和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

おんぶ・だっこ。

2007-07-16 | Weblog
朝日の古新聞をもらってきました。
朝日新聞2007年7月9日の生活欄に面白い疑問が取り上げられておりました。
「おんぶはすたれてしまったのでしょうか」という疑問・質問に対して
「疑問解決 モンジロー」がいろいろと調べております。

「おんぶの人気が低迷しだしたのはいつごろだろう。昔の朝日新聞を調べてみたら、87年10月17日の紙面に『だっこ派のお母さん増えてます』という記事。・・88年6月の女性週刊誌には赤ちゃんを抱っこする三浦百恵さんや松田聖子さんの写真を交え、『赤ちゃんは抱っこ?おんぶ?』という記事も。このあたりで抱っこが優勢になったのかな。」とあります。

「名古屋女子短大の岩田浩子教授は・・・保育科の小児保健実習の授業で、おんぶひもと人形を使いおんぶの体験を学生にさせている。『保育園ではぐずる子を背負ってなだめたり、避難訓練で使ったりとおんぶが必要になりますから』・・・」

ここから私が最近読んだ本の話をします。
野村俊著「四季の詩(うた) あのねのワルツ」文芸社という本があります。
著者の野村氏はどうやら幼稚園の園長。小学校の校長先生をしておられた方のようです。この本は幼稚園の一年を、4月から各月の順で選んで詩として並べているのでした。そこには、抱っこやおんぶがたくさん出てきます。
ひとつ引用してみましょう。

   みっちゃん

  職員室が大好きな
  みっちゃんに言った
    もう教室に行こう 先生が心配してるよ
    やだ・・・・
    それじゃ 園長先生が
    おんぶか抱っこしていってあげるから
    うん・・・・
    どっちにする?
    おんぶがいい・・・
  
  園長先生はみっちゃんをおんぶした
  そして園舎の廊下を歩いた
    園長先生・・・・
    なあに?
    ねんねしていい?
    うん いいよ

  みっちゃんの身体と頭が
  ぺたんと背中にくっついた
  園長先生はなんだか幸せだった
  窓の外には雪がちらちら降っていた


斎藤孝著「身体感覚を取り戻す」(NHKブックス)には、背負うことについてのさまざまな考察が書かれています。それとは別にもうひとつ詩を引用したくなります。

     天国   新美南吉

    おかあさんたちは
    みんな一つの、天国をもっています。
    どのおかあさんも
    どのおかあさんももっています。
    それはやさしい背中です。
    どのおかあさんの背中でも
    赤ちゃんが眠ったことがありました。
    背中はあっちこっちにゆれました。
    子どもたちは
    おかあさんの背中を
    ほんとの天国だとおもっていました。
    おかあさんたちは
    みんなひとつの、天国をもっています。


新美南吉の詩は、岩崎書店「美しい日本の詩歌①【新美南吉詩集 花をうかべて】」に入っております。

それでは、天国の作り方を覚えておいてもよいかと愚考するのでした。

もう一度「モンジロー」の記事にもどってみます。

「NPO法人『ウォーキング研究所』(東京新宿区)を訪ねた。
『子どもを腰に乗せると姿勢が前かがみになる。位置を高く、みぞおちの裏側あたりに子どものおしりを置くようにしてください』と理事の駒崎優さん。親の背中と子どものおなかが密着するようにおんぶひもでしっかり固定。親はおへその下あたりの筋肉に力を入れてまっすぐ立つ。『肩こりを防ぐには、肩にかかるおんぶひもは幅広で、体の前でクロスさせた方がさらによいですね』」

どうです。天国の作り方。


 


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NHKの世界地図。

2007-07-15 | Weblog
どうにも、気になるので、書きます。それは、テレビのNHKニュースのことです。中央にアナウンサーがひとり座ってニュースを語りますよね。その背景についてなのです。背景が世界地図になっているわけです。普通の地図じゃ地図帳みたいで芸がないとでも思ったようにして、横線を重ねて縞模様のようにした世界地図が背景になっている。その太平洋のまんなかに、ちょうどアナウンサーが居るという格好なのです。こちらから見てアナウンサーの右側が南北アメリカ。
左側のちょうどアナウンサーの耳の横ぐらいに日本のような縞模様があるわけです。私が気になるのはですね。中国の縞模様の線が一本。日本とつながっているのでした。それが毎回気になってしかたがない。
ありゃなんだ。と思うわけです。
たとえば、オウム事件の時に、麻原彰晃の映像がTBSのテレビに何秒?か出ていて問題になったことがありました。それじゃNHKの世界地図に中国と日本が繋がっている映像が毎日流れるというのは、いったいなんなのだ。と、ひとり思うわけです。このNHKの映像はやめていただきたい。と、ひとり書いておきたくなったのです。こういう時にブログというのは随分結構なものです。
ひとりブツクサ言える。でもひとりだけで言っているのもなんなので、誰かこうした私みたいに考える方はいないものか? 

溜飲が下がる。文がありました。
「正論」2007年8月号。中村粲(あきら)氏が「NHKウオッチング」と題して書いている。それが随分と身近に感じられました。一覧表入りで「今年も国家を『馬の尻』で侮辱したNHK」とあります。
ちょいと、読むのがめんどくさい私でも、一覧表なら、分かりやすいので目がいきました。地図がすぐに目に入ると同様に随分と分かりやすい工夫がなされておりました。さて中村さんの一覧表には「日本ダービーに於ける国家の放送 NHKとフジテレビ【スーパー競馬】の比較」とあります。
平成14年第69回の箇所をとりあげてみましょう。
その比較の前には「平成11年8月9日国旗国歌法成立」とあります。
さてNHKとフジテレビの比較が上下で載っております。
< 開会式で塩田美奈子さんが国家独唱 >とありまして。
NHKは「「君が代独唱」と福澤浩行アナ。独唱の間、待機場での出場馬の尻の映像を流し続ける」。
フジテレビは「国歌独唱と吉田伸男アナ。独唱の間、国歌を歌ふ小泉首相、歌手、会場の映像。独唱が終ると観衆の歓呼と拍手」。

さて、あとはNHKの場合だけ一覧表からとりあげてみます。

第71回平成16年「馬の尻の映像を流し続ける。」
第72回平成17年「開会式カットで『君が代』隠す。」
第73回平成18年「国歌独唱を全部放送するも、【千代に八千代に】と【苔のむすまで】の前後二ヶ所で馬の尻の映像を流す。」
第74回平成19年「独唱が始まると国旗、観衆、皇太子殿下、安倍首相夫婦を写したが【さざれ石の巌となりて】の個所で次々と馬の尻の映像を流す。」

すごいなあ。これぐらいのウオッツングの継続がなければ、NHKの隠れた姿が見えてこない。このリストアップはすばらしいなあ。ただの文章で書かれていたら私は読まなかったと思うのです。

ところで次に、シナと日本を一本線でつないでしまうNHKの愚を指摘しておきたくなるわけです。最近。津田左右吉著「支那思想と日本」の「まへがき」を引用している本を見かけました。3冊。

     高島俊男著「座右の名文」(文春新書)
     高島俊男著「本と中国と日本人と」(ちくま文庫)
     谷沢永一著「こんな日本に誰がした」(クレスト社)

