和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

画家たちの夏。

2022-07-15 | 本棚並べ
田村隆一詩集「新年の手紙」(青土社・昭和48年)。

見返しの次㌻には、封筒が貼ってある奇抜な趣向。
装幀は池田満寿夫。表紙カバーをはずしてみれば、
白い布表紙には、カバー絵とは異なる装幀者の絵。

古本の白布表紙は、当然のようにシミが目立ちます。
本の天・小口・地(けした)も黄ばみで変色してる。

この詩集のはじまりの詩の
最初の二行を、紹介します。

「  麦の秋がおわったと思ったら
   人間の世界は夏になった    」


う~ん。一行目の秋から二行目は夏。
ふ~ん。現代詩はこうして飛ぶのか。




大矢鞆音著「画家たちの夏」(講談社・2001年)には、
五人の画家が登場しておりました。
第五章は『若木山 夏を描く』と題されてます。
はい。最後の第五章から読み始める。

各章の題の裏ページには、画家の写真と略歴。
第5章はというと、

「 若木山( わかぎ・たかし 1912~1974 )
  明治45年4月3日熊本県坪井町に生まれる。
  ・・・・・
  昭和17年召集され、中国東北部で終戦。
  シベリアに抑留される。22年復員。23年院展に初入選。
  ・・・・・                 」(p238)


大矢鞆音さんは第5章をシベリア抑留から書きはじめておりました。

「ソ連兵の監視のもと、『ダワイ』『ダワイ』、急げ、急げと
 追われる家畜のように、シベリアの大地、ハバロフスクの西、
 ビロビジャンにようやく辿りついた時は昭和20年も10月となっていた。

 50日間をこえる行軍の中で、多くの日本兵が命を落とした。
 生きのびた人びとには更に苛酷な日々が待っていた。
 
 ウシモンスカイの炭坑には厳しい冬が迫っている。
 これからどうなるのか、先の見えない不安がまず重くのしかかる。

 誰もが、それは同じだった。これからの生活に見通しのないことの、
 いいようのない怖れが皆の心に重しとして横たわっている。

 シベリアの冬は10月に入ると雪が降りはじめ11月いっぱいそれは続く。
 じっと見上げる空からは黒い花びらのように、雪片が舞って止むことがない
 12月に入るともうほとんど雪は降らず、時にきらきらと光る
 ガラス片のようなダイヤモンドダストが舞い散るだけだ。

 降った雪は根雪となって、全てを覆いつくし、
 永遠につづくかのような厳しい、長い冬となる。

 マイナス40度、50度の日々が、来る日も来る日もつづく。
 それに加えて常に風が吹く。・・・・・・・・・・・  」(p239)


「 この話を私は福岡に在住する曹洞宗の
  御住職松崎禅戒さんからうかがった。  」(p241)



うん。ここから抑留の体験が語られるのですが、
つぎ、『人間の世界は夏になった』へ飛びます。



「昭和22年にシベリアから帰国。
 翌23年に『常陸乙女』で院展初入選を果たす。

 『常陸乙女』につづいて、『信濃娘子』『安房の海処女』
 『海女』『波上海女図』と院展に連続して、乙女たちを描きつづける。

 『常陸乙女』では・・後に妻となる美江さんと
 その妹さんたちがモデルを務めたが、

 この海の乙女たちは、房州の海女たちがモデルを務めている。
 見せていただいたスケッチの海女たちの脇には、
 そのモデルの人たちの名前がていねいな字で一人一人書かれていた。
 モデルとなった一人一人の乙女たちに、語りかけるように描いてきた
 若木山のやさしさが滲み出ているように私には感じられた。

 ・・・素朴なたくましい海女、そこには飾らない美しさ、
 太陽に向かってはじけるような若さ、まぶしさがある。

 シベリアでは見られなかった、体験できなかった、
 青い空、青い海での灼熱の世界を、次々に伸びやかに、
 屏風仕立てという大ぶりな画面の中に描いている。・・・」(~p259)


ところどころに、カラーで絵が掲載されておりました。
 
 常陸乙女 昭和23年(1948) 178.4×350.6㎝
 海女   昭和27年(1952) 180 ×176㎝
 波上海女図(右隻)昭和28年 179 ×174㎝
 島の椿  昭和38年(1963) 173 ×218㎝
 夏の水  昭和46年(1971) 195 ×230㎝


大矢鞆音(おおや・ともね)さんは、この本の題を
どうして『画家たちの夏』としたのか序章の最後にありました。

「戦後、多くの画家たちは生活の苦しさを抱えながらも、
 ともかく平和のなかで再び絵が描ける喜びを自分のものにしていた。
 絵を描くことがひたすら好きだった画家たちである。
  ・・・・・・・・・

 美術の秋ということばをよく耳にするが、
 画家たちにとっての戦いは、夏である。

 彼等は季節の夏を、人生の夏を、どのように生き、
 どのように描き、どのようにして・・・      」( p16 )


はい。まだ、第五章しか読んいない癖して、私は満腹。

 
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ふたつの美術館。

2022-07-14 | 本棚並べ
安野光雅美術館と、ちひろ美術館。
そこに登場するお二人の方を思う。

① 竹迫祐子(たけさこ・ゆうこ)さんの略歴を見ると

「1956年、広島県生まれ。安曇野ちひろ美術館副館長。
 1984年より、いわさきちひろ絵本美術館に勤務・・」

② 大矢鞆音(おおや・ともね)の略歴
 
 「1938年東京に生まれる。・・・・
  ・・NHK 出版編集顧問。
  2001年3月開館の津和野町立『安野光雅美術館』館長。」

え~と。略歴は、本にあるものでした。
大矢鞆音著「画家たちの夏」(講談社・2001年)
竹迫祐子編「初山滋 永遠のモダニスト」(河出書房新社・2007年)

二冊同時に紹介すると煩雑になるので
今回は、竹迫祐子さんの本をとりあげます。

じつは、初山滋を最近になってしりました。
うん。知らずに通り過ぎていたのですが、
たとえば、柳田国男の「こども風土記」に
描かれていた絵は、初山滋でした。
それに、教科書の表紙も描いておりました。
この本には、光村図書の
『小学新国語六年上』表紙(1961年)
『小学新国語三年上』表紙などが載っていて、
その脇には紹介文があります。

