和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

北條町から県庁への急使。

2024-02-13 | 安房
たとえば、小説を読みはじめると、まず人名でつまづく。
私などは、それで小説を読みすすめられず、あきらめる。
という毎度のパターンで過ごしておりました。

さてっと、安房の関東大震災に関連する3冊を紐解いていると、
人名が、まるでキーワードのように、つながりはじめる不思議。
こういう場合は、人名を取出し補助線のようにして結びつける。

ここには、重田嘉一郡書記を紹介することに。

震災の当日、安房郡長は、県庁へと急使を送ります。
まず、佐野氏が出発したあとに、
「 重田郡書記は自ら進んで、この大任にあたらんと申し出た 」
                 ( p235「安房震災誌」 )

この重田郡書記とは、どんな人だったのか?
安房震災誌の善行表彰の箇所に読めました。

重田嘉一 明治25年12月1日生まれ。
     住所は、安房郡保田町大帷子311番地。
     経歴は、大正6年12月より大正12年7月まで保田町役場書記勤務。
         大正12年7月任千葉県安房郡役所書記、今日に至る。


ここから、安房郡役所に来てまだ、2ヵ月。そして関東大震災を
この郡役所にて経験したのでした。地理的にみてみると、

安房郡と県北とは鋸山を境として分れております。
その鋸山に接して保田町はあり。北條町の郡役所から県庁へ徒歩でゆくには、
この保田町を通ることになります。ですから

「重田郡書記は自ら進んで、この大任にあたらんと申し出た」
という真意が汲み取れます。とっさの場合、安房郡長にはその判断は
できませんでした。おそらく、重田氏ご自身が行く先の地理に詳しいと
申し出た場面が想像されます。

安房震災誌には、表彰にあたって
「 功績顕著と認むべき事実の概要 」が記されておりました。
そこを全文引用しておきます。

「這般の大震に当り急を本県に報告すると共に救護を求むるは
 最急要の事に属するも交通機関は全く壊滅に帰せるを以て
 吏員をして徒歩上縣せしむるの外なし依って

 安藤、佐野両郡書記を選び急行せしむることとせしも
 道路橋梁は破壊せられ余震甚だしきに加ふるに
 海嘯(つなみ)来の噂あり且闇夜のこととて
 果して能く目的を達し得るか否やに大に疑あり

 為めに更らに郡書記重田嘉一を選抜して急行せしむ
 責任観念の強烈にして勇敢なる同郡書記は決死の覚悟を以て
 17里余の道程を闇を突いて一休一睡だもせず危険を突破して
 2日午後1時半本縣に到着具(つぶさ)に惨状を報告することを得たり。

 更らに同郡書記は上縣の途次瀧田村に立寄り
 被害民一般に食品の欠乏せるを告げ説きて其の援助を依頼せり

 2日瀧田村中被害僅少の部落は数度に亘(わた)りて炊出を為し来り
 食ふに食なき北條、館山の被害民に分与せらるる功績顕著なり。 」
               ( p342~343 「安房震災誌」 )

この重田嘉一氏の急使の状況は、
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻のp247~251とp896~898に詳しい。

最後には、重田氏の文から、ここを引用。

「 しゃつ一枚と素足のまま北條警察署の小野防疫医と
  共に飛び出したのは午後3時半である。

  道は被害程度少なき國府村瀧田村を経て岩井町に出づる予定で走ったが
  途中比較的被害少なき瀧田村役場に寄り鏡ケ浦海岸の被害惨状を伝へ
  即時之が救済方を依頼して先を急いだのである。 」( p898 上巻 )


はい。この場合には、百年前の安房郡地図をひらいて
急使のたどる経路を確認してゆけば私にも解りやすい。
 
 
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大震災の安房と県庁

2024-02-11 | 地震
「安房震災誌」(編纂・千葉県安房郡役所・大正15年3月)
「千葉県安房郡誌」(編纂兼発行所・千葉県安房郡教育会・大正15年6月)

