱらりと後半をひらいてみる。
うん。最後はそこから引用。
「 夕方になった。みぞれがふっている。
古新聞を燻(くす)べたような青みがかった灰色の空から、
白い雪と、銀色の雨がもみあいつつ降りそそいでいる。
この気候ないし落下物を、花巻のことばで、
――― あめゆじゅ。
という。
『 あめゆき 』のなまった言いかたなのだろう。・・・ 」
( p287 門出慶喜著「銀河鉄道の父」講談社・2017年 )
書評に限らず、日本人の国民性は付和雷同が特徴かもしれません。
できましたら、この「和田浦海岸ブログ」で優れた書評の記事を読ませていただけましたらと切望いたします。
コメントありがとうございます。
しかたない。そう、私も日本人。
すぐれた書評かどうかは、結局、
本を買い読んでからになります。
それまで判断を保留しなければ
いけないので、私には無理(笑)。
いいのではありませんか。
実際に自分で読んで、その価値を決める。
本は人それぞれに価値が異なるでしょう。
つまらない書評はありますね。
でも読んでみないことにはわからない部分があります。
コメントありがとうございます。
そうだ。思いっきり褒めている書評に
惹かれます。その本の前でバンザイを
しているような書評があれば最高(笑)。