「子どものためにこそ本当の芸術を届けたい。
 画家は、自分の装飾美の集大成ともいえる作品を描いた。
 1957年(昭和32)4月から1979年(昭和54)3月までの
 22年間・・・いつも子どもたちとともにあった。 」(p82)


本の「おわりに」は、竹迫祐子さんが書いております。
そこから引用しておくことに。

「1972年(昭和48)2月、初山滋の訃報を受けて
 いわさきちひろは、顔面蒼白となり、とるものもとりあえず、
 向山の家を訪ねたといいます。

  ・・・・・・・

 日本では、そして、世界でも、絵本のイラストレーションが
 美術として扱われることなく、長い年月がすぎ、
 多くのすぐれた作品が破損し、散逸してきた現実のなかで・・・

 生前の初山滋は、子どもの本のイラストレーションを
 美術として真摯に取り組み、また、その画家の立場を
 守ることに力を尽した人ではありました。  」

このあとに、竹迫さんは、エピソードを添えることを忘れません。

「けれど、それに反して、こと自分のこととなると、
 惜しげもなくその作品を人にあげた、

 とくに女性に希望されると断れなかったといった
 エピソードは有名です。

 そんな人間くささも、この人の限りない魅力のひとつでした。
 粋でいなせで、そのくせ、無頓着ともいえる格好を好み、

 もののない時代にタバコ欲しさに
 空襲のなかでも版木を彫りつづけるくせに、
 戦争のために絵を描くことはしなかった。

 初山滋という画家の、本質を見極めていく目の鋭さと、
 真実をみつめる目の確かさや感覚のまっとうさは、
 今の時代に多くのことを教えてくれるように思います。
 ・・・                      」
     ( p157 「初山滋 永遠のモダニスト」らんぷの本 )


はい。最近の収穫でした。
古本で見て読める楽しみ。

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『群馬の人』『常磐の大工』。

2022-07-13 | 本棚並べ
佐藤忠良・安野光雅「ねがいは『普通』」(2002年)の目次は、
最初が「バイカル湖」。その次が「仙台」となっていました。

「 仙台 彫刻の代表作が収まる美術館で 2001年6月 」

とあり、ここの宮城県美術館に、佐藤忠良さんの
代表作を収蔵展示する『佐藤忠良記念館』があり、
そして、司会役山根基世さんを交えての公開対談、
安野光雅氏との佐藤さんの鼎談みたいな形でした。
まずは、佐藤さんの生い立ちが語られていました。

佐藤】 僕は宮城県で生まれて六つまでいて、
    北海道へ渡り、二十歳まで北海道なんです。・・・

    僕の父は農学校の教師をしていたんです。
    教師をしながら剣道をしていて、学生に教えているときに
    背中を打たれ、カリエスになって、僕が六歳の時に死にました。
    ・・・・

これは、佐藤忠良記念館での鼎談なのですが、
安野光雅さんも、津和野のご自分の美術館について語っておりました。

安野】 津和野の美術館を作るとき、
    大工さんや左官屋さんがすごく一生懸命仕事をしていたので、
    今、聞き書きをまとめているんですが、彼らはほとんど
    中学出で、丁稚奉公をしていたんです。・・・・
    丁稚奉公の職人は・・皆、命がけです。尊いと思いますよ。
    ・・・・・・

    佐藤先生は、『職人の側に立つ』と以前書いていらっしゃるけれど、
    職人は皆、厳しい修行をしてなおかつ人間的に優れていないと、
    その先へ突き抜けていけない。

佐藤】  ・・私たち彫刻家のやっているのは、
     粘土をこねて、恥をかいて、汗をかいて、失敗して、
     やり直す、職人の仕事なんです。

     ・・・話が飛びますが、恋愛もそうなんですよ。
     ・・・時間をかけないとね――(笑)


うん。ここで安野さんが『その先へ突き抜けていけない』なんて
語っておられる。何なのだろうなあ『突き抜け』てっていうのは。
思い浮かんできたのは、また徒然草でした。

うん。ガイドの島内裕子さんは「兼好とは何か」のなかで
語っておりました。

「『徒然草』・・第一段は
 『いでやこの世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ』
 と始まる・・・

 注意すべきなのは、ここで理想とされているのは、
 貴族社会における男性のあり方であって、
 女性のことも庶民のことも、この段階では兼好の視野に入っていない。

 『徒然草』を書き進めるにつれて、
 兼好の視野は次第に広がり、狭い貴族社会を越えて、
 もっと広い世の中のあり方へと変化し、
 東国の武士や名もなき人々が、共感と親しみを込めて描かれるようになる。

 兼好はさまざまな人間を描きつつ、自分自身の見方も
 変化させるという自己改革を行ってゆく。・・・・」

       ( p121~122 「西行と兼好」ウェッジ選書 )


うん。『東国』という箇所に興味がわく。
佐藤忠良さんを安野さんは、こう指摘しておりました。

「 佐藤さんがシベリアで開眼したのも、
  ただきれいな肖像彫刻ではなかった。
  そして『群馬の人』『常磐の大工』などが生まれた。」
            ( p207~208 「絵のある自伝」単行本 )

兼好の東国を、島内裕子さんはどう紹介していたか。

「兼好は六位の蔵人として、後二条天皇の朝廷に出仕した経験がある。
 第19段には、その時に実際に体験したであろう御仏名・荷前・追儺
 四方拝などといた年末から新年へかけての宮廷行事が書かれている。

 また、『兼好法師集』によって、彼が少なくとも二度関東に出掛け
 ていることがわかるが、当時東国で行われていた年末の『魂祭』の
 光景など、実感が籠った書き方によって、冬の季節感が新たな観点
 から書かれている。徒然草を書き進めるにつれて、
 書き方に次第に変化が見られるようになてくる。・・・」

    ( p11~12 「徒然草文化圏の生成と展開」笠間書院 )