この2冊は、こと関東大震災の記述は、お互いの記録を共有しておりました。
それから、もう1冊。
「大正大震災の回顧と其の復興」(上下巻・昭和8年8月発行)
こちらは、千葉県罹災救護会とあり「編纂を終へて」を読むと
編者・安田亀一となっております。
この3冊目は、千葉県全域における関東大震災への救援などを含むもので、
安房の大震災関連記事は「安房震災誌」資料をきちんと載せておりました。

私が語っている、安房の関東大震災は、この3冊の資料によっております。

震災当日の県庁では、どうだったのか?
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻
そこにこうありました。

「かかる混乱時に於て、人々は東京に大災禍あるを知って、
 県内に之あるを知りえなかった。

 ・・警察部の記録の如く主なる警察電話さへ通ぜず
 為に県下の情況は暗中模索の情況であった。
 況んや誰か県下の安房郡その他が空前の大被害を蒙り、
 かの如き大惨状に呻吟しつつあらうとは・・・     」(p220)

いっぽうの安房郡役所では県庁への急使をどう選んだのか?

9月1日の午後2時過ぎ。県への使者を郡長は選びます。
それが、佐野郡書記でした。その後に、

「重田郡書記は自ら進んで、この大任に当たらんと申し出た。
 安藤郡書記も亦た同様に申し出た。・・・

 そこで、重田、安藤の2氏は、佐野氏の出発後、
 共に郡衙(ぐんご)を立ち出て、千葉へと向はれた。

 県への報告の要旨は第一は安房震災の惨状であるが、
 第二は工兵の出動と医薬、食料の懇請であった。

 ・・・重田郡書記は、徹夜疾走して、翌2日の正午を過ぐる
 1時半頃、他の2氏に先んじて、無事に県庁に到り、
 報告の使命を果たしたのであった。・・・    」(p235∼236)

そして「大正大震災の回顧と其の復興」上巻。

「安房郡に於ける被害や混乱状態の意想外なるものあることは、・・
 重田郡書記の陳述の外、小野防疫監吏が昼夜兼行にて重田群書記と
 前後して北條から齎した報告に依って明瞭となったので、

 県は一方に於いて食糧、医療の手配を考慮すると同時に、
 他方取り敢えず警備及救護に尽くさしむる為に、
 2日夜県下各署から巡査を千葉市に集合し、
 翌3日朝52名の一隊を遠藤警部をして之を引率せしめ、
 自動車にて北條警察署に応援せしめた。

 又一方未だ不明なる鴨川、千倉方面も被害甚大なるべきを予想して、
 千倉署へ21名、鴨川署へ10名の巡査を巡査部長指揮の下に派遣した。
 何れも軍用自動車を以て木更津町に輸送し、それより通行不能なる
 道路を自転車をもって急行せしめた。   」(p245∼246)
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音ヲ楽シム。

2024-02-10 | 詩歌
後藤新平研究会編「震災復興 後藤新平の120日」(藤原書店・2011年)は、
大きな目線での記述のなかに、細部からの引用が生き生きと挟まっています。

たとえば、『帝都復興秘録』から抜き出した引用がありました。
それは、後藤新平の『大風呂敷』を指摘したあとにありました。

「・・・『大風呂敷』を本多静六に広げさせる一方、
 後藤は人心を和らげるために、こんなことも提案したという。
 山本権兵衛首相はこんな逸話を残している。

『 民心安定の為の一方法として、後藤内相は、
  兵に市中を喇叭(らっぱ)を吹き歩かせて貰いたい
  という提議をした・・・・、
  平凡ではあるが大変良い考えと思って、
  早速田中陸相に命じて実行させた。
  ・・・・・・ 余程市民の心を和らげた様に思う。』  」(p40)

たとえば、現在において、こんなことを、やるかやらないか議論した場合に、
人を得なければ、決断する以前に喇叭は吹かれずに終わりそうな気がします。

思い浮かんだのは、筒井清忠著「西條八十」(中公叢書・2005年)でした。
関東大震災の避難の場面でした。そこに西條八十が、絵に描いたように、
『怒り出すのではないかと案じ、止めようとした』判断がありました。

「・・・大混乱の中容易に前へは進めず結局、夜を上野の山で過ごす
 こととなった。深夜、疲労と不安と飢えで、人々は化石のように
 押しだまってしゃがみ、横たわっていた。

