昨日。古本で
「平安王朝かわら版」(京都新聞社・1982年)が
手に入る。ハイ。200円。あとがきに執筆者として
高橋邦次とある。新聞社の方なのかもしれません。
空也上人についての箇所をひらく。
気になったので、引用しておきます。
「空也が諸国をあるいて京都入りしたころ、
ミヤコでは東西から迫る大乱(平将門、藤原純友の乱)
の危機におびえきっていた。・・・
こうした衆生を救うはずの革新宗教・天台や真言は、
すでに貴族の宗教と化していて、大衆の心から離れていた。
・・・空也式念仏・・・
彼のやり方は一風変わっていた。
これまでの坊さんは、お寺の本堂やアミダさまの前で、
一般人には外国語に等しいお経や念仏をダラダラと
つづける。それがホトケさまの権威であり、宗門の威信
と心得ていた。だが空也は仏教の街頭進出と
視聴覚教育をはかった。となえるお念仏も、
簡単な『ナモーだ(南無ー陀)』『ナモーだ』である。
もっぱら町の市場や路地裏に立って、
身ぶり手ぶりでホトケの道を説いたので、
『市(いち)の聖(ひじり)』と呼ばれるようになった。」
はい。私もはじめて知ることなので、
ちょっと詳しく引用を重ねます(笑)。
「空也はただ仏法を説くだけではない。
悪疫やキキンで毎日たくさんの市民が
死んでいくのを見ると、彼は毎日市内を歩き、
行きだおれの死体を葬っては卒塔婆を立て、
地蔵を祀った。とくに死体の多かったのが、
平安京のメーンストリート朱雀大路。・・・・・
空也は[大衆心理学]も身につけていた。・・・
彼は金色サン然たる観音さまをつくって車に乗せ、
京の町を引いてまわった。市民たちがゾロゾロ集まった
ところで彼は車にしばりつけた大茶ガマの湯をわかす。
これに結びコンブと梅干しをどっさり入れ、こんどは
太い青竹の先端を蓮の花型に割った大茶センで
茶をたてる。そして正面の観音さまに供えてから
大衆に飲ませた。
市民たちは街頭で観音さまをおがむのも、
その[お下がり]をいただくのもはじめてだ。
・・・・ウワサを聞いた病床の村上天皇も
試服されて全快し、お礼に六波羅蜜寺を
プレゼントされたという。いま同寺にある
本尊十一面観音菩薩が当時の観音さまで、
また同寺が『大福茶の元祖』を
看板にかかげるのもこのためだそうである。そして
京都市民には現代も、正月の元日に『大福茶』を飲んで
一年の無病息災を願う習慣がある。」(~p71)
武士が殺生を悔い、
仏弟子にしてほしいとたずねると
「空也は首をふった。
『頭をまるめても仏弟子にはなれぬ。それよりも、
せめて1ヵ月に6日でいいから[斎]の日をつくり、
無我の境地で[ナモーだ]をとなえなさい・・・・』
そこで武士は[斎]の日がくると、
ナベ、カマ、チャワンなんでもかんでも
夢中でたたきながら念仏をとなえ、
法悦境に達した。この武士が『平定盛』で、
その念仏協奏曲が後世の
『六斎念仏』といわれている。
これらのエピソードは
平安末期に天台僧が書いた
『元享(げんりょう)釈書』に出ているが、
いくぶん誇張もあるようである。」(p71)
p73には空也上人立像の肩から上の
白黒写真が載せてあって、顔の表情が
よくわかります。
せっかくなので、その立像について書かれた
箇所も、最後に引用しておきます。
「京の六波羅蜜寺で重文『空也上人立像』と
対面してみた。鎌倉期の名作で、身長1・17メートル。
エネルギッシュな坊さんではなかった。
伝承どおりにシカの角の杖をつき、
破れごろもにワラジばきで
全国を行脚する姿である。
口から手品師の旗みたいに飛び出した
六体のホトケさまも、実は空也がとなえる
南、無、阿、弥、陀、仏・・の一語ずつが、
すぐホトケさまに化身したという
伝説からである。・・・・・・・・・・・・」(p72)
あれれ。
ここも重要なので、引用。
「空也は衰退した平安仏教を回復し、
鎌倉宗教にタッチさせた中継ランナーである。
空也以前の平安仏教は、ほとんど寺院の外で
念仏の声に触れることはなかった。
空也以後、念仏は街頭にひろがり、
やがて法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら
『鎌倉の師祖』たちに引き継がれて行く。」
京のわらべ歌の
『カンカン坊主 カン坊主』と、
街頭の「市の聖」の空也上人とが、
地続きに時代を遡っていくようで。
まるで、京わらべ歌を、あらためて、
噛みしめているような、そんな気分。
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