佐藤忠良さんの彫刻『群馬の人』『常磐の大工』と
どう関係するのか?
バイカル湖での安野・佐藤対談のなかに

佐藤】 それまで理想美、理想化された美みたいなものが、
    美の基準だった。・・・・

    私の学生時代はヨーロッパから初めて、
    いろいろなことが入ってきた。それまでの
    日本の彫刻は仏像だったり、床の間の飾りだったりしたわけです。
 
    我々も・・・立派な顔が彫刻になっていて、
    ジャガイモみたいな顔の彫刻なんてなかった。

    でも、シベリアに抑留されていた三年間、
    男ばかりで過ごしていると、本当に、
    すべてのことを見せ合ってしまう。

    その時、我々日本人っていうのは、
    教養と肉体がバラバラになっていると思いました。

    土方をしてきた人とか、野良仕事をしてきたような人のほうが、
    本当に人間的にすばらしい人がいることの発見でした。

    画家の香月泰男もやはりシベリアに抑留されていたんですが、
    帰ってからすごくいい仕事をしている。・・・・」


はい。吉田兼好の時代の東国というのは、
佐藤忠良のシベリア体験ほどの意味がつまっていたのではないか、
どうやら、それが徒然草のなかの、東国の描かれ方に現れている。
はい。そのように思えてくるのでした。

う~ん。吉田兼好と、佐藤忠良と、
飛躍するのもほどってものがある。






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自称職人・佐藤忠良。

2022-07-12 | 本棚並べ
安野光雅著「絵のある自伝」(文芸春秋)が
古本で安かったので、単行本の方を買うことに。

パラパラひらくと、「佐藤忠良」と題する文がある。
単行本で3ページ。4㌻目には60才の自画像デッサン。
はい。一読忘れがたいので引用することに。
はじまりは

「 彫刻家の佐藤忠良(ちゅうりょう)さんが、
  2011年3月30日、98歳で亡くなった。・・・・・

  彫刻家だが、頼まれて『おおきなかぶ』(福音館書店)
  という絵本も描いている。たとえば綱を引く人間を描いても
  押しているように見えるので納得の行くまで描き直したという。
  ・・・・・・
  
  佐藤さんは職人だ、と自称している。なぜなら
  粘土をいじってばかりいるからだそうだ。・・・・・ 」(p206)


シベリア抑留に触れた箇所が印象深い。
1992年の夏、佐藤さんが抑留されていたバイカル湖
のほとりまで安野さんといっしょに出かけた際のこと。

「 シベリア抑留時代は、佐藤さんの生涯を決定づけた。
  その現地には、44年ぶりの再訪だという。このとき、

  ロシアのテレビ局が取材に来ていた。そして
  『シベリア抑留生活は大変だったでしょう』と聞かれた

  佐藤さんは、わらって

  『 彫刻家になるための労苦をおもえば
    あんなものはなんでもありません  』
   
   といってのけた。・・・・・

   佐藤さんがシベリアで開眼したのも、
   ただきれいな肖像彫刻ではなかった。
   そして『群馬の人』『常磐の大工』などが生まれた。 」


うん。わたしの地元でも、シベリア抑留から帰った方がおられました。
もう、亡くなられましたが数人の方の顔が思い浮かびます。

わたしたちの世代は、戦後生まれなのですが、

戦後『・・・の労苦をおもえばあんなものはなんでもありません』
という気構えで戦後を過ごされた方々の背中を見てきた世代でもあります。

そんなことが思えてくる言葉として読みました。
安野光雅さんの3ページの文の最後の方でした。

「 その佐藤さんが

  『彫刻家と人が認めてくれたとき、五十歳を越えていた』

  といわれたことばの重さをおもう。
  佐藤さんでも誰にでも若いときがある。
  百歳まで努力を続けても、
  大成するかどうか誰にもわからないのだ。・・・ 」( p208 )


そして、次のページに、60歳の佐藤忠良の自画像のデッサン。 







  
  
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「長生きせよ」という思想。

2022-07-11 | 本棚並べ
七十代で太田垣蓮月は、年下へ手紙を書くのでした。

① ひとりは、齋治(幼名・二郎)40歳(?)への手紙
② そうして、富岡鉄斎・32歳への手紙

杉本秀太郎著「太田垣蓮月」(小沢書店)から引用。

① 「 二郎様、御事、毎日ご様子は承り居り候・・・
    私もよそながらうれしく悦び居り候ことに御座候。
     ・・・・

    とかく人は長生きをせねば、
    どふも思ふことなり申さず。

    また三十にて運の開けるもあり、
    六十七十にて開く人も御座候ゆへ、

    御機嫌よく長壽され候ことのみ、
    願ひ上げまゐらせ候。        」( p105 )


この手紙を引用したあとに、杉本秀太郎氏はこう書いておりました。


「ここに齋治に対する願いとして書きつらねられている
『長生きせよ』という考え方も、これを一つの思想と受け取るべきである。
 長生きしなければ取りにがす思想がある ・・・・   」


② 蓮月は78歳、鉄斎が32歳。
  鉄斎の父、富岡維敍の十三回忌法要のときに書かれた手紙。

「富岡鉄斎である。われわれは『全集』「消息篇」に収められた
 鉄斎あての一群の手紙に、齋治に向けられた同じ『長生き』の
 切なるすすめが、それも再三くり返されるのを読むことが出来る。」

「 ・・何事も御自愛あそばし、
  御機嫌よく御長壽あそばし、
  
  世のため人のためになることを、
  なるべきやうにして、心しづかに、
  心長く御いであそばし候やう
  ねがひ上参らせ候        」( p106 ) 


このあとは、こんな指摘も杉本氏はしておりました。

「蓮月が埴細工に手を染めてようやく四年ばかりの歳月がすぎた頃、
 天保七年(1836)が鉄斎の生年になる。それは大飢餓の年であり・・・」
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手作りのきびしょ。

2022-07-11 | 本棚並べ
杉本秀太郎著「太田垣蓮月」(小沢書店・昭和57年)をひらく。

最後に「淡交社版あとがき」がありました。そこに
『蓮月が非常に好きだったので、私はこの本を書いた』(p242)
とある。

本の最初には

「 蓮月は、求められるままに手作りのきびしょ、すなわち
  煎茶用の急須、徳利、盃、鉢、皿、茶碗、水指などに
  自詠の歌を彫りつけ、また乞われるままにおびただしい
  短冊を書いた・・・  」( p10 )


