和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

斎藤緑雨への、品定め。

2021-04-27 | 本棚並べ
杉本秀太郎氏の古本をポツポツ買っています。
ネットで購入できるので、ついつい手がでる。

氏は随想と肌合いがよいようです。その都度、
文がまとまると編集され本を出されてました。

編集者にとっては魅力の文の持ち主なのかも。
あっちの文を、改めてこっちの本にいれたり、
別の本と重複する文があっても、それなりに、惹かれます。
その都度の、本の装幀もいろいろなので、並べて楽しめる。

『品定め』(展望社・2001年)と題した、あとがきには

「近頃、暑気当たりといえばよくわかるものを
 熱中症などと呼ぶようになってきた。

まるいことば、耳当たりのやわらかな呼び方に代えて、
四角い熟語、耳当たりの険しい用語を公用語あるいは
官用語にする傾きは、今に始まったことではない。
『品定め』が『批評』と呼び代えられて久しい。
私はあえて古語を使ってみたくなったまでである・・」


さてっと、斎藤緑雨をとりあげた短文が、
ちらちら、あったので備忘録として引用。

『文学の紋帖』(構想社・1977年)
『回り道』(みすず書房・1981年)
『洛中通信』(岩波書店・1993年)

そのうちの2冊に、篠田一士の名が登場しておりました。

「次のような文章がある。『緑雨の呼吸』と題した
篠田一士の随想に引用があったのを読んで以来、
私の記憶にとどまっている文章である。・・・・」
 (p158「回り道」)


「私は篠田一士の所説にほぼ賛成である。
緑雨にとって、世界はただ二つしかなかった。
一つは経験的世界、他は言語的世界である。

それなら、私もあなたも、
緑雨と異なるところはないはずである。
違いは、緑雨にとって、この二つの世界が、
形の宝庫であり、形の埋蔵資源帯であり、
そして見出された形が逆に世界に働きかけ、
世界の見かけではなくその構造を
変質させるにいたったという点にある。・・・」
(p144~145「文学の紋帖」)


うん。ここに紹介されている、篠田一士の『緑雨の呼吸』は、
篠田一士著『読書の楽しみ』(構想社1978年)にありました。
ここでは、『緑雨の呼吸』の最後の箇所を引用しておきます。

「・・・こういう戯文を緑雨は、かずかぎりなく書いた。
題材はせまく、主題もとりたてて言うほどのことはない。
アイロニーと言い、諷刺と言ってみたところで、そこから
たいした卓論がひきだせるとも思えない。

しかし、この日本語の呼吸のよさ・・・・

力強い文章とか、優雅な文章ならば、他に人がいるだろう。
だが、それよりもさきに、言葉はまず生き物である。
生き物がいくつもあつまり、組み合わさって、
そこになにがしのものが創られるというならば、
当然、息づかいが問題になるだろう。

観念とか、思想とかといった得体のしれないものが出てきて、
言葉がその符丁になってしまえば、息づかいなど無用になる。
・・・・・」(p169)

杉本秀太郎氏は「スティル 斎藤緑雨の戯文」と題する文で
このバトンを、丁寧にとりあげてゆくのでした。

ちなみに、『スティル  斎藤緑雨の戯文』は
『回り道』と『杉本秀太郎文粋1』(筑摩書房)で読めます。









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