最初の2冊は同じ人の本です。文春新書の方はp143に「ぼくが生涯最大の影響をうけた本、『支那思想と日本』」という言葉があります(ちなみに、ご存知の通りパソコンの一括変換では「支那」は出てきません)。その次のページで「まへがき」を引用しております。この高島さんの新書のあとがきは「この本は、ぼくにとって初めての、しゃべってつくった本である」とありますから、引用自体が少なめにできておりまして、その貴重な引用のひとつにこの「まへがき」をもってきております。
もう1冊の「ちくま文庫」は本の書評を並べたものです。
そのp321~325までが津田左右吉著「支那思想と日本」の書評をしております。
そこでも「まへがき」を丁寧に引用しておりました(p322~324)。

ちょいと、しんどいので私は「まへがき」の引用はしませんよ。

さて、3冊目のクレスト社の本です。そのp102~103に「まえがき」の引用があります。ここでは、谷沢さんの言葉を引用してみましょう。

「歴史学者の津田左右吉は『支那(シナ)思想と日本」(昭和13年刊行・岩波新書)の中で、支那文化と日本の文化はまったく異質である、同じ漢字を使っているからといって同列に考えてはいけない・・・」
こうして津田左右吉の「まえがき」を引用したあとに
「これが、ひいては岩波茂雄とともに起訴される筆禍事件に結びつくわけである。この当時、すでに支那事変が始まっていた。『日華同一。支那五族と日本は同じだ』という軍部の音頭取りの最中に、津田左右吉は泰然として、いや一切違う国であるという本を突き付けたのである。」

現在の津田左右吉は、どこに健在でしょう。
昔の軍部みたいに、ひとの意見を聞かずに、始末に負えない人たちは、安易にシナと日本とをひとつ線で結びつけたがる。恥じない。
あの一つ線を、NHKのニュースを見るたび毎日付き合わされる。これは麻原彰晃の顔よりもなお、たいへんな刷り込みなのだ。
と、ブログに書いておこう。
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阪神震災・本難儀。

2007-07-15 | 地震
平成7年1月17日午前5時46分。阪神大震災があったのでした。

谷沢永一著「読書人の点燈」(潮出版)
谷沢永一著「紙つぶて(完全版)」(PHP文庫)
谷沢永一著「こんな日本に誰がした」(クレスト社)

この三冊が思い浮かびました。

最初の「読書人の点燈」には平成8年2月1日「プレジデント」に掲載された
「震災で得た『五つの教訓』」が載っております(p100~103)
普段は自慢になるためか、蔵書の話はしない谷沢さんですが、ここでは
それが話題の中心になっておりまして、興味をひくのでした。
ちょいと長い引用になりますが、ご勘弁してもらって、つき合って下さい。

「今回の震災は私の仕事にとって決定的な打撃を加えてくれた。
書庫が壊滅状態になったのである。私は自分の勉強に必要な書物は我が所有にしなければ気が済まぬ性質(たち)なので、若いときから無理に無理を重ねながら本のを買いつづけてきた。その結果、我が家の書庫は一階と二階とあわせて五十坪、少くみて十万冊をかなりうわまわる蔵書が蓄えられている。蒐めたのは主として古本なので、昭和六十年ごろまでの私は、送金がおそいことで古書業界に聞こえていた。・・・その苦心惨憺によって身を切る思いで蒐めた蔵書の三分の二が、書棚から落ちて床にうずたかく叩きつけられ散乱したのである。私は呆然として腰が抜けたようにへたりこんだ。書物というものは一点一点まったく別個の内容であり、そして相互にいわく言いがたい特殊な関連があるのだから、その利用方法に即して整然と並べられていてこそ意味がある。それがてんでばらばら何がどこにあるのか判らぬ状態では、はじめから持っていないのと同じであろう。私はすでに六十五歳、これを全部もとどおり有効に並べることなど不可能である。そこで、とりあえず若い大工さんに頼んで、手あたり次第に原則的に、つまり無茶苦茶に棚へともどしてもらった。続いて、懇意の古書店に来ていただき、朝から夕方までの四日間、手放すべき本を私が抜きとる作業を急いだ。その結果、放出する古書が二頓トラック三台分、我が家から運びさられたのである。」

ここからが、大切なので、もうすこし引用におつきあい下さい。

「残ったのは大体もとの半数ちょっと、それがいまだに無秩序なまま書棚に残っている。それすら並びかえる元気はない。本の整理は立ったりしゃがんだり行ったり来たり、かなり厳しい肉体労働なのである。現在の私は、その乱雑を混淆のまま覚えようと、閑を見つけては書棚の前を行きつもどりつしている。私のおおまかな推測では、個人がひとりで管理しうる蔵書の数は、十万冊以内にとどまるのではなかろうか。・・・あれから一年、私は今も自分が絶対に持っている筈なのに見つからぬ本を探して、書棚の前をうろうろしている。・・・本に怨みはかずかずござる。震災後の私は、自分の本を見つけるのに難儀するという面白くない徒労を強いられているのである。」


こうして、蔵書のことだけを引用していると嫌味にとられかねないのですが、
普段は、こういうことは一切触れたがらない谷沢永一氏でありますので、引用したという次第です。

PHP文庫の「紙つぶて(完全版)」。その解説は渡部昇一氏でした。
そこで、阪神大震災のことにふれながら、谷沢氏を語っているのでした。
最初の方にはこうあります。
「主人永一は午前三時頃から書物を相手に仕事をしていたが、二時間半以上もの集中のあと、ほっと一息つくため、食堂に出て一服吸っていた。書庫に入っていたままだったら圧死した可能性がある。・・」以下9ページほどの文です。

3冊目の「こんな日本に誰がした」。その副題は「戦後民主主義の代表者 大江健三郎への告発状」とあります。平成7年1月に阪神大震災が起こったわけですが、この紹介する3冊目は初版が平成7年6月となっておりました。

そのp78~81に阪神大震災にふれた箇所があります。
そこを引用してみたいと思います。

「大江が国内外で立場を巧妙に使い分け、外国には強く、国内にはソフトに語る対象は皇室だけではない。『産経新聞』(平成7年4月30日)の報道によると、大江は『ワシントンでの講演会で、日本の自衛隊は憲法違反だから全廃しなければならない、という大胆な発言をした』という。以下、この記事(古森義久記者)の中から引用する。」
その古森氏の引用は、ここでは省略して、その次にいきます。

「このことが報ぜられた翌日、『産経抄』(平成7年5月1日)が大江のこの態度を見事に切り捨てた。」と谷沢氏は指摘して引用しております。

「大江氏が自衛隊を目の敵にするのは今に始まったことではない。昭和33年に『防大生はぼくら同世代の恥辱」と言い切って議論を呼んだことがある。しかしこの問題は、必ずしもきちんと決着がついたわけではない(中略)。しかし、阪神大震災で自衛隊が大黒柱となって果たした役割については、今さら持ち出すまでもないだろう。『自衛隊の姿を見て、これで助かったと思った』と口々に訴えた被災者の感謝は、国民の自衛隊に対する期待感を如実に示していた。・・・」

もう少し産経抄からの引用が続くのですがこれくらいにして、つぎの谷沢さんの言葉を引用しておきます。

「大江は、日本国憲法は『米国の民主主義を愛する人たちが作った憲法なのだからあくまで擁護すべきだ』と、米国相手に精一杯のおべっかを述べている。しかし、大江の思惑とは裏腹に、聴衆の米国人の反発を招く結果となったようだ。『産経抄』が引合いに出した阪神大震災のくだりについては、私自身、被災者のひとりとして、まったく同感である。ところが大江はその自衛隊を『完全になくさねばならない』と言う。しかも、『中国や朝鮮半島の人民たちと協力して、自衛隊の全廃を目指さねばならない。終戦から五十周年のいますぐにもそのことに着手すべきだ』と主張する。なぜ『中国や朝鮮半島の人民たちと協力』する必要があるのか。・・・・」