うん。『きびしょ』って何だが、気になる。
それを説明した箇所もありました。

「・・・粟田焼に煎茶趣味が行きわたっていた実況を伝える。
  蒹葭堂好みのこんろとは、煎茶でいう凉爐である。

 また、きうす(急須)は蒹葭堂(けんかどう)ごのみの 
 言い方ではきびしょということになる。

 『蒹葭堂雑録』巻一に記すところでは、
 きびしょというのは儒家、篆刻家、古器鑑定家、
 また書家として知られた高芙蓉(こうふよう)が、
 
 煎茶愛好家としてその形態を考案し、
 親友の池大雅にはからったときに急須に附した別字の異称で、
 
 煎茶の普及につれて、この呼び名は京、大阪から出て
 北越、九州にもひろまった。語音のめずらしさが
 文人趣味によく似あったこともあるだろう。・・・・」(~p108)

中根香亭(1839~1913年)の文も引用されておりました。

「文久年間に、私は京都に半年ほど居たことがある。
 ある日、清水坂の陶器家に立ち寄って、急須を買った。

 大きさは、にぎりこぶしほど。和歌が一種、
 彫りつけてあり、蓮月という署名がある。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ついに岡崎に隠れ暮した。埴(はに)をこねて茶器を作り、
 これで生計を立てた。晩年にはいよいよ世塵をいとい、
 さらに遠くの西賀茂に隠れ住んだ。
 明治8年12月3日終焉。行年八十五歳。・・  」( p82~83 )


どうして蓮月が「埴をこねて茶器を」つくるようになったのかも
興味深く、その箇所も引用してみることに

「岡崎村に移った蓮月が埴細工に手を染めたのは、
 太田垣家の家督を継ぎ、同時に知恩院の譜代職も
 継いでいる養子古敦にもたれかからないためであった。

 蓮月は譜代というものが知恩院から給される微禄では、
 いかに暮らしにゆとりがないかをよく承知していた。
 古敦はすでに妻帯しているが子はなかった。・・・

 ・・・・・
 きっかけは、粟田口に住んでいる一老婦から、
 きびしょ作りをすすめられたことだった。
 
 蓮月という一人の性格の力で、
 当時の時代趣味であった煎茶というものを媒体として、
 遭遇したものがあった。土と和歌と書という三つのものである。

 ・・・・土と歌と書は、もはや偶然に集合したわけでなくて、
 これは蓮月の創意工夫によることであった。

 自詠の和歌をしなやかな、細くしかも強靭な書体によって、
 自作の茶器、花瓶、酒器あるいは土瓶、片口、皿のごとき
 日用雑器に釘彫りにする蓮月の手仕事が、
 京焼の世界に波紋を投ずることになった。   」( p98~99 )

うん。最後に、蓮月の花瓶の特色を語られている箇所も引用。

「用いられている土は、京都の東山一帯、岩倉から深草にかけて、
 また西山にも産するごくありふれた埴土である。・・・・・・

 蓮月はいつも借り窯であった。それも清水の登り窯の
 最上端の片隅をちょっと使わせてもらって焼いたのだろう。

 そして花瓶の活け口をとおして外から見透かせる
 内がわだけにかけられた薄い青磁釉が、わずかにつやを放っている。
 目のこまかく、ねばりもある埴土なので、さほどざらついた感じはないが、

 それでもこれはすべすべした釉がけとは趣を異にした花瓶である。
 このわびたるところは、色絵付の御室焼、粟田焼、清水焼によって
 実現された、いわゆる『きれいさび』とは相容れないものである。」
                       ( p102 )

ちなみに、この本の最初には、短冊などの写真があり、
写真の一枚に、『蓮月焼 へちま花瓶』がありました。
  
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老いた蓮月。若い鉄斎。

2022-07-10 | 京都
ここ数年、地元の神輿渡御がないので、
なんか、すっかりお祭りとは縁のない
生活が常態となってしまっております。

そんな中、京都の祇園祭が今年はあるそうで、
その祇園祭のことを、思い描いてみることに。
取り出したのは、杉本秀太郎著「洛中生息」。
そこから引用することに。

「 七月はいうまでもなく祇園のお社、
  八坂神社の祭礼月である。・・・・・・・

  八坂神社の氏子であれば、七月になると気もそぞろ、
  祇園囃子の楽の音に、胸がときめくのを常とする。 」
           ( 「梛(なぎ)の社」 )

「 七月一日は祇園祭の吉符(きつぷ)入りであり、
  二階囃子がはじまっていた。・・・・・・

  今年も二階囃子の時候になった。
  わたしは毎夜、鉾の立つ町(ちょう)、
  曳き山の出る町をめぐり歩いて、祇園囃子を聴く。

  鉾立てがおわり、京都の町がざわめく十日すぎには、
  こうまで存分に、心ゆくまで囃子を聴くことは、
  とてもできない相談である。

  わたしの信じる限り、モーツァルトのあの祈りのような
  音楽に比べてみるのも決して身勝手でないような曲がある。
  装飾がそのまま本質であり、本質が装飾に一致してしまった曲がある。
   ・・・・・

  山の飾り付けは、近年は十四日である。
  町内の会所にお飾り付けをする町(ちょう)では、
  その日から、会所は聖別された場所となる。
  
  普段はそうとは少しも見えない路地が
  会所に通じているとき・・・・・・

  霰天神山、占出山、鯉山、孟宗山、八幡山、油天神山の
  お飾りを見にきた人が、もしも普段の路地を知っているなら、
  われとわが目を疑うかもしれない。・・・・・    」
                ( 「会所」 )