 しゃがんでいた八十の隣の少年がポケットからハーモニカをとり出し
 吹き出そうとした。八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのではないか
 と案じ、止めようとしたが少年は吹きはじめた。

『 それは誰も知る平凡なメロディーであった。
  だが吹きかたはなかなか巧者であった。

  と、次いで起った現象。――これが意外だった。
  ハーモニカのメロディーが晩夏の夜の風にはこばれて
  美しく流れ出すと、群集はわたしの危惧したように怒らなかった。

  おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった。 』

 人々は、ささやき出し、あくびをし、手足をのばし、
 ある者は立ち上って塵を払ったり歩き廻ったりした。・・・ 」(p102)

はい。この文はこれ以上深入りは避けて、
『震災復興 後藤新平の120日』にもどってみると、
明治・大正時代に演歌師として活躍した添田知道(そえだともみち)が
作詞した『復興節』が紹介されておりました。こうあります。

「 下谷で焼け出された添田知道は、惨禍の中で
『 どんな深沈の中でも、人々は音をもとめている、
  ということを知った。音。それは生命の律動。
  ・・・人々は食の飢えもあるが、音にも飢えていたのだ。 』

ということで、引用されている復興節を最後に引用。

   うーちはやけても えどっこの いーきはきえない
   
   みておくれ アラマ オヤマ  たちまちならんだ

   バラックに よーるはねながら おつきさまながめて

   エーゾ エーゾ てーいとふっこう エーゾ エーゾ


「 こうして、『復興節』はたちまち多くの人に歌われ、
  添田は歌詞を追作した。それが
 『 新平さん頼めば エーゾ エーゾ 』である。 」

はい。追作も、きちんと引用しなくちゃね。


  銀座街頭泥の海 種を蒔こうというたも夢よ アラマ オヤマ
  
  帝都復興善後策 道もよくなろ 街もよくなろ
  
  電車も安くなる エーゾ エーゾ

  新平さんに頼めば エーゾ エーゾ
   


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後藤新平の震災復興。

2024-02-09 | 地震
注文してあった古本が昨日届く。
「震災復興 後藤新平の120日」(藤原書店・2011年)。
624円+送料240円=864円。はい。帯つきで、きれいな一冊。

読みやすく、興味をもつ方には、ありがたい一冊。
とりあえず、関東大震災の際の首都はどうだったかを引用。

「1923(大正12)年8月24日、時の首相加藤友三郎が亡くなり、
 外相の内田康哉が臨時に内閣の首相を務めていた。

 28日には海軍大将の山本権兵衛に次期内閣を組織するよう『大命』が
 降下したのだが、組閣は難航し新内閣はまだ発足していなかった。」(p18)

こうした状況のなかで、関東大震災がおこる

「・・内田臨時首相、水野錬太郎内務大臣ら内閣の閣僚は
  首相官邸の植込みの中で閣議を開いた。
 
  臨時震災救護事務局を特設し、臨時徴発令の発布、
  戒厳令の一部地域への適用などの応急処置を取ることになった」(p18)

この次に、山本と後藤とが登場しておりますので、そちらも引用。

「この日、山本は海軍の社交クラブである築地の水交社に陣取って
 組閣の準備をしていた。そこへ大揺れが来てやむを得ず自宅へ帰った。

 翌日の9月2日の模様について、山本はこう回想している。

『 火につつまれた地震の一夜が明けると、どこからともなく
  流言蜚語(りゅうげんひご)が伝わって来た。

  思う人を呼びにやっても、なかなか来ないし、又情報すらない。
  実に気が気でなかった処へ、来たのが後藤(新平)伯爵であった。
  
  ・・伯が来て、大体の様子も判った。依って自分は、
  これでは、完全の組織を望む訳には参らぬ。しかし、
  内閣は一日もむなしくすべからず、2、3の人とでも
  一緒となって働こうというと、伯は勿論やります、というのだ 』

うん。もうすこし引用して今回はおわります。

「 ・・・こうして後藤新平は山本内閣の内務大臣に就任し、
  以後『帝都復興』に主導的な役割を果たすことになる。
  9月2日、山本や後藤の活動により、どうにか閣僚の人選が進んできた。