まだつづくのですが、「本の難儀」からはそれてしまうので、ここまでとします。
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仏教と徒然草。

2007-07-13 | Weblog
仏教について、この頃結びつけたくなる私的3冊。

 中村吉広著「チベット語になった『坊ちゃん』」(山と渓谷社)
  このp30~p32「オウム真理教のチベット文字」。
 今枝由郎著「ブータン仏教から見た日本仏教」(NHKブックス)
  このp26~p33「大学進学の目的・チベット語」。
 谷沢永一著「読書通 知の巨人に出会う愉しみ」(学研新書)
  このp158~p175「岩本裕――「日本文化を浮彫にする仏教語辞典」を作った偉業の主」。

ところで、「ブータン仏教から見た日本仏教」の「おわりに」は、徒然草の最後第243段の文を引用しながらはじまっており本文を読み終わってから、読むとゾクゾクとしてくるのでした。なにか徒然草の頃から、仏教はこうだったのかと身近に感ぜられてくるのでした。

そういえば、朝日新聞2007年6月10日には、読書欄の連載「たいせつな本」があり、その日は嵐山光三郎さんの回でした。そこで、とりあげていた本が、他ならぬ「徒然草」で、こんな箇所がありました。
「『徒然草』は後二条天皇の皇子(邦良【くによし】親王)が皇位につくためのテキストとして書かれ、親王が27歳で没したため、随筆になった、というのがぼくの推論である。」

この「僕の推論」が、私には鮮やか。
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井戸の話。

2007-07-12 | Weblog
ときどき読み終わった本の、ちょっとした箇所を思い浮かべる時があります。気になるのですが、それがどこで読んだのか、わからない。でも、たまたま思い浮かんで、確認できることもあります。今回も私の場合ありました。「井戸」についてです。
ああ、この箇所だった。と確認できたのは谷沢永一著「私はこうして本を書いてきた 執筆論」(東洋経済新報社)のこんなエピソードでした。

「子供のころ、町住(す)みの学者である伊藤仁斎が、襷(たすき)がけで町内の井戸浚(さら)いに加わったという挿話(エピソード)を読んだことがある。仁斎がどういう人なのか、その頃は何も知らなかったけれど、井戸浚いという行事の意味するところは感じでわかった。汚れている水をそっくり汲みだすと、そのあとおのずから清い水が次第に湧きでるという次第であろう。」(p119~120)
このあとに谷沢さんはこう書いておりました。
「執筆もまた同じ要領ではないか。常に持札のすべてを投げ入れる気組みでなければならない。いちど頭のなかをすっからかんにする。そうすればこそ、あとから新鮮な考えが浮かぶであろう。そうであるに決まっていると思いたい。」

ここで、谷沢さんは、井戸浚いを「感じでわかった」と了解しております。
この感じが、どうにもわからない場合がある。
ということで、私に忘れられない社説を引用したいと思うわけです。
それは1997年の社説でした。
そこでは、まず谷川俊太郎の詩「みみをすます」を引用しておりました。
そうして、社説子は次に「自分だけが正しい、あとはみんな間違いだ、といったことを、品のない日本語で、ときには歴史的な事実や背景を無視して、声高に言いつのる人間や組織がふえている」とつなげるのです。
そしておもむろに箇条書きに指摘したあとで
「そこには、三宅雪嶺や柳田國男など、伝統的な保守主義がもつ格調の高さ、論理の精密さというものはない。」と書いております。
何か二人の名前を出して、恰好をつけてダメ押しをしている風なのです。
そのあとが、傑作。
どういうわけか、韓国の経済学者、金泳鎬(キム・ヨンホ)を引用するのです。
「いまの日本は井のなかのカエルではない。井のなかのクジラだ」。
こうして金さんの言葉を引用したあとに、だらだらと、社説で講釈をはじめて、
なんと最後に近くこう指摘するのです。
「カエルとクジラの話に戻すと、まず、クジラがすむ日本という名の井戸の水を十分に攪拌することだ。一つだった井戸の湧き口をもっとふやし、井戸水が川へ流れ、海にいたるような水路も用意しよう。そのとき、それはもはや井戸ではない。クジラは、そのあいだを、自由に往来するようになるだろう」

なんとも、私はこれを読んで唖然としたのです。「伝統的な保守主義者がもつ格調の高さ、論理の精密さといったものはない」と書いたあとに、韓国の学者のクジラの比喩を持ち出し、しかもそれを使ってしめくくろうとしておりました。

この社説の見出しが、またすごいのです。
題して「井戸の水をかき回そう 21世紀への助走」とあります。
いったい、この社説は、どこの国の人が書いているのでしょうか?
一瞬笑わせようとして書いているのかと思いましたが、違うようです。
それよりも、韓国人や中国人が、他国人を馬鹿にするような書き方なのじゃないのか?
さて、皆さんは、これがどの新聞社の社説だと思いますか?
その新聞社の名前は最後に明かすとして。ところで、この社説はいつ書かれたか?
1997年1月1日。つまり元旦の新聞社説なのです。
私は、この社説を忘れないでしょう。元旦に言葉で持って唾を吐きかけているようなこの社説を、私はこれからも忘れないでしょう。しかも、この社説はいっぱし、日本人を引率している気でいるらしい。

元旦でしかも、「伝統的な保守主義が持つ格調の高さ」というと私が思い浮かぶのは、たとえば、岡野弘彦氏のインタビューに答えたこんな言葉です。

「私の生まれは三重県の雲出川の上流で、昔ふうにいえば伊勢、大和、伊賀の三国が接するところの神社です。歌の道を選んでいなければ、35代目の神主でした。・・五歳のときには、父にいわれ、新年の若水を汲(く)みました。そのとき、氷の張る川に向かって唱える歌があります。

  今朝(けさ)汲む水は 
  福汲む水汲む宝汲む命永くの水汲むかな

最初に覚えた歌は、これでした。」(夕刊1998年9月17日)


こうして歌人岡野弘彦氏の「新年の若水」を、引用していると落ち着いてきます。
最後になりましたが、引用した1997年元旦の社説は、ほかならぬ朝日新聞です。

(もう一つ井戸を引用したかったのですが、以上で十分でしょう。せめて題名だけでも、書きとめておきます。対談「昭和の道に井戸を訪ねて」。平成7【1995】年10月「思想の科学」に載った司馬遼太郎・鶴見俊輔の対談なのでした。)


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マザー・グース。

2007-07-11 | Weblog
和田誠訳「オフ・オフ・マザー・グース」(ちくま文庫)があります。帯には「オリジナル挿絵240点収録」とあります。ちょうど見開きページの右側が日本語訳、左側が英詩。その間の詩の空白に挿絵が描かれております。とても楽しい配置なのですが、どうも、私にはピンとこなかった。どうしてかなあ。と思っていたら、すぐにわかりました。私は最初にCDを聴いていたからです。
東芝EMIから出ていた2枚。
   オフ・オフ・マザー・グース
   またまた・マザー・グース