うん。これで終わらせるのも勿体ない。
はい。杉本秀太郎著「洛中生息」をひらいたので、
最後に、こちらも引用しておくことに。

「職人」と題する3ページほどの文の最後でした。

「 手仕事というものは、もはや才気や器用では何とも仕様がなく、
  そんなものが何の役にも立たなくなったところから始まる。

  このあいだ、老いた蓮月が若い鉄斎にあてた手紙に

  『何ごとも気ながく、あまりせかぬがよろしく候』

  とあるのが目にとまった。
  手仕事には、開運ということがる。

  『 三十、四十で運のひらけるもあり、
    六十、七十でひらけるもあること故、
    ご機嫌よくご長寿あそばし 』云々と、

   蓮月は別の手紙に書いた。
   こういえるだけの蓮月は、埴(はに)の職人として、
   優に第二流の腕前を示した人であった。       」




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徒然草と神道と老荘。

2022-07-10 | 古典
徒然草連続読みは、ガイドさんまかせで終了したことにします。
ところで、何か読み忘れた箇所はなかったかと振り返ることに。

うん。神道と吉田兼好のつながりがボンヤリしてる。
ここは、ガイド・島内裕子さんが『兼好とは誰か』で
語っているのでした。そこを取り出してくることに。

「少年期における兼好の精神形成に重要な役割を果たしたのは、
 やはり神道の家柄に彼が生まれ育ったことであろう。

 兼好は後年出家しているので、ややもすれば
 仏教的な側面に力点が置かれがちであるが、
 
 『徒然草』を読むと、ある特定の思想や宗教や人物の
 決定的な影響というものは考え難い。・・・・

 『徒然草』の基盤が儒教・仏教・老荘思想の融合にあることは、
 すでに江戸時代から言われ続けていることであるが、彼の場合、
 老荘思想の背景に神道があることは今まで等閑視されてきた。

 ところが、当時の神道界の状況を見渡してみると、
 鎌倉仏教の隆盛への対抗上、神道思想の著作が盛んに行われ、
 
 その際に、抽象的な論理展開や表現の基盤として
 老荘思想を援用することが多かった。

 兼好の兄弟である慈遍が著した神道書
 『旧事本紀玄義(くじほんぎげんぎ)』でも、
 『老子』や『荘子』が引用されている。

 『徒然草』で老荘思想が随所に顔を出すのは、
 兼好が大人になってから自分の判断で学んだとも考えられるが、

 神道の家に生育した彼が、少年期から自然と老荘思想に
 親しんでいた知的環境も、見逃してはならない。・・    」

     ( p110~111 『西行と兼好』ウェッジ選書 )


うん。どうやら、『神道の書』というのは、
老荘思想とのむすびつきの中にあるらしい。

グッと、老荘思想が身近に感じられてくる。
これなら、『老子・荘子』が楽しめるかも。
  
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7月9日の「編集手帳」

2022-07-09 | 道しるべ
コンビニで朝日・日経・毎日・東京の各新聞を買ってくる。
さきほど、新聞店で読売新聞をもらってくる。

一面コラムは、読売新聞の編集手帳。
産経抄は、書き手が狼狽している状況報告のようだし、
他の新聞は、冷静ぽさが鼻につく。

ここには、7月9日の編集手帳から
ほぼ半分以上を引用してみます。
ここでは、編集手帳を読まれない方のために。



「  昭和から平成にかけて、新興俳句の道を歩んだ
   上田五千石の一句を思い出す。
   『 万緑や死は一弾を以って足る 』

   見渡す限りの緑の景色に、
   何物も入り込む余地もないほど生が横溢している。
   死などあり得ないと思われる中に銃声が響く。
    ・・・・・・・

   参院選が終盤を迎えている。
   ロシアという専制主義の国の暴挙、
   中国という一党独裁国家の勢力拡大
   ・・・世界が変わる中、
   何事もなく政治に参加できる今の日本は
   民主主義が横溢する景色といえないか。

    ・・・・・・
    ・・・・・・
   突如響いた銃声が自由な言論の場を
   暴力と死の景色に一変させた。

   長く首相を務めた人である。
   安部さんの表情、声、話し方を知らない人はあるまい。
   ご冥福をお祈りしたい。
   民主主義を脅かす蛮行に負けまいと。              」
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7月9日産経新聞一面。

2022-07-09 | 産経新聞
「 8日午前11時半ごろ、奈良市西大寺東町の
  近鉄大和西大寺駅で、参院選の応援で街頭演説していた
  自民党の安倍晋三元首相(67)が、銃撃された。

  消防などによると、安倍氏は首などから血を流して倒れ、
  心肺停止状態で救急搬送されたが、・・午後5時3分に
  死亡が確認された。

  奈良県警は殺人未遂容疑で奈良市大宮町の職業不詳、
  山上徹也容疑者(41)を現行犯逮捕・・・」

テレビでは、銃撃直前の安倍氏の街頭演説が流れておりました。
淡々と今できる最善をこなしている安倍氏の笑顔がそこにありました。

安倍政権の時もそうであり、岸田政権になってからも
ご自身のできるかぎりを自然体で突き進んでいた姿が
かわらずにあったことが、あらためて思い浮かんできます。
ご冥福をお祈りいたします。

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『心』と、徒然草。

2022-07-08 | 古典
島内裕子さんの案内『徒然草』も、いよいよ終盤。

島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫)の
ご自身による解説には、

『 本書は、徒然草を最初から最後まで、ぜひとも通読
  してほしいという、強い願いから出発している。  』(p487)

とあります。ガイドの案内を聞きながら、
ようやく最後の方へとさしかかりました。

第235段の島内さんの『評』の最後には、こうありました。

「 心にうつりゆく由無し事の種は尽きることがなくとも、
  徒然草の執筆の終幕は、近い。残りあと、八段である。 」(p448)

案内が「もうすぐ終わりますよ」と語る。
ここの、第235段の『評』には、

「 心について、正面から思索を凝らした、注目すべき段である。 」

とあります。この段を、島内裕子さんの訳で全文引用。


「 住む人のいる家には、無関係な人が、自由に侵入することはない。
  しかし、住む人がいない家には、通行人がむやみに立ち入り、
  狐や梟(ふくろう)などといった動物も、
  人の気配がないのをよいことに、平気で侵入しては住み着き、
  木霊(こだま)などという怪異のものも顕れるのだ。

  また、鏡には、特定の色も形もないので、どんなものでも、
  鏡の前に立てば、色や形が、映像として映し出される。
  もし、鏡に何か色が付いていたり、凸凹した形だったら、
  物の姿があるがままに映ることはないだろう。

  空っぽの空間には、いろいろなものが入る。私たちの心に、
  さまざまな思いが、とりとめもなくやって来て浮かぶのは、
  しっかりとした心というものがないからであろうか。

