たとえば、小説を読みはじめると、まず人名でつまづく。
私などは、それで小説を読みすすめられず、あきらめる。
という毎度のパターンで過ごしておりました。
さてっと、安房の関東大震災に関連する3冊を紐解いていると、
人名が、まるでキーワードのように、つながりはじめる不思議。
こういう場合は、人名を取出し補助線のようにして結びつける。
ここには、重田嘉一郡書記を紹介することに。
震災の当日、安房郡長は、県庁へと急使を送ります。
まず、佐野氏が出発したあとに、
「 重田郡書記は自ら進んで、この大任にあたらんと申し出た 」
( p235「安房震災誌」 )
この重田郡書記とは、どんな人だったのか?
安房震災誌の善行表彰の箇所に読めました。
重田嘉一 明治25年12月1日生まれ。
住所は、安房郡保田町大帷子311番地。
経歴は、大正6年12月より大正12年7月まで保田町役場書記勤務。
大正12年7月任千葉県安房郡役所書記、今日に至る。
ここから、安房郡役所に来てまだ、2ヵ月。そして関東大震災を
この郡役所にて経験したのでした。地理的にみてみると、
安房郡と県北とは鋸山を境として分れております。
その鋸山に接して保田町はあり。北條町の郡役所から県庁へ徒歩でゆくには、
この保田町を通ることになります。ですから
「重田郡書記は自ら進んで、この大任にあたらんと申し出た」
という真意が汲み取れます。とっさの場合、安房郡長にはその判断は
できませんでした。おそらく、重田氏ご自身が行く先の地理に詳しいと
申し出た場面が想像されます。
安房震災誌には、表彰にあたって
「 功績顕著と認むべき事実の概要 」が記されておりました。
そこを全文引用しておきます。
「這般の大震に当り急を本県に報告すると共に救護を求むるは
最急要の事に属するも交通機関は全く壊滅に帰せるを以て
吏員をして徒歩上縣せしむるの外なし依って
安藤、佐野両郡書記を選び急行せしむることとせしも
道路橋梁は破壊せられ余震甚だしきに加ふるに
海嘯(つなみ)来の噂あり且闇夜のこととて
果して能く目的を達し得るか否やに大に疑あり
為めに更らに郡書記重田嘉一を選抜して急行せしむ
責任観念の強烈にして勇敢なる同郡書記は決死の覚悟を以て
17里余の道程を闇を突いて一休一睡だもせず危険を突破して
2日午後1時半本縣に到着具(つぶさ)に惨状を報告することを得たり。
更らに同郡書記は上縣の途次瀧田村に立寄り
被害民一般に食品の欠乏せるを告げ説きて其の援助を依頼せり
2日瀧田村中被害僅少の部落は数度に亘(わた)りて炊出を為し来り
食ふに食なき北條、館山の被害民に分与せらるる功績顕著なり。 」
( p342~343 「安房震災誌」 )
この重田嘉一氏の急使の状況は、
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻のp247~251とp896~898に詳しい。
最後には、重田氏の文から、ここを引用。
「 しゃつ一枚と素足のまま北條警察署の小野防疫医と
共に飛び出したのは午後3時半である。
道は被害程度少なき國府村瀧田村を経て岩井町に出づる予定で走ったが
途中比較的被害少なき瀧田村役場に寄り鏡ケ浦海岸の被害惨状を伝へ
即時之が救済方を依頼して先を急いだのである。 」( p898 上巻 )
はい。この場合には、百年前の安房郡地図をひらいて
急使のたどる経路を確認してゆけば私にも解りやすい。