この2枚は、今は発売されておりません。古いCDを買うしか今は手に入らないのでした。最初に聴いたのはテレビででした。それは、阪神大震災のチャリティーコンサートとして企画されたものでした。
CD「またまた・マザー・グース」の解説書に、この詩を作曲した櫻井順さんが書いておりました。
ひとつの詩にひとりが歌っておりまして。豪勢な顔触れのコンサートなのです。
「途中から『オフ・オフ』『またまた』のアーチスト達による阪神大震災被災孤児のためのチャリティコンサートの企画が持ち上り、ぼくらも賛同して97年2月1日に東京国際フォーラムで『マザー・グース・コンサート』が開かれた。なんと半数以上62組のアーチストがスケジュールを割いて参加してくれ5000人の観客とともに心のこもったチャリティの一夜を持つことが出来た。和田誠と冗談のように始め、いろんな人達がアソビで参加してくれたことで完成したこの2枚のCDが、こういう形で子供たちの役に立ったことに実にフシギな因縁を感じる。やっぱり神様っているのかな、と思う。」
ついでにCD「オフ・オフ・マザー・グース」の解説書にある櫻井順さんの文章も、この曲ができあがる経緯を語っていて面白いのでした。
せっかくですから、それも引用しておきましょう。

「・・彼一流のコダワリ方で原詩の脚韻を逐一あざやかな日本語の脚韻に移し替えている。でも折角のそのオモシロサはやっぱりメロディにしてみないと分かりにくいなァと思ったので試しに2・3篇の詞にメロディをつけてみた。これがなんともすごく作り易いのだ。その晩のうちに10篇ばかりを曲にして、次の句会の折にそのスケッチテープを彼に渡した。暫くしてアレオモシロイネと言われたので、調子に乗って頼まれもしないのに60篇を片っ端から曲にしてしまった。ノッケは多少とも子供を意識した行儀の良いメロディで揃えていたが、次第に気分が変っていろんな曲の切れっぱしの引用やら定番のパターンやら民俗旋法やらナンデモアリのスタンスになった。・・・こうして何の意気込みも狙いもオブリゲーションもなく、なんとなく出来てしまった60曲を前にして和田誠とふたり、どうしたものかと思案していたところへ東芝EMIの仙波プロデューサーがヒョッコリと登場して、一流歌手60人に1曲ずつ歌って貰ってCDを作りましょうとコトも無げにノタマったわけであります。・・・」

文庫の「オフ・オフ・マザー・グース」もいいのですよ。
原詩と和田誠の訳詩が見れて、挿絵までも見れていいのですが、
音楽を見ているような物足りなさがあるのです。そしてCDは現在簡単には手に入らない状態です。 

そういえば、と思い出したのは加藤周一著「古典を読む23――梁塵秘抄」(岩波書店)でした。最初の数ページを見て、そのままに放り投げていた一冊でしたが、その最初の出だしだけは忘れられずにおりました。その出だし。

「『梁塵秘抄』は、後白河法皇(1127~1192)が編んだ平安時代の歌曲、――主として『今様』とよばれるものの歌詞の集大成である。記譜はなく、その歌い方も伝承されていないから、歌曲の音楽としての面はわからない。独唱者が、主として打楽器の単純な伴奏と共に唱ったらしいが、その旋律も『リズム』も想像する手段がない。しかるに歌曲の魅力の圧倒的な部分は、後白河法皇自身がいったように、唱い手の声や節まわしにあったにちがいない・・・・・」

ということで、「オフ・オフ・マザー・グース」を歌っている人の顔ぶれはというと、
佐藤しのぶ。おおたか静流。岸田今日子。柳葉敏郎。白石冬美。森山良子。甲斐っよしひろ。的場愛美。平野レミ。高泉淳子。坂本冬美。中山千夏。小坂一也。時任三郎。斎藤晴彦。イッセー尾形。清水ミチコ。笈田敏夫。天地総子。田中朗。小室等。石嶺総子。藤本房子。木村充揮。中島啓江。岩崎宏美。黒柳徹子。島田歌穂。近田春夫。大貫妙子。小松政夫。岡村喬生。鳳蘭。谷啓。井上陽水。スリー・グレイセス。タイムファイブ。知久寿焼(たま)。大竹しのぶ。ジミー時田。野坂昭如。C・W・ニコル。辛島美登里、露木茂。忌野清志郎。こうの・おさむ。雪村いづみ。巻上公一。松金よね子。デーモン小暮閣下。水前寺清子。ディーク・エイセス。小椋桂。熊倉一雄。中井貴一。由紀さおり、安田祥子。近藤房之助。真田広之。・・

CD「またまた・マザー・グース」を歌う顔ぶれも楽しみなのですが、ちょいとメンドウなのでこれくらいにしておきます。その顔ぶれを知りたければ、コメントをしてください。よろこんで付け加えておきます。
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指導者と説得者。

2007-07-10 | Weblog
久間防衛相の発言「原爆投下しょうがない」(朝日新聞2007年7月1日一面左上の見出し)を思っていたら、愛知県の長久手町での事件と結びつけたくなりました。ということで以下そのむすびつきについて。

まずは愛知県の事件をおさらいしてみます。
曽野綾子さんがVoiceに「私日記」を連載しております。
その8月号の記載を引用してはじめたいと思うのでした。
5月18日の日記に「・・愛知県の長久手町で、離婚した妻を人質に立てこもっていた元暴力団員は、警官一人を射殺し、一人に重傷を負わせ、自分の息子と娘も撃って、やっと午後八時半自分で家の中から出て来ると両手を上げて、『撃つな!』などと言っている。両手を上げている犯人に、しかも警官が殺到するでもない。傷ついた警察官を五時間も収容できず、しかも、犯人に異様に甘い薄気味悪い逮捕劇であった。」(p256)

曽野さんは「犯人に異様に甘い薄気味悪い」と書いております。
さて、2007年6月4日朝日新聞のopinion欄は、王敏(ワンミン)が書いておりました。そのはじまりはというと、

「先日、警察官ら4人が死傷した愛知県の立てこもり事件で、犯人投降の現場がテレビで報じられた。指示された通りに行動する男に対して、『ありがとう』と警察から感謝の言葉が発せられた。神経が高ぶっている犯人を刺激しないためのマニュアルに沿った対応だとの話も聞いたが、見ていた在日外国人の中には、『日本人はここまで寛容なのか』と驚いた人が多かったのではないだろうか。・・・」

私は、この事件の「ありがとう」と、久間発言「原爆投下 しようがない」という言葉とを結びつけたい誘惑にかられるのです。まあ、それはそれとして「諸君!」2007年8月号、佐々淳行氏の連載の記事の引用をしてみたいと思うのです。
佐々淳行氏はSATの創設者として立場から書いておりました。その連載での見出しは「愛知県警幹部は『不作為責任」を猛省せよ」とあります。
こうはじまっております。

「平成19年(2007)5月17日、愛知県長久手町の住宅街を29時間も恐怖に陥れた、人質をとった立籠り事件に対する愛知県警の危機管理は、日本警察として猛省すべき失敗例である。・・」

以下3ページにわたる箇条書きの指摘が読む者に分かりやすいのですが、
ここでは私が気になった箇所を引用してみます。
それはSITとSATを語る箇所でした。


「何のためのSAT投入か。17日午後4時10分の時点で、刑事部指揮のネゴシエイターSITによる時間をかけた『説得』から、警備部指揮、SATによる強行突入・制圧に警備方針を切り換えるべきだった。また傷を負った木本巡査部長の強行救出を最優先課題にすべきだった。犯人は『拳銃』のみの単独犯、人質は『第三者性のきわめて稀薄』は元妻。発端は『痴話喧嘩』でありDV(家庭内暴力)である。・・・あさま山荘の体験からいえば、機動隊のふつうの大楯は、二枚重ねれば拳銃弾は貫通しない。欠けていたのは『決断』と『勇気』だ。・・・
対テロの切札であるSATを衆目にさらけ出し、殉職者まで出し、この種の犯罪に対する抑止力を低下させた愛知県警上層部の『不作為責任』は、まさに、《進退伺い》ものである。猛省せよ、愛知県警。」