  もし、何かすでに心の中を占めている思いがあったなら、
  胸の中に、こんなにもたくさんの雑念は入り込まないだろうに。」
                      ( p446~447 )

ご自身の訳を補強するように島内さんの『評』がつづきます。

「心について、正面から思索を凝らした、注目すべき段である。

 心とは、どこから来てどこに行くとも知れぬ雑念が、次々と通り過ぎたり、
 下手をすると怪しげな想念が住みついたりしてしまう、空ろな場所である。
 
 また、鏡の前では、何ものであれ映らない物はないように、
 心には、どんな異形な想念も映し出され、心はそれを拒否できない。
 
 茫漠としてとりとめもなく、統べるものがそもそもないもの。
 それが心というものの実体、いや、『自分の心』の実体だった。

 ・・・・・・

 このことは、徒然草をここまで書き継いで来て、
 兼好が初めてしっかりと自らの手に摑んだ、疑いようのない事実であり、
 これを置いて他に自分という存在もない。なぜなら、
 自分の心に『うつりゆく由無し事』があるからこそ、
 それらを容れる『自分の心』の実在が証明されるのだから。

 思えば、徒然草の冒頭で、まず書かれていたのは、
 心の実体を探究したいということであった。

 この段で、自分の心の実体を摑んだ兼好にとって、
 徒然草を執筆する意味と意義は、ほぼ明らかになったと見てよい。

 心にうつりゆく由無し事の種は尽きることがなくとも、
 徒然草の執筆の終幕は、近い。残りあと、八段である。  」


うん。各段はつながっておりました。次の、
第236段は、滑稽な話が呼び寄せられております。
第236段の、島内さん『評』を引用しておきます。
第235段とのつながりに、踏み込んでおりました。

「・・・滑稽な話(第236段)であるが、兼好の筆致は、
 この上人の言動を愚かしい笑い話として、書き留めたとは見えない。
 上人の思い込みは、粗忽だが、そこに何がしかの純粋で無邪気な、
 疑うことを知らない浮世離れした無垢な人柄を感じ取り、
 それを尊んだのではないだろうか。

 人間の心は多様な働きをする。前の段(第235段)で、
 心をめぐって深く思索した直後に、ふっと緊張がほどけて
 一息ついたことが、ユーモラスな話を呼び寄せたのである。 」
                      ( p450 )

はい。お上りさんよろしく、キョロキョロしながら、
先達のガイドさんのあとを、説明を聞き辿りました。

ここで、兼好は振り向き語りはじめるかもしれませんね。

  私の心の物語は、ここまで来ました。
  君自身の物語は、どこまで来ましたか。 

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吉田兼好の宗派?

2022-07-08 | 古典
谷沢永一・渡部昇一『平成徒然談義』(2009年)を
パラパラとめくって、面白そうな箇所を引用。

徒然草第52段を谷沢さんは語ります。

「 旅の話ということで、52段を見てみましょうか。
 『徒然草』には仁和寺がよく出てくるのですが、これは
  仁和寺の法師が石清水八幡宮に初めて参詣した話です。
  ・・・・・

  私はこの段の最後にある『先達』という言葉を、
 『チチェローネ』と読むようにしています。

  歴史家のブルクハルトが『チチェローネ』というタイトルで
  本を書いていて、これはローマの旧跡を案内するガイドの呼称です。
  ローマを深く知るのなら、この人たちを雇ってまわったほうがいい。
  ちょっとしたことでも経験者、案内人の知識、知恵を乞う姿勢は
  大事でしょう。 」( p31~32 )

うん。ここからどういうわけか大学の概論講義へと話が弾んでいました。

それはそうと、兼好は何宗だったのか?
ここも谷沢さんの語りから引用します。

「 『徒然草』の作者である吉田兼好のいた時代は、
  まさに天台宗の全盛期でした。鎌倉新仏教を築いた人たちは、 
  当時の日本における最高の図書館であり大学だった比叡山で、
  学問をしました。ところが当時は、いかに勉強して仏教の教えを
  頭に入れても、身分が卑しければ上に上がることは出来ない。

  藤原北家の系統に生まれ、一番上の兄貴がお公家さんとして
  太政大臣になると、弟は天台座主になる。

  それを悟って、みんな山を下りたわけです。つまり、
  一遍、法然、親鸞という系列、いわゆる鎌倉新仏教は、
  当時は支配的なものではなく、むしろ異端の説の類でした。

  そして、兼好も仏教徒としては天台宗だったのです。

  にもかかわらず、次の段(第39段)で法然上人の名を
  出してくるのが、兼好の兼好たる所以でしょう。

  兼好は仏教の宗派に対して中立的な人で、
  自分のよしとするものは、遠慮会釈なく取り上げたのです。

  『歎異抄』のなかで決め手になる言葉は
  『法然がこう、おっしゃった』と親鸞が言っている場面が多い。
  しかし、そもそも
  念仏を唱えることを提唱したのは、法然なのですから。  」
                 ( p103~105 )

このあとに渡部さんは続けます。

 「・・・・・この超越している感じが法然らしいし、
  だからこそ法然は偉いと思いますね。
  法然のことを何も知らなくても、ここだけ読んだだけで、
  法然の偉さがわかります。
  その本質をつまみ出した、兼好の目もまた鋭い。 」(p105)

はい。第39段の原文を、あらためて引用したくなります。

  或る人、法然上人に
  『念仏の時、眠(ねぶ)りに侵されて、行を怠り侍る事、
   いかがして、この障(さは)りを止(や)め侍(はべ)らん』
   と申しければ、

  『目の醒(さ)めたらん程、念仏し給へ』

  と答へられたりける、いと尊かりけり。
  また、

  『往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり』

  と言われけり。これも尊し。
  また、

  『疑ひながらも念仏すれば、往生す』

  とも言はれけり。これもまた、尊し。


気になったのは、徒然草第59段に及んだ際に
谷沢さんは、こう指摘しておりました。

「 『老いたる親、いときなき子』云々は
  道元の『正法眼蔵随聞記』から引いています。
  道元の言葉が出てくるのは、たしか、
  ここだけではないかと思います。    」(p112)