  農商務大臣兼司法大臣になった田健治郎はこう回顧している。

『 9月2日に山本伯からただちに親任式を赤坂離宮に於いてするから、
  参内の用意をして来てくれと、うんもすんもなく私の家
  ――多摩川にある――へ迎いの自動車を寄越して来た。
  ・・・・あの地ゆれのする中をその自動車に乗って・・・ 』

 大蔵大臣には後藤みずからが時の日銀総裁である井上準之助の
 説得に出かけた。井上はこう語っている。

『 閣僚の顔触れも揃わぬ所に後藤子爵が行って、
  こうなった以上は何が何でも内閣を組織しなければならぬ。

  こういうことを非常に力説されて、その足で私の所に2日の日に来られて、
  とにかく内閣を拵えなくては仕様がない、
  前内閣の人はそれだけの責任は負わないし、
  この惨状を眼の前に見て躊躇して居る場合ではない、
  山本伯にもそう話して賛成して居られるからということであったのです」
                          (p21~22)


こうして、9月2日夕、電灯とてなくローソクでの山本内閣親任式。


うん。せめて、ここも引用しておわります。

  9月12日 『帝都復興の詔書』公布。

「・・・詔書が発せられた3日後の9月15日、
 摂政官(のちの昭和天皇)は焼土東京を巡視し、後藤内相も従った。・・

 後藤の『東京計画』について、昭和天皇は強い印象を持たれたようだ。
 関東大震災60年目の1983年、昭和天皇は記者会見で

『 復興に当って、後藤新平が非常に膨大な計画をたてたが、
  いろいろの事情でそれが実行されなかったことは
  非常に残念に思っています。 』と発言されている。 」(p35)



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北條町の震災。

2024-02-08 | 地震
「安房震災誌」の記述から

「死者負傷者の多いのは、村落よりも市街地である。
 なかにも鏡浦沿ひの北條、館山、那古、船形の市街地は最も悲惨であった。

 今此の4町村に就て見るも、死者は604人・・負傷者は1784人・・。
 家屋の倒潰数も之を百分比例で見ると、北條は96、館山は99、
 那古は98、船形は92といふ多大な倒潰数である。

 したがって病院や医家も、倒潰を免れたものは少数である。・・
 北條町でも僅かに北條病院と諸隈病院とが、倒潰を免れたのみである。」(p242)


ここで、安房郡役所と北条病院との位置関係はどうだったのか。

北條停車場(現在の館山駅)から、北條病院へむかって、
倒潰を免れた北條病院の右側が北條町役場。病院の左側が安房郡役所。
さらに郡役所の隣りには北條警察署がありました。

北條病院を残して、郡役所・警察署・役場は倒潰しております。
また、北條町の中目町長は自宅で圧死。

安房郡長・大橋高四郎はというと、
郡長舎宅は倒潰するも、家族は無事でした。
安房郡役所に来てからは、庭前の檜の老樹の下に陣取り、
出来るだけ広く被害の状況を聞くことになります。

それでは、郡役所跡の隣の、倒潰を免れた北條病院ではどうだったのか
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に、吉井栄造氏の文がありました。

「かの堅実な純日本式の郡庁舎も大家高楼を誇った議事堂も瞬時にして
 『ピシャリ』倒潰した。・・・・
 北條病院の庭内は見る見る内に死体重軽傷者を以て埋められた。
 街は見渡す限り住家全潰して道路をおおい交通途絶し電信電話はもちろん不通である。
 夜に入るも燈火なく、流言蜚語は次から次へと伝えられ人心は戦々恐々、
 こうした悲惨、暗黒、不安はひんぴんたる余震と共に数日間続いた。」(p824)


「安房震災誌」の編纂は白鳥健氏でした。その第2編「慰問と救護」の
はじめの総説は、こうはじまっておりました。

「・・・本編はその惨害を如何に処理救護したか。
 即ち自然力に対する人間力の対抗的状態を詳記するのが目的である。」(p210)

そして次のページに、郡長の指示がでてきておりました。

「この際郡当局の最も苦心したのは、こうした人心を平静に導くの方法であった。
 もとより物資の欠乏も重大事であることは勿論だが、
 この上人心がひとたび自暴自棄に陥ったならば、その波及するところは
 予め測定することが出来ないのである。