もちろん全文を読まれることが肝心なのですが、そこからすこし引用してみました。「対テロ」を私は「対中国」としたい思いでいるわけです。
「対慰安婦問題」としてみたくもなるのです。その「不作為」がこれ以上にはびこりませんようにと、祈りに似た気持ちを抱くわけです。  
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続「久間発言問題」。

2007-07-09 | Weblog
産経新聞2007年7月9日の文化欄に「『自虐』問い直すきっかけに」と見出しがありました。「評論家・宮崎哲弥氏に聞く」とあります。そこにこんな箇所がありました。

「宮崎氏は、近年まで原爆投下が絶対悪とはみなされていなかった資料を示す。長崎平和研究所が10年前に広島、長崎の中学、高校、大学生を対象に行った意識調査では、原爆投下について『戦争だから仕方がない』『早く戦争を終わらせるためやむを得なかった』と答えた学生の割合は、実に42.2%に上った。『当時、被爆地の学生ですら、これだけの割合が【しょうがない】と答えているのです。これこそが【自虐】的な平和教育のたまものでしょう。こういう教育を是とした人々に久間発言を批判する資格があるのか、と私は問いたい」

これは、今日の産経新聞なので、その気になれば、どなたにでも読める。
問題を、辞任劇で終わらせず、思想劇としての指摘をしているので、
ゆっくりと考えてみる価値があることを提示しております。
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久間発言問題。

2007-07-08 | Weblog
久間章生(きゅうまふみお)氏は昭和15(1940)年12月に生まれ、出身は長崎県南島原市。ここでは、読売新聞2007年7月1日の2面記事を引用してみます。
【久間防衛相は30日、千葉県柏市の麗沢大学で講演し、1945年8月に米国が広島と長崎に原子爆弾を投下したことで昭和戦争の終戦が早まったと指摘した上で、「間違えると北海道までソ連に占領されていた。原爆も落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、『あれで戦争が終わったんだ』という頭の整理でしょうがないなと思っている」と述べた。・・・・久間氏は講演終了後、発言の真意について『当時の日本政府の判断が甘く、終戦が遅れるとソ連に占領されていた可能性があったことを指摘しただけだ。原爆を肯定したわけではない』と記者団に説明した。】

この問題については7月2日「産経抄」が読み甲斐があり、理解の助けとなります。
こうはじまっておりました。
「久間章生防衛相といえば、イラク戦争は間違いだったと発言した人物である。普天間基地の移設に関して、『アメリカは沖縄の声を聞かない』と批判もした。日米の同盟関係に波風を立てた《前科》がある。・・・・『しょうがない』人ではあるが、いわゆる原爆投下容認論者ではないらしい。たとえば、本島等元長崎市長は、『日本はアジアに謝罪する必要がある。原爆は仕方なかった』などと各地の講演会で説いたものだ。こうした考え方の原点をたどれば、広島市の平和記念公園にある原爆慰霊碑の碑文に行き着く。『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』。雑賀忠義広島大学教授の考案によるこの碑文は、昭和27年の碑建立当時から、『主語』をめぐって論議を呼んできた。率直に読めば、原爆投下は、日本人に責任があるということになる。この碑文をありがたがる人たちに、久間発言を非難する資格はない。・・・・」

原爆といえば、大江健三郎著「あいまいな日本の私」(岩波新書)にある言葉が思い浮かびます。それを指摘していたのは、谷沢永一著「こんな日本に誰がした」(クレスト社・平成7年)でした。

【広島、長崎のあの大きい犠牲は、償われなければならないと思います。償うのは私たちです。】(「あいまいな日本の私」より)
こう大江発言を引用したあとに、谷沢さんは書いております
「【広島、長崎のあの大きい犠牲は、償われなければならない】とくれば、加害者が被害者に償うというのが、通常の言葉遣いである。ところが大江の場合は【償うのは私たちです】、つまり被害者が被害者を償うわけだ。・・・」
こうして、谷沢さんは指摘するのです。
「そこには日本人としての気概も誇りもない。しかしこれは大江ひとりだけの問題ではない。戦後日本は気概を持たないことが国是となってしまった観がある。最近、それを如実に物語る出来事が北京で起きた。訪中した村山首相に対し、北京政府の首相・李鵬(りほう)は『日本にはたしかに軍国主義が存在する』と述べた。だが、自分の国はどうだと言うのか。膨大な国家予算を使いながら着々と海・空軍力を増強しているではないか。国際世論を無視して地下核実験を強行し、南沙諸島や尖閣列島に手を出し、チベットを軍事力で威嚇しているのは誰か。北京政権こそ、最大の軍事大国ではないか。ところが李鵬は自国の軍拡にはいっさい口を閉ざし、ありもしない『日本の軍国主義』を非難する。実に、ふざけた話であるが、外国とはそういうものなのだ。・・自国のために、嘘をついてでも外国の悪口を言うのが、国際関係の常識なのだ。この時、村山首相はどうしたか。黙って李鵬の話を拝聴していたらしい。反論したという報道はない。・・・毅然として堂々と日本の言い分を主張するのが、政治家たる者の義務である。村山の態度には、日本国の宰相としての気概がひとかけらもない。気概の反対語は卑屈である。・・」(p164~167)

ところで、久間発言は武骨ではあれど、けっして卑屈ではない。
そう思うので、新聞記事およびコラムを引用し、再確認をしたかったのでした。
ただ、久間防衛相が辞任という経緯をふまえながら、少しずつでも、
私たちは「気概」を身につけていこうとしているのだと、そう思いたい。
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夏の漱石文庫3冊。

2007-07-07 | Weblog
出久根達郎著「作家の値段」(講談社)をぱらぱらとめくっていたら、漱石の箇所はこうはじまっているのでした。
「2006年は、夏目漱石が『坊ちゃん』を発表してから、ちょうど百年になる。前年は『吾輩は猫である』から百年、2007年は、『野分』「虞美人草」から百年、翌年は、『三四郎』『抗夫』と、これから毎年、続く。そうして、2016年が、『明暗』執筆百年であり、漱石没後百年となる。翌年が、漱石誕生百五十年で、今世紀前半の『漱石記念年』は一応これで終了となる。」(p150)

ことほどさように、漱石は話題をさらってゆきそうであります。
ということで「夏の漱石文庫3冊」を思いついたわけです。

 「漱石の夏やすみ」高島俊男著 (ちくま文庫)
 「漱石先生の手紙」出久根達郎著(講談社文庫)
 「漱石人生論集」出久根達郎解説(講談社文芸文庫)

自分の好きな文庫を並べる楽しみ。
今年の夏はほかに

 「座右の名文」高島俊男著(文春新書)
 「読書通」谷沢永一著(学研新書)

の2冊を、自分の再読書としてあげておきたいなあ。
その「座右の名文」には漱石が登場しますが、
その「読書通」には漱石が見あたらないわけです。
ということで、谷沢永一著「執筆論」(東洋経済新報社)から
辛口の漱石を引用してみようと思ったのです。

