田村隆一詩集「新年の手紙」(青土社・昭和48年)。
見返しの次㌻には、封筒が貼ってある奇抜な趣向。
装幀は池田満寿夫。表紙カバーをはずしてみれば、
白い布表紙には、カバー絵とは異なる装幀者の絵。
古本の白布表紙は、当然のようにシミが目立ちます。
本の天・小口・地(けした)も黄ばみで変色してる。
この詩集のはじまりの詩の
最初の二行を、紹介します。
「 麦の秋がおわったと思ったら
人間の世界は夏になった 」
う~ん。一行目の秋から二行目は夏。
ふ~ん。現代詩はこうして飛ぶのか。
大矢鞆音著「画家たちの夏」(講談社・2001年)には、
五人の画家が登場しておりました。
第五章は『若木山 夏を描く』と題されてます。
はい。最後の第五章から読み始める。
各章の題の裏ページには、画家の写真と略歴。
第5章はというと、
「 若木山( わかぎ・たかし 1912~1974 )
明治45年4月3日熊本県坪井町に生まれる。
・・・・・
昭和17年召集され、中国東北部で終戦。
シベリアに抑留される。22年復員。23年院展に初入選。
・・・・・ 」(p238)
大矢鞆音さんは第5章をシベリア抑留から書きはじめておりました。
「ソ連兵の監視のもと、『ダワイ』『ダワイ』、急げ、急げと
追われる家畜のように、シベリアの大地、ハバロフスクの西、
ビロビジャンにようやく辿りついた時は昭和20年も10月となっていた。
50日間をこえる行軍の中で、多くの日本兵が命を落とした。
生きのびた人びとには更に苛酷な日々が待っていた。
ウシモンスカイの炭坑には厳しい冬が迫っている。
これからどうなるのか、先の見えない不安がまず重くのしかかる。
誰もが、それは同じだった。これからの生活に見通しのないことの、
いいようのない怖れが皆の心に重しとして横たわっている。
シベリアの冬は10月に入ると雪が降りはじめ11月いっぱいそれは続く。
じっと見上げる空からは黒い花びらのように、雪片が舞って止むことがない
12月に入るともうほとんど雪は降らず、時にきらきらと光る
ガラス片のようなダイヤモンドダストが舞い散るだけだ。
降った雪は根雪となって、全てを覆いつくし、
永遠につづくかのような厳しい、長い冬となる。
マイナス40度、50度の日々が、来る日も来る日もつづく。
それに加えて常に風が吹く。・・・・・・・・・・・ 」(p239)
「 この話を私は福岡に在住する曹洞宗の
御住職松崎禅戒さんからうかがった。 」(p241)
うん。ここから抑留の体験が語られるのですが、
つぎ、『人間の世界は夏になった』へ飛びます。
「昭和22年にシベリアから帰国。
翌23年に『常陸乙女』で院展初入選を果たす。
『常陸乙女』につづいて、『信濃娘子』『安房の海処女』
『海女』『波上海女図』と院展に連続して、乙女たちを描きつづける。
『常陸乙女』では・・後に妻となる美江さんと
その妹さんたちがモデルを務めたが、
この海の乙女たちは、房州の海女たちがモデルを務めている。
見せていただいたスケッチの海女たちの脇には、
そのモデルの人たちの名前がていねいな字で一人一人書かれていた。
モデルとなった一人一人の乙女たちに、語りかけるように描いてきた
若木山のやさしさが滲み出ているように私には感じられた。
・・・素朴なたくましい海女、そこには飾らない美しさ、
太陽に向かってはじけるような若さ、まぶしさがある。
シベリアでは見られなかった、体験できなかった、
青い空、青い海での灼熱の世界を、次々に伸びやかに、
屏風仕立てという大ぶりな画面の中に描いている。・・・」(~p259)
ところどころに、カラーで絵が掲載されておりました。
常陸乙女 昭和23年(1948) 178.4×350.6㎝
海女 昭和27年(1952) 180 ×176㎝
波上海女図(右隻)昭和28年 179 ×174㎝
島の椿 昭和38年(1963) 173 ×218㎝
夏の水 昭和46年(1971) 195 ×230㎝
大矢鞆音(おおや・ともね)さんは、この本の題を
どうして『画家たちの夏』としたのか序章の最後にありました。
「戦後、多くの画家たちは生活の苦しさを抱えながらも、
ともかく平和のなかで再び絵が描ける喜びを自分のものにしていた。
絵を描くことがひたすら好きだった画家たちである。
・・・・・・・・・
美術の秋ということばをよく耳にするが、
画家たちにとっての戦いは、夏である。
彼等は季節の夏を、人生の夏を、どのように生き、
どのように描き、どのようにして・・・ 」( p16 )
はい。まだ、第五章しか読んいない癖して、私は満腹。