 そこで郡長は、声を大にして、
 『 この際家屋の潰れたのは人並みである。
   死んだ人のことを思へ、重傷者の苦痛を思へ。
  
   身体の無事であったのがこの上もない仕合せだ。
   力を盡して不幸な人々に同情せよ。
   死んだ人々に対して相済まないではないか。 』

 といって郡民を導き、かつ励ましたのである。
 そしてこの叫びは実際において、多大な功を奏した。
 万事この態度で救護にあたったのである。 」(p220)

そして、p225∼226には、
郡長が「郡民一般に対して諭告を発した」としてその文を載せております。

「今回の震災は未曽有の惨害にて・・・・・
 ・・・・・・・

 一、 罹災者はこの際勇鼓萬難を排し自ら恢復に努むべし

 一、 幸に被害を免れたるものは自己の無事なるを感謝し
    万斛の同情を以て被害者を援助すべし

  ・・・・    」

「安房震災誌」から、もう一か所引用してみます。

「吉井郡書記、能重郡書記はこういっている。
『 あの時若し死んだならば 』という一語は、
 私共には総ての困難な場合を切りぬけるモットーとなっている。

 震災直後に、大橋郡長が、廳員の総てに対して訓示せられた

『 諸君はこの千古未曽有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
  幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
  罹災民の為めに奮闘せられよ 』

  には何人も感激しないものはなかった。・・・     」(p319∼320)



話はかわりますが、コメント欄に、きさらさんが記載してくださった。
臼井真(うすいまこと)作詞・作曲の『しあわせ運べるように』を
昨日ユーチューブではじめて聞きました。

臼井真の紹介文がありました。

「1960年、兵庫県神戸生まれ。
 神戸市内の小学校で音楽専科教諭を務める。
 1995年、阪神淡路大震災で東灘区の自宅が全壊。
 震災から約2週間後、身を寄せていた親戚宅で、
 生まれ育った街の変わり果てた姿を
 テレビニュースで見て衝撃を受け、
 わずか10分で『しあわせ運べるように』を作詞・作曲。・・」

はい。その歌詞を引用させてください。


 地震にも 負けない 強い心をもって
 亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
 傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
 ・・・・響きわたれ ぼくたちの歌






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郡長の意を述べ・・

2024-02-06 | 地震
安房の関東大震災。9月1日当日。
電気も電話も不通。電車も道路も破壊され。
大橋高四郎安房郡長は、警察署などと協議し、
郡役所から合計3名の郡書記が、県庁へ向かうこととなり、
警察署からも、急使が立ちます。

そのあとに、
「むろん、県の応援は時を移さず来るには違いないが、
 北條と千葉とのことである。今が今の用に立たない。」
    (p317 「安房震災誌」)

そこで、久我武雄氏が、大山村への急使となります。
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
急使が到着した記録が残っておりました。
以下は、大山村役場の記録を引用。

「9月1日午後8時頃千葉県農会技手伊藤正平、
 北條税務署属久我武雄両氏来着、

 稀有の大震災にて北條、館山、那古、船形等は全滅し倒潰せざるものは
 房州銀行及び税務署の二棟のみにして死傷者其の数知れず・・・

 両氏は・・闇夜ただ一個の古提灯を携え、亀裂凸凹の悪路や
 陥落の橋梁を乗り越えて来り郡長の意を述べ、
 直に応援出動せられ度旨聞く事々に被害の惨禍は驚愕せざるものなし、
 なお病院医師薬剤師宅も倒潰し負傷者の応急手当に要すべき材料なくて、
 右衛生材料携帯片時も早く出動方心配せられたく、

 又出動者には当然食事を給与なすべくも
 罹災民全部食料に窮し目下之れが救助の講究中なれば、
 食料は携帯せられ度、なお又堀井戸水道は崩落全く汲むに水なく
 飲料水も携帯を乞う有様なれど水はまず如何なる方法によるも
 差しつかひなきことなるべく、食料の用意にて足るべき由、