「日本近代文学会の春季大会(51年5月15日)では・・・あらかじめ論旨のレジュメを提出しておくように求められたので・・あえて近年に出た漱石論評の書に触れ、暗に越智治雄を批判する旨を示しておいた。学会の機関誌『日本近代文学』創刊号の巻頭に論文を寄せるなど、当時は学界を睥睨(へいげい)する観もあった東京大学教養学部助教授の越智治雄が刊行した『漱石私論』(46年)の筆法は、一世を風靡するかのような勢いであったけれど、このように豆腐のうえで踊るような足許の確かでない恣意的な駄弁は学界を毒すること甚だしいと私は懸念していた。・・その時が来た。私は慎重に草稿を練ってゆく。発言時間は20分である。・・他人を批判するに際しては、堂々と後暗いところがないとばかり、適度に諧謔(ユーモア)を交えながら、できれば聴衆が吹きだすような、明かるく朗らかな気配を漂わせながら進むべきであろう。当日になった。越智治雄は病いのためせんだって入院したと聞く。本人がそこに居ようと居まいと一向に構わない。会場は満席で座れず劇場のように立っている人もいる。あとで聞くところ出席者はほぼ1000名、うち会員でない一般の参加者が七割であったとか。私は20分きっちりで壇を降りた。・・・・・・・」(p127~129)

現在は、一世を風靡した観のある「漱石私論」のたぐいは、少なくなったのでしょうか?もっとも、今大学では、文学部がなくなるかどうかの瀬戸際ということで「私論のたぐい」の駄弁どころではないのかもしれません。それにしても、漱石は漱石。ということで、この夏、空白の時間を漱石で埋めるという予定を組んでみるわけです。

余談ですが、最近グレン・グールドのCDを聞いています。
すると横井庄一郎著「『草枕』変奏曲 夏目漱石とグレン・グールド」(朔北社)という本があるではありませんか。
その「はじめに」にはこうあります。
「この人ほど『草枕』を愛読したという話をほかに聞かない。しかも日本人ではなく、外国人であり、世界的な著名人でもある。20世紀で最もユニークな天才ピアニストといえばいいのだろうか、その名をグレン・グールド(1932~1982)という。カナダに生れてカナダに没した、実に個性あふれる人物であった。彼はこの漱石の『草枕』を『20世紀の小説の最高傑作の一つ」と評価し、死に至るまで手元に置いて愛読していたのである。・・・」(p8~9)

余談の蛇足になりますが、グレン・グールドのCDをネットで検索していたら、
テレビドラマにもなった漫画「のだめカンタービレ」のベストCDにグレン・グールドが、ちゃんと入っいるようです。
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かくしていた。

2007-07-06 | Weblog
ブログ「書迷博客」は、ほんねこさんが書いております。
2007年7月5日の書き始めはこうでした。「今回はあまり趣味のよい話ではないので、グロテスクなことの苦手な方は読まないがよいかと思います」。うんうん。私はかえって読む気分になりました(笑)。そこでは、関東大震災のあとに、うまいエビを食べたという記述から、それは車エビじゃなくて上海蟹のことじゃないかと、つなげてゆく展開での引用が魅力です。まあ、それは読んでのお楽しみということで、ここでは、私が思い浮かんだことを引用しておきます。

思潮社の現代詩文庫60「会田綱雄詩集」に伝説という詩が載っております。
そこには会田さんの文章も載っていて、題して「一つの体験として」。
そこに上海蟹のことが登場しておりましたので、ここに引用したいと思ったわけです。「昭和15年の暮、私は25歳だったが、志願して、南京特務機関という、軍に直属した特殊な行政機関にはいった。・・・その特務機関には、日本が南京を攻撃したときに参加した兵隊も、特務機関の前身だった宣撫班の班員もいた」そこでの同僚が教えてくれたという話があるのでした。
「戦争のあった年にとれるカニは大変おいしいということ。・・これは・・民衆の間の、一つの口承としてあるということ。・・カニが戦死者を食うという口承は、私の頭の中にこびりついたが、南京ではカニにお目にかからなかった。特務機関から解放されたあと、上海へ行って、はじめて中国のカニを食べた。上海のうすぎたない通りに、うすぎたない小料理屋がたくさんあった。中国人の経営である。小料理屋といっても居酒屋のようなものだが、そのうすぎたない居酒屋のある通りには、季節になると、秋の終わりから冬の初めにかけてだが、カニ売りが出てくる。どこから獲って来るのかよくわからない。揚子江のそばだから、揚子江から直接獲るのか、あるいは揚子江の支流か、あるいはそれにつながる沼などから獲って来るのだろうと思うが、大きなカニで、食べてみるとたしかにおいしい。私の尊敬している豊島与志雄さん、彼は詩人の魂を持った立派な作家だったが、酒が好きで、時々上海へいらしていたようだが、それは戦前からのことで、上海になぜ来られるのかというと、酒もうまいが、何といっても季節のカニがおいしいので、それを食べに来るのだと、冗談のように私に打ちあけられたことがある。それほど上海で食べるカニはおいしい。」
次に池田君が登場します。
「池田克己が上海にいた。・・池田君は私と初めて会った日に、うすぎたない路地の小料理屋へ私を連れて行ってくれた。その途中で、池田君がカニ売りからカニを買った。カニ売りといっても、道ばたに立っていて、生きたままのカニを一匹づつ縄にしばってよこす。池田君は私よりも前から上海にいたので、非常になれたもので、カニを四匹ばかり買って小料理屋にはいり、その店でゆでてもらって、のみながら食った。池田君は、私が南京で聞いた、戦争の年のカニはおいしいという口承を知らなかったと思う。私はそのことを池田君にはかくしていた。」
そうして詩「伝説」の話がでてきます。
「日本へ帰ってきて、昭和30年、終戦から10年たったわけですが、ある日不意に『伝説』のイメージが生まれた。・・私としてはそういう戦争中の体験がなければこの詩はできなかったと思う・・」

さてそれでは、詩「伝説」を以下に引用してみたいと思います。

  湖から
  蟹が這いあがってくると
  わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
  山をこえて
  市場の
  石ころだらけの道に立つ

  蟹を食うひともあるのだ

  縄につるされ
  毛の生えた十本の脚で
  空を搔きむしりながら
  蟹は銭になり
  わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
  山をこえて
  湖のほとりにかえる

  ここは
  草も枯れ
  風はつめたく
  わたくしたちの小屋は灯をともさぬ

  くらやみのなかでわたくしたちは
  わたくしたちのちちははの思い出を
  くりかえし
  くりかえし
  わたくしたちのこどもにつたえる
  わたくしたちのちちははも
  わたくしたちのように
  この湖の蟹をとらえ
  あの山をこえ
  ひとにぎりの米と塩をもちかえり
  わたくしたちのために
  熱いお粥をたいてくれたのだった

  わたくしたちはやがてまた
  わたくしたちのちちははのように
  痩せほそったちいさなからだを
  かるく
  かるく
  湖にすてにゆくだろう
  そしてわたくしたちのぬけがらを
  蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
  むかし
  わたくしたちのちちははのぬけがらを
  あとかたもなく食いつくしたように

  ・・・・・
  ・・・・・
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初版『古寺巡礼』。

2007-07-05 | Weblog
谷沢永一氏の対談での言葉でした。昭和4年生れの谷沢さんにとって今現在は貴重な時間であります。ということで
「いつからかは覚えていませんが、本を買うのに、あとで買おう、安いときに買おうとは思わなくなりました。本が出たとき、親の敵とばかりに買ってしまいます。それに、かねてから欲しかった本を手に入れることは、気を落ち着かせる作用があります。何十年も前から和辻哲郎の『古寺巡礼』の初版を持ちたいという気持ちがありまして、昨年、それをやっと手に入れました。裸本ですが間違いなく初版です。長年気にかかっていた本がこの年で手に入るのは非常にうれしいものです。」(p233「人間は一生学ぶことができる」PHP研究所)。

