集英社「わたしの古典⑯」は
「富岡多恵子の好色五人女」(1986年)でした。
はじまりの2頁は富岡さんによる「わたしと西鶴」。
そのはじまりを引用。
「自分が大阪に生まれ育ったことを、
日ごろは特になんとも思わないが、
近松の浄瑠璃を聞いたり、西鶴の文章を読んだり
している時、あ、これ、オオサカのひとのものいいだ、
と思いあたったりすると、現金にも、ふるさとは
ありがたきかな、に急変するから滑稽である。
それはさておき、西鶴の小説がおもしろくなってきたのは、
近年のことで、教科書で読まされる西鶴は、
オモシロイのオまでも至らず、その後も
『小説』として楽しむには多少の時間を要した。
西鶴は四十を過ぎたころまで俳諧師で、
一昼夜に二万三千五百句もつくるという
矢数俳諧なるものを興行し・・・・・
こういう、俳諧マラソンをやってのけた俳諧師が、
死ぬまでの十年を小説だけで埋めているのは
一体なにごとなのか。しかも、その小説が、
いちいちおもしろいのだから・・・・」
数日前に本棚整理をしていたら、
林えり子著「東京っ子ことば抄」(講談社・2000年)が
ありました。ぱらりとひらくと富岡多恵子がでてくる。
その箇所を短く引用。
「富岡多恵子著の『大阪センチメンタルジャーニー』を
読んで羨ましくなった。生まれ育った大阪を
『なんで東京みたいなイナカへいきはるの?』
という、東京っ子にとってはびっくりするような
ことばに送り出されてから三十年余が経つそうだ。
以降、大阪へは旅人として赴くことになるのだが、
大阪という土地は、『大阪』が丸ごと詰まっている著者の、
『他国ぐらし』という薄い表皮をさらりと溶かす地熱があるようだ。
それがいっとう羨ましかった。・・・・」(p90)
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