和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

平家の公達と祇園精舎。

2019-12-03 | 京都
「・・八坂神社がある。京では祇園さんで通っている。」
という京都育ちの方の言葉がありました。

祇園といえば、そういえば祇園精舎。
祇園精舎といえば、平家物語。
と、ここで平家物語を読み始めれば、
いいのでしょうが、そういう殊勝な心掛けは
私はもちあわせておりません(笑)。

さてっと、安い古本なので買ってあった
「歴史対談 平家物語」(講談社・1971年)をとりだす。
中村直勝(歴史学者)と村上元三(作家)の対談。

うん。京都という言葉をさがす。

中村】 平家が案外と早く滅びたということについては、
これはどうしても彼らがどんな教養を受けていたか、
ということとも関連してくると思うんです。
おそらく清盛の時代ごろになってから平家の公達らも、
少し気がついて一生懸命に教養をつけはじめたと思うのです。
ところが、一代ぐらいで教養をつけてもおっつきませんけども、
一応は平家も京都でお公卿さんなみの生活をしたと思うのです。
結局はそれで平家は武を捨ててしまったのだと思います。・・・
従って『平』の名を継いでいるような人は、源氏と戦争をしても、
本気で戦争をしていないんじゃないかしらん。
逆に戦争というものを楽しんでいたんやないかと思えますな。

例えば、のちの屋島の合戦のときなど、
那須与一に扇の的を射させたりしますけど、
あれを見ますと、どうも平家は真剣に戦争してたのかいな、
という気がしますね。戦争というものが生命をかけ、
家の将来をかけてやるものだと考えたのでしょうか。
遊びをやってるように思えますが、
つまりどうしても文弱に流れるんですな、京都にいますと。

文化の力は強いものです。大きいものですね。
頼朝はこの武士の文化化を非常に嫌うたのですね。
それから薩摩守忠度(さつまのかみただのり)にしても、
戦争の真最中に、私の歌をどうか勅撰歌集に入れてくれ、
などいって戦場から帰って来るなんて、
馬鹿々々しいじゃありませんか。これなんかどうもね、
一つの物語としては面白いですけど。

村上】 面白いです。平家の公達というのは、
武士になり切れず、といって、公卿の暮しが
体内に滲み込んでいるわけではなく、中途半端ですな。
忠度の話など風流ですが、戦争中それだけゆとりを
持っていた、と好意的にも考えられますが。

中村】 かりにも武士がねえ。・・・・・
やっぱり平家は『文』に負けてしまう。
教養も付け焼刃じゃあかんていうことですな、結局。
(p109~110)

うん。あとは木曽義仲の箇所も印象深い。
(p130~131)

はい。よろしく「付け焼刃の京都」を
このブログでは、つづけていきます(笑)。






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