このうれしさの恩恵を、私たちがうけている、と思える箇所があります。
それは、谷沢永一著「読書通――知の巨人に出会う愉しみ」(学研新書)の中の美術史学者・矢代幸雄を取り上げた箇所にあります。

「さて若き日の矢代幸雄は、天の恵みとも思われる三渓原富太郎の知遇を得た。主として東洋美術では近代最高とみなされる蒐集(コレクション)による実地の薫陶(くんとう)によって養われた鑑賞眼が、のちの彼を支える決定的な素地となった。三渓はもっぱら自己独自の傑出した感覚に基づいて粒選りの名品をそろえ、趣味を同じうする選ばれた人たちには惜しげもなく見せて語り合うのを常としたのである。和辻哲郎は三渓と夫人同士が親友であった関係から、自然に三渓の影響を受けた。その結実が彼の奈良旅行による『古寺巡礼』(大正八年初版発行)が生まれた。この書はのち改訂されて今は岩波文庫に収められているけれど、矢代幸雄の眼には、初版の方が、より自然な感情の流露があって興味ぶかく感じられると言う(「私の美術遍歴」)。」(p73~74)

初版『古寺巡礼』を手に入れた谷沢永一氏の具体的な感想はというと、この新書では、それ以上の言及はありませんでした。何だか気になるなあ。まあ、それはそれとして、新書『読書通』のなかに谷沢さんが「いきなり棍棒で殴られたような気分であった」という箇所あります。それは、どうやら谷沢永一氏の信条になっているかのように思えるのでした。最後にその箇所を引用しておきます。

「あれは昭和30年代の初頭であったか、天野(敬太郎)先生が『日本古書通信』に「近代作家書誌案内」の連載を始められた。まことにありがたい快挙である。たまたま私は国文学のうち近代文学専攻という割り当てになっているので、かねてから近代の書誌には多少とも気を配り、やや稀少の材料を手許に置いているが、天野先生の目もそこまでは届かない。そこで私はさかしらに、先生がまだご存知ない近代書誌資料の若干を、天野方式で覚書(メモ)に認(したた)め、図書課長の席へお届けした。先生はにこやかにそれを受け取られたものだから、お役に立ったと私も安心していた。それから三ヶ月余、私の覚書による資料が天野先生の「近代書誌案内」に掲げられた。それを見たときの衝撃は今も忘れられない。私がお届けした資料のすべてを、先生は順に掲げられているのだけれど、それらすべての項目に、(未見)、とはっきり注記してあるではないか。いきなり棍棒で殴られたような気分であった。天野先生は私の覚書なんてはじめから一切信用されていない。ご自分の眼でじかに確かめた物件のみが先生にとっての資料なのだ。我が眼で確かめたもの以外は絶対に信用しない。他人からの伝聞を軽々しく採り上げるようでは、その記載、その資料について、自分は責任を持たないのであるぞ。これが天野先生による私への痛撃であった。そうでなければいけないのだと納得した私は・・・・」(p63~64)

こうして谷沢さんは、天野先生にご自分の蔵書を見せて確認してもらうのでした。
それにしても、初版『古寺巡礼』を読んでみたいなあ。
そう思いませんか。
ここから私は、あらぬことを思い描くわけです。
どなたか名編集者が初版の古寺巡礼を出版しようという企画を出す。
どうすれば、出せるのか文庫のかたちではどうか?
「そうだ 京都 行こう」のJR東海とタイアップするとか。
いまだ高校の修学旅行では(私の地方でもそうです)京都・奈良方面へ出かけるところが、まだ多いかと思われます。そういう高校の先生方が買うのじゃないか(無理か)。そうして、どなたかが「古寺巡礼」の初版の魅力を語る。名書評家がいいですが、ともかくもネット上の書評家各位へと見本刷りを配布するのです。その昔の高校生で修学旅行へ出かけた50代以上の読者も、きっと読みたいと思っているのじゃないか。・・・とまあ、都合のよいことを思うわけです。それもこれも、ひとえに読みたいからなので。どこかの出版社でこの企画を取り上げるところがないかなあ。それにしても読んでみたいなあ。谷沢さんが何十年も前から欲しがっていた本なのですから、時間はどのくらいかかって待ちましょう。
ここはひとつ、谷沢永一氏に推薦文を書いてもらえればなあ。

とりあえず。現在の岩波文庫「古寺巡礼」を、その初版のことを思い描きながら読み直してみるということにぐらいが私にできることかなあ。

おっと、そうじゃなかったのです。
谷沢永一著「読書通」(学研新書)からは、本の峰々がそびえたつ壮観。そのまえでおろおろとしてしまうほどに圧倒させられるのでした。
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また加藤周一。

2007-07-03 | Weblog
朝日新聞2007年6月21日文化欄。吉田秀和氏の音楽展望を読んだのです。こう始まっておりました。「新聞を読むのが、だんだん億劫になってきた。目が悪くなったせいではない。中身のことである。しばらく前からその気味があったのだが、最近は手にとって読む前から気が重くなってきている。・・」この出だしを書き写していて思うのですが、吉田秀和さんは何新聞のことをいっているのでしょう?
億劫になっているらしいので、きっと各新聞社の新聞を数紙あわせて読んでいるわけではないでしょう?おそらく朝日新聞一紙のことをさしているのではあるまいか?なぜって、いまほど各新聞の違いがはっきりしていて、読み比べるとワクワクしてくるほど相違点を指摘できるのでした。それを「気が重くなる」と吉田秀和さんがわざわざ指摘するのは何新聞なのだろう。そこが気になるのでした。

つづけて秀和氏は「読みたい記事ものっている」として
「例えば、加藤周一さんのコラム。彼は――特に近年は、世の流れに逆らっても、信じるところを主張する。彼は常に知の限りをつくして『理』を説く。特に時代の大きな問題について、自分はどう考えるか、なぜそうかを、その正否、それから利害損失に至る面からも、徹底的に究明しようとする。・・・彼は全霊全力を尽くして考えつめ、読者に語りかけてやまない。・・それはもう戦いの姿勢。私はそれに打たれる。戦士といえば、大江健三郎さんの書くものにもそれを見る心地がする。」

吉田秀和さんのこのコラムをどう読めばよいのでしょう。
ここでは新聞というのが、朝日新聞のことのようです。
繰り返すと朝日新聞の記事内容の「中身のことである。・・最近は手にとって読む前から気が重くなってきている」というように読めるわけです。
それでも朝日新聞にコラムをよせている加藤周一・大江健三郎の両氏のコラムには、打たれると吉田秀和氏は指摘しているようです。

ちょうど古本の「三酔人書国悠遊」(潮出版)を見ていたのでした。
この本は鼎談で谷沢永一・加地伸行・山野博史の三人が語り合っております。
その小西甚一氏の本をとりあげている回で、ちらりと加藤周一が登場しておりました。せっかくですから、その箇所を引用してみたいと思うのです。


それは小西甚一氏の『日本文藝史』をとりあげている話題の中でした。
ちなみに山野博史さんはその話題の最後にこう語っております。
「サラリーマン家庭の本棚に『日本文藝史』が並んでいたら、それだけで、そのお宅を尊敬したくなりますね。・・出版と同時に、『古典』となることが約束されている不朽の名著なのに・・」