兼好の時代の宗教といわれてもなあ、
私にはチンプンカンプンなのですが、
チチェローネ・谷沢さんの話には惹かれます。


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『老の友』との遭遇。

2022-07-07 | 古典
谷沢永一と渡部昇一対談「平成徒然談義」(PHP研究所・2009年)。

その「結びにかえて」で谷沢さんは、
中村幸彦の「徒然草受容史」から引用しながら
こう指摘しておりました。


「 『徒然草』の魅力は、新しい感受性を受け、
   改めてこの時期に発見されたのである。

   執筆されてからほぼ百年後という推定は動かし難い。
   時代が『徒然草』を文化の正面に誘い出したと見做し得よう。

   画期的な功労者は連歌師の正徹(しょうてつ)であり、
   彼が永享3年に書写した本には、感ニ堪エズ、と記されている。
    ・・・
   細川幽斎は一子に写させて、老の友としたと伝える。
   これが享受の始源であり、期せずして評価の方向が定まった。」


この対談本を以前、読んでいたのですが、いまやっと、
この箇所の意味が了解できて、飲み込めた気がします。
ということで、もうすこし引用をつづけます。

「  近世の風潮を一語で要約するなら、
   それは表現意欲の幅広い高まりである。

   多くの人々が均し並みに自己表現へ赴いた。
   けれども、その根強い志向は必ずしも
   一筋道としては発現しない。思想性の重視という
   時代の制約が依然として力を発揮している。

   それが儒学および佛教という足枷となって機能した。
   『徒然草』もまた従来の固定観念が形成する磁場に
   引き寄せられて解釈される。

   それを許す一面が備わっている事情が
   『徒然草』ブームを誘発した基盤であろう。
   『徒然草』が古典としての地位を得たのには、
   過ぎ去り行く一時代前の常識をも許容する
   側面があったことも否定できない。

   しかし社会的制約は必ず移転していく。
   思想性の固執を撥ね返す要素が
   『徒然草』の内容にはしっかりと根を下ろしていた。

   それがすなわち物語性である。『徒然草』には
   骨格の強靭な短編小説が多く埋めこまれているではないか。
    ・・・・・・・

   『徒然草』の本質は物語なのである。・・・
   まだ小説とまでは評価できない段階にあるとはいえ、
   物語の成立に最も近い散文表現が提示されている。

   小説を小説たらしむる
   虚構の組み立てが足場として実現した。

   この点が『徒然草』の登場が問題となる要素であろう。」


この対談本で、いつか徒然草を通読したいと思いました。
その機会が、ようやくこうして、めぐってきております。

対談では、読むのにボタンの掛け違いを指摘する箇所があります。
うん。そこを引用してみます。

渡部】 ・・・・・我が身を振り返ると、端から見たら・・
    いい歳をして、受験参考書によく出てくる
    『徒然草』を種にしゃべっているのは浅ましいとか(笑)。

谷沢】 そうです。『あいつら、何がしたいのか』と端から
    思われることは十分覚悟しないといけませんね。

    いまは受験勉強が、学問することだという勘違いも多いですし、
   『徒然草』を読んだのは受験のためという人が多いでしょうからね。
       ・・・                ( p73 )


谷沢】 ・・・・そもそも近代以前の日本において、
    学問は人間の精神を養うためのものでした。

    つまり、人間学、社会学のテキストとして
    『論語』を筆頭に漢籍を読んだわけです。

    一方、チャイナで四書五経を学ぶのは、
    科挙に受かって高級官僚になるためでした。

    学ぶ姿勢が違うと、当然ながら
    同じ漢籍を読んでも、違う結論にいたります。

    たとえば、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎の
   『童子問』は『譲りの精神』が説かれていますが、
    チャイナで『譲りの精神』は出てきません。   ( p74 )

はい。わたしは、この対談をすっかり忘れておりました。
いつかは徒然草を、きちんと読んでみようと思ったのは、
この対談を読んでからです。それがやっとめぐってきた。

『未知との遭遇』じゃないけれども、
『老の友』『感に堪えず』との遭遇。

   
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でなければ、あれほど。

2022-07-06 | 古典
今日は、朝五時発の高速バスで東京へ買い出し。
汗だくになり、トイレで半袖肌着を着替える。
うん。午後にはそうそうに帰ってくる。

さてっと、徒然草。
第155段をひらくと、思い浮かんぶ本がありました。

小林秀雄著「考えるヒント」(昭和39年)。そこに、
「青年と老年」と題する4~5頁ほどの文。
この文には、堀江謙一の名が登場します。

そうそう、今年2022年6月4日に83歳でヨットで
無寄港太平洋単独横断を達成の記事がありました。
その堀江謙一の名が登場する「青年と老年」です。

うん。ここは小林秀雄のこの短文を紹介することに。
まず、この短文のはじまりは、こうでした。

「『つまらん』と言ふのが、亡くなった正宗さんの口癖であった。
『つまらん、つまらん』と言ひながら、何故、ああ小まめに、
飽きもせず、物を読んだり、物を見に出向いたりするのだろうと
いぶかる人があった。しかし、『つまらん』と言ふのは
『面白いものはないか』と問ふ事であろう。

正宗さんといふ人は、死ぬまでさう問ひつづけた人なので、
老いていよいよ『面白いもの』に関してぜいたくになった人なのである。」


うん。こうして引用してみると、何んだか、
徒然草のどこかを読んでる気分になります。

さてっと、小林秀雄は、そのつぎに徒然草の第152段の
ことに触れて、その内容をちょこと紹介してからでした

「 徒然草のことを言ったからついでに言ふと、
  兼好は、かういう事を言ってゐる。

  死は向こうからこちらへやって来るものと皆思ってゐるが、
  さうではない、実は背後からやって来る、

  沖の干潟にいつ潮が満ちるかと皆ながめてゐるが、
  実は潮は磯の方から満ちるものだ。   」

はい。これは随筆なので徒然草のどこにあるのかなんてことは
示してはおられなかったので、読後すっかり忘れておりました。
今回それが、徒然草第155段の最後にあるのだと了解しました。

