長谷川伸著「我が『足許提灯』の記」(時事通信社・昭和38年)。
この古本が函入りで300円でした。
うん。名前とエピソードしか知らない方なのですが、
いつかは読めればと思っていた人なので、この機会に購入。
はじまりをちょこっと引用しておきます。
小林栄子という老女が登場しております。
「・・中秋名月の日、滋賀県大津に宿をとり、
昼のうちに石山寺に詣で・・・宿にもどり、
夜になるのを待ち、石山寺で満月をみようと出かけてはみたが、
大阪の方からきた月見客の群集に揉まれながら、
石の多い路を足もとくらく上ることの覚束なさに、
ひとり瀬田川べりに佇んでいた。」
そこに、石山寺から下りてきた娘さんが
「どうぞなされてかと問うが如く顔を向けたので、
栄子は問わず語りに、上るのも大変なのでどうしようかと思って、
というとその娘さんが、ご一緒しましょう、
もう一度わたくし、おまいりしますと、
京都弁でいうより早くハヤ踏み出して栄子をふり返った。」
それから栄子は、石山寺の秋の月をながめ、下山します。
「・・振りかえりなどせずに行くその娘さんのうしろ姿を、
真昼のような月の下で見送った。
人混みにやがて紛れてしまったその娘さん・・・
栄子はその娘さんを忘れかねて、宿にもどる心になれず、
瀬田川べりをそぞろ歩きしているうちに、あの娘さんが
ここの観音さまの化身でもあるように貴くおもわれ出した。
そのことを栄子が、昭和14年9月27日の夜、小石川の幸田家で、
幸田露伴に話すと、露伴は『その娘がおもしろいですね。
そんなのを昔の人は観音様にしてしまうんですね』といった。
このことは『露伴清談』(小林栄子)にある。・・・・」
このエピソードをうけて長谷川伸は書いておりました。
「私には今いった娘観世音のことが深く高く大きく面白い。」
(~p12)
ふ~。これで私は満腹。本文は、さらにエピソードが
続いてゆくのですが、私はこの本のはじまりと、
そして本の最後を読んで、それまでにして
その前に佇むようにしながら、本を閉じます。
そうそう。今日になってネットで古本を注文しました。
『露伴清談』(小林栄子)。
届いたら、引用の箇所を確認してみたいと思います。
そのとき、またブログにあげてみます。
読んでいただきありがとうございます。
うん。わたしは寓話というと、
イソップ寓話を思い描いてしまうので、
ちょっと違うような違和感があります。
『寓話』で辞書をひくと、
「教訓的な内容や風刺を盛りこんだ
たとえ話。『イソップ物語』など。」
とあります。
言葉の好き嫌いになりますが、
わたしには、『寓話』として
くくってしまうのには、違和感があります。
かといって、何なのだと
つっこみは、なしですよ(笑)。