では、そこで加藤周一氏がでてくる箇所を、引用しておきます。

【山野博史】ふつう、国際的視野とかいうと、なにかバタ臭い、モダニズム調が胸くそわるく幅をきかせるでしょう。加藤周一の『日本文学史序説』みたいに。しかし、あの種の臭みは全然ないですね。
【谷沢永一】『日本文学史序説』はマーガリン。バタ臭さをねらっただけ。
【加地伸行】加藤さんは残念ながら漢文学がわかっていない。だから、ステレオタイプのことしか言えなかった。
【谷沢永一】加藤さんはつまらぬ理屈をつけるんです。川端康成の『雪国』がなんで名作なのかといえば、あれは恋愛進行中に書いた作品だからだ、と(笑)。その点、小西さんの視点ははっきりしている。つまり文藝というものは、偉大な個性が出てきたときに光るんだ、というわけです。俳諧が始まって百年たてば、自然に芭蕉が出てくるとうものじゃない、と。



それにしても、朝日新聞の記事のなかでは、きっと加藤周一や大江健三郎のコラムというのは輝いてみえるのでしょう。それは輝いて見えるというよりも、ひょっとして社説等が、読むのも億劫な内容でしかないからなのじゃないかと私などは愚考するわけです。今度朝日新聞の古新聞をもらってきたら、読まずにいた加藤周一さんのコラムをあらためて読んでみることにします。


ちなみに吉田秀和氏は1913年生まれ。
そして、加藤周一氏は1919年生まれ。
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漱石の夏。

2007-07-02 | 安房
高島俊男著「漱石の夏やすみ」(ちくま文庫)
出久根達郎著「漱石先生の手紙」(講談社文庫)
あとは、地域的に整理されている市原善衛著「芥川龍之介 房総の足跡」(文芸社)

2007年の夏は、この3冊を結びつけたくなりました。

明治22年(1889年)夏目漱石23歳の時。
第一高等中学校の生徒だった漱石は、その年の夏やすみを旅行にすごしました。
そして、房総旅行の見聞をしるした「木屑録(ぼくせつろく)」をまとめます。

大正3年(1914年)芥川龍之介22歳の時。
東京帝国大学の学生だった芥川は、千葉県の一宮を訪れております。
その大正3年は夏目漱石の新聞連載「こころ」が書かれております。
ちなみに、漱石はその2年後の大正5年12月9日に死去しております。
ここで私は、二人の夏やすみに補助線を引いてみたくなりました。

まず、簡単な類似点ということで、書いてみますと、
「漱石が房総旅行の経験を断片的にもちいた作品に『草枕』『門』『こころ』がある。うち『草枕』にはこうある。【昔し房州を館山から向ふへ突き抜けて、上総から銚子まで浜伝(はまづた)ひに歩行(あるい)た事がある。】また『門』にはこうある。【・・・保田から向ふへ突切つて、上総(かづさ)の海岸を九十九里伝ひに、銚子迄来たが、そこから思ひ出した様に東京へ帰つた。】これらからほぼ、経験そのままと見てよかろう。」(高島俊男著「漱石の夏やすみ」・文庫p48)ということは、芥川が滞在した一宮町を漱石は歩いていたのでした。

ここらで、高島俊男訳の木屑録を引用してみます。「極力よみやすく、調子よくとこころがけた」という高島さんの訳の最初の方にこんな箇所があります。

「房州旅行中、おれは毎日海水浴をした。日にすくなくも二三べん、多くば五たびも六たびも。海のなかにてピヨンピヨンと、子どもみたいにとびはねる。これ食欲増進のためなり。あきれば熱砂に腹ばひになる。温気腹にしみて気持よし。かかること数日、髪毛だんだん茶色になり、顔はおひおひ黄色くなつた。さらに十日をすぎて、茶色は赤に、黄色は黒にと変色せり。鏡をのぞきこれがおれかと、アツケにとられたり。」

どうやらはじめの内房の保田海岸での海水浴のようです。
それでは、外房の一宮での芥川の海水浴はどうだったか。
それを知るのに、友人・浅野三千三への手紙があります。

「君は僕より一級上に堀内利器と云う、専売特許の井戸掘り器械のような名の男がいたのを知っているでしょう。一の宮はあの堀内の故郷です。堀内の故郷だけに又、海も恐ろしく未開です。海水浴と云うのは名ばかりで、実は波にぶんなぐられにはいるのだから堪りません。海水浴場にある一宮町役場の掲示にも、泳げとは書いてないで背部を波にうたすべしと書いてあります。悪くするとひっくりかえされて水をのみます。始めての日などは、かなり塩からい水をのまされました。(大正3年7月28日付)」

芥川は大正4年に『羅生門』を発表します。
その年の11月末か12月初めの木曜日に、
芥川龍之介・久米正雄の二人は初めて漱石宅を訪れます。
次の大正5年2月に芥川は「鼻」を発表します。
すると2月19日付で夏目漱石から「鼻」賞讃の手紙が芥川へと届くのです。
この時、芥川は25歳。その7月に東京帝国大学英文学科を成績二番で卒業します。
8月、久米正雄と千葉県一の宮に遊びに行き、九月上旬まで滞在します。


ここで、ちょいと寄り道して、高島俊男さんの見解を引用したいと思います。

「漱石の作品を見ると、できばえのよしあしとは別に、漱石が、おれはこういうことをやっているときが一番たのしいなあ、と思いながらつくったことがつたわってくるものがいくつもある。絵や書はたいがいそうである。俳句も、せっせとつくっては病気の子規におくって、子規にわるくちをいわせてたのしんでいた時期はそうである。小説では『草枕』と『吾輩は猫である』が顕著にそうである。・・・・そして、最初の作品である木屑録と、最晩年『明暗』を書いていた時期に毎日つくっていた詩、これがそうである。漱石は、それをつくっている時間、つくっている過程をたのしんでいる。絵がそうであるように、また『草枕』がそうであるように。・・・」(「漱石の夏やすみ」文庫・p156~157)

もどって、大正5年は漱石の亡くなる年です。
その5月26日から「明暗」の連載が始まっています。
その夏。芥川・久米から漱石宛に葉書が来たのです。
その返事を8月21日に漱石は書いておりました。
それでは、その手紙を引用します。


「あなたがたから端書がきたから奮発して此手紙を上げます。僕は不相変(あいかわらず)『明暗』を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快楽、器械的、此三つをかねてゐます。存外涼しいのが何より仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出来ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出来るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたので一つ造りたくなつてそれを七言絶句に纏めましたから夫を披露します。・・・
    尋仙未向碧山行
    住在人間足道情
    明暗雙雙三萬字
    撫摩石印自由成

(・・・・明暗雙雙といふのは禅家で用ひる熟字であります。三萬字は好加減です。・・・結句に自由成とあるのは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい)一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。山を安く買つてそこに住んでゐます。景色の好い所ですが、どうせ隠遁するならあの位ぢや不充分です。もつと景色がよくなけりや田舎へ引込む甲斐はありません。
勉強をしますか。何か書きますか。・・・僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。・・
今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでせう。
私はこんな長い手紙をただ書くのです。永い日が何時迄もつづいて何うしても日が暮れないといふ証拠に書くのです。そういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する為に書くのです。夫からそういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋つてゐます。 以上

                                 夏目金之助
          八月二十一日

        久米 正雄様
        芥川龍之介様                         」


ここでもう一度、高島訳「木屑録」へともどり、
その最後の「自嘲、木屑録のおしまひに」を引用して終わります。




  白い眼で見て世間と無縁
  つむじまがりは八方不評
  時勢に背をむけ時人の悪口
  古書を読んでは古人をあざける
  老馬のごとくにのろまでおろか
  セミのぬけがら薄くてからつぽ
  なんにもなけれど自然が好きで
  海山ばかりが思はれる

コメント
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