せっかくですから、第155段の原文のはじまりとおわりとを引用。
はじまりは

「 世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし。 」

そして、おわりはというと

「 死期は、序(つい)でを待たず。
  死は、前よりしも来(きた)らず、
  予(かね)て、後ろに迫れり。

  人皆、死有る事を知りて、待つ事、
  しかも急ならざるに、覚えずして来る。

  沖の干潟、遥かなれども、
  磯より潮(しほ)の満つるが如し。  」


ちなみに、小林さんは、ここを『現代風に翻訳すると』
としてありますので、すこし端折って引用してみることに

「 死は向うから私をにらんで歩いて来るのではない。
  私のうちに怠りなく準備されてゐるものだ。

  私が進んでこの準備に協力しなければ、
  私の足は大地から離れるより他はあるまい。

  死は、私の生に反して他人ではない。
  やはり私の生の智慧であらう。

  兼好が考へてゐたところも、
  恐らくさういふ気味合ひの事だ。

  でなければ、あれほど世の無常を説きながら、
  現世を生きる味ひがよく出た文章が書けたはずもない。」


このあとに、昭和37年度の、文学的一事件に数えられた
堀江謙一『太平洋ひとりぼつち』を語ってゆくのでした。
こちらも紹介してしまうと、徒然草の簡潔さがなくなる。
ここまで。ちなみに『考えるヒント』は文庫で読めます。



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惑(まど)へる我らを見ん。

2022-07-05 | 古典
参院選挙の当日投票を誰に、そして
どこへとしようかまだ迷っています。

それはそうと、徒然草でした。
第194段のはじまりは

「達人の人を見る眼は、少しも誤る所、有るべからず。」

とあります。そのあとに、
『嘘を聞いた時の人々の反応を』10通りに分類するのでした。
10の『人、有り。』として観察しながら描き分けております。

引用する前に、まずは10通りの分類目次。
( ここは、島内裕子さんの訳で引用してみます )。

① 言われるままに誑(たぶら)かされる人がいる。
② さらなる嘘を言い添えてしまう人がいる。
③ 注意を払わない人がいる。
④ 逡巡する人がいる。
⑤ それ以上は考えない人もいる。
⑥ ちっともわかっていない人がいる。
⑦ あやしむ人がいる。
⑧ 手を打って笑う人がいる。
⑨ 知らない人と同じようにしている人もいる。
⑩ 嘘を広めるのに力を貸す人がいる。


ここは、原文を読むと、私はチンプンカンプンなので
島内裕子さんの訳で十通りの分類を読んでゆくことに、

訳】 達人が、人間を見る眼は、ほんの少しも見誤ることはない。
 例えば、ある人が、世間に嘘を流布させて人を誑かそうとする時に、

① その嘘に対して、率直に本当のことだと思って、
  言われるままに誑かされる人がいる。

② また、余りにもその嘘を深く信じてしまって、
  さらなる嘘を言い添えてしまう人がいる。

③ また、嘘を聞いても、何とも思わないで、
  注意を払わない人がいる。

④ また、その嘘をどう受け取ったらよいか、よくわからなくて、
  信用するでもなければ、信用しないでもなく、逡巡する人がいる。

⑤ また、本当とは思わないが、他人がそう言うのであれば、
  そうなのかと思って、それ以上は考えない人もいる。

⑥ また、いろいろと推量して、自分で納得したように、賢そうに頷いて、
  にこにこしているが、ちっともわかっていない人がいる。

⑦ また、自分で推測して、『ああ、そうなのだろう』と思いながらも、
  やはり、もしかしたら誤りもあるのではないかと、あやしむ人がいる。

⑧ また、『何も変わったことはない』と、手を打って笑う人がいる。

⑨ また、嘘だと心得てはいるが、『嘘だと知っている』とも言わず、
  はっきり知っている真相についても、何かを言うでもなく、
  知らない人と同じようにしている人もいる。

⑩ また、この嘘の主旨を最初から心得ているのだが、嘘だからといって、
  少しも反発せず、この嘘を作り出した人と同じ気持ちになって、
  嘘を広めるのに力を貸す人がいる。


はい。原文は私には意味がとりにくいのですが、
簡潔でしかも、『人、有り。』とリズムがあり、
ここはやはり、原文も引用しておくことに。

「 達人の、人を見る眼は、少しも誤る所、有るべからず。
 例へば、或る人の、世に虚言を構へ出だして人を謀る事有らんに、

① 素直に真と思ひて、言ふままに謀らるる人、有り。

② 余りに深く信を起こして、猶、煩はしく虚言を心得添ふる人、有り。

③ また、何としても思はで、心を付けぬ人、有り。

④ また、いささか覚束無く覚えて、頼むにもあらず、
  頼まずもあらで、案じ居たる人、有り。

⑤ また、真(まこと)しくは覚えねど、人の言ふ事なれば、
  然(さ)もあらんとて、止みぬる人も、有り。

⑥ また、様々に推し、心得たる由して、賢げに打ち頷き、
  微笑みて居たれど、つやつや知らぬ人、有り。

⑦ また、推し出だして、『あはれ、然るめり』と思ひながら、
  猶、誤りもこそ有れと、怪しむ人、有り。

⑧ また、『異なる様も、無かりけり』と、手を打ちて笑ふ人、有り。

⑨ また、心得たれども、『知れり』とも言はず、
 覚束無からぬは、とかくの事無く、知らぬ人と同じ様にて過ぐる人、有り。

⑩ また、この虚言の本意を初めより心得て、少しも欺かず、
  構へ出だしたる人と同じ心に成りて、力を合はする人、有り。

愚者の中の戯れだに、知りたる人の前にては、
この様々の得たる所、言葉にても顔にても、隠れ無く知られぬべし。

まして、明らかならん人の、惑へる我らを見ん事、掌の上の物を見んが如し。

ただし、かようの推し量りにて、仏法までを
準(なずら)へ言ふべきにはあらず。  」
           ( p380~381 ちくま学芸文庫 )

うん。最後は、第194段の島内裕子さんの『評』の
最初と最後から引用。

「嘘を聞いた時の人々の反応を、精緻な観察と、
 精緻な分類によって、十通りに描き分けており
 ・・・・・・・」

「なお、幕末の志士である坂本龍馬は、姉に宛てた手紙の中で、
 先生と仰ぐ勝海舟の凄さを、
 『達人の見る眼は恐ろしきものとや、つれづれにも、これ有り』
  と書いている。   」
                ( p382~383 文庫 )



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