和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

賀茂川の水。双六の塞。山法師。

2019-12-11 | 京都
古本で京都とあれば、買ってしまいます(笑)。
今回は、すこし考えてから買いました。
「京都府警察史」第一巻。
この第一巻は「平安時代から幕末まで」。

うん。私はきちんと読みはしません(笑)。
でも、調べごとには、重宝しそうな一冊。

さっそく、気になっていた箇所をひらく。
それは、白河院の言葉でした。
「白河院をして『天下三不如意』と嘆かせたもの」

「白河院は賀茂川の水、双六の塞、山法師、
これぞ朕が心に随はぬ者と、
常々に仰の有るとぞ申伝たる(源平盛衰記)」

これを「京都府警察史」では、
どのように解説をしているか、
興味をもちました。以下引用。

「賀茂川の水とは大雨後の川の氾濫によって
多くの死傷者を出して悩まされたことであり、

双六のさいとは、さいころの目を思い通りに
出せないという意味以上に、当時、さいをつかった
博奕が諸国に流行したことをいう。

永久二年(1114)五月、白河院は近ごろ双六が
諸国に流行しているので、これを行う者はたとえ
院の下部であっても逮捕するよう命じているが、
ほとんどその効果はあがらなかったという事実は、
これをよく表現している。・・・・」

「また山法師とは、直接には比叡山延暦寺の僧兵
のことをいっているが、そのほか、興福寺などの
大寺院を含めて、南都北嶺の僧兵の強訴に
手をやき悩まされたことをいう。」(p208~209)

記述はつづき、さらに具体的で興味をそそります。

さてっと、今年は台風15号と台風19号とつづき、
その被害は、身近な出来事としてありました。
ということで、気になる水ということで、
「賀茂川の氾濫」について引用。

「賀茂川の氾濫は、平安中期から末期にかけて
次第に増加してきているが、
これに二つの原因があったといわれる。

その一は、京都市中の発展によって、
多量の建築用材を必要とし、そのため
賀茂川上流の森林が濫伐されたことによるもの。

その二は、河道が地勢的に無理があったことによる。
このことは、高野川と賀茂川は出町附近で合流しているが、
もともと京都の地勢は、東北に高く西南に低い状態を
形成しており、出町までの賀茂川の流れは、その
自然の流れに逆らっているといえるのである。

これは今の堀川が、賀茂川の本流をなしていたものを、
平安遷都のとき、都の中央を大きな川が流れるということは、
都市の区画、交通などの点からも都合が悪いというので、
上流の上賀茂付近で新しく河道をつくって、
水量の大部分を高野川に合流させたものと考えられ、
この不自然な流路変更に原因があったものといわれている。

平安初期葛野(大堰)川の防葛野河使とともに、
賀茂川にも防鴨(ぼうが)河使がおかれ警戒にあたった
・・・・・が、十分な効果は期待出来なかった。

現在四条通南座東(四条大和大路東入)にある仲源寺の
目疾(めやみ)地蔵も、本来雨止(あめやみ)地蔵であったものの
転訛といわれ・・・・
また二条城の南に神泉苑があるが、平安時代はここで
しばしば、祈雨や止雨の祈祷が行われた・・・・・
貞観11年(869)の夏に行なわれた最初の祇園御霊会も
神泉苑で疫病退散のためおこなわれたものであった。」
(~p210)

さて、このあとに

「賀茂川の氾濫以上に悩まされたのは、
南部北嶺の僧兵の強訴であった。
これは院政によって必然的に起こった現象であって、
院政期における最大の難問題であったといえる。・・・」

はい。「賀茂川の氾濫以上に悩まされた」
というのはテーマが重いなあ。
日をあらためて取り上げたいと、思います。






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