 よって時の在郷軍人大山分会長塚越均一、青年団長宮崎徳造の両人は
 東奔西走団員会員中自転車所有者を以て先発隊となし、
 これに衛生材料、脱脂綿、ガーゼ、アルコール、エーテル石灰酸、
 葡萄酒等を取り纏め各人に分与携帯せしめ
 大山救護隊なる紙旗を箙(えびら)となし、
 ようやく11時頃急行を命じたるに、
 夜中の悪路を厭わず2日午前1時18分に着し、救護隊第一着一番乗なりき。

 順次徒歩のものもあり午前11時には154名参着せられたるに、
 北條、館山、船形の三ヶ所に配置せられ、

 分会長塚越均一氏は北條町において総指揮官となり、
 青年団長宮崎徳造氏は共に連絡をとり、
 
 出動者食料弁当の焚出し従事し、自宅前に四ヶ所の炊事場を設け
 附近の人々の援助を乞い握り飯を作り、残暑なれども腐敗を恐れ
 朝昼夕の三食を伝令の通知による人員数により
 不足を生ぜざる様に伝送したり。 」(上巻p935~936)


ここに出てくる、急使による『郡長の意を述べ』る箇所など
読んでいると、ポイントを指摘して、至急必要な品の用意を
述べているくだりは、用意周到な意向が伝わってくるようです。
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アンケート。

2024-02-05 | 地域
水曜日は、私が自由に使える日。
公民館の推進委員の方がみえて、講師をしませんかと話された
のがキッカケで去年までに3回お話をさせていただきました。
はい。いずれも、一年一回。水曜日に限りました。
はい。歩いたり。歌ったり。お話したり。

参加人数はいたって少なく、私もあがることもなくお話ができます。
たとえば前回は高校の教室をかりて、創立期におきた関東大震災の
『復興の歌』に、新しい曲をつけてもらい参加者全員で歌いました。

その時のテーマは『関東大震災と「復興の歌」』としました。
当日の参加は14名。終わって、アンケートに記入されたのは
そのうちの10名。はい。平日であり、ほとんどが70歳以上。
うん。たいていの60歳代は仕事をもっていて、平日は無理。

お見かけすると、ほとんどが、私より年上に見えました。
参加者は、女性8人・男性6人。「公民館だより」が参加の情報源。

アンケートに「 どのようなテーマの講座に興味がありますか 」
という項目がありました。『郷土歴史』への興味が10名おります。

さて。『 企画してほしい講座等を具体的に 』という質問に
私に気になる回答がありました。それはこうです。

「 関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
  地域の受災状況をくわしく知りたかった。  」

その回の講座の題を「関東大震災と・・」としてあったので、
てっきり地域の関東大震災の際の状況を教えてくれる講座だと
思って参加されたのだろうなあと想像しました。
その方に、私は肩すかしをしてしまったのかもしれない。

そうして、アンケートの回答を見ているうちに
今年の講習のテーマが浮かび上がってきました。

とりあえず。今年の講座に仮題をつけておきます。
『 安房郡の関東大震災 ・・ 郡長大橋高四郎 』

できるだけ、安房地域の地名を登場させながら、
地図を開き、震災や登場人物の推移を図上再現。
というのが、いま思い浮かべているところです。

はい。講座としては、ほんの1時間ほどで終わるでしょうが、
こうして、それについてのあれこれを思い描く時間は楽しい。

今年は、当ブログであれこれと思い描く時間を記録してゆきます。






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となると。

2024-02-04 | 産経新聞
何年ぶりだろう、飲み会。
知り合いの奥さんは、70代のなかば。
朝日新聞を購読していて、知り合いによると、
隅から隅まで読んでいるのだそうです。
そうか、こういう方もいるのだなあ。
身近にいると、いろいろと気になるものです。

さてっと、産経新聞2024年2月4日の「産経書房」。
「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」。その途中から引用。

「 週刊誌界を代表する2誌が、こんなことばかり
  やっていていいのだろうか。正直、うんざり。 」

このあとに、ニューズウィーク日本版2月6日号の
「大特集『チャットGPTを生んだ男サム・アルトマン』
 19㌻はさすがに読み応えがある。・・・」

うん。そこから

「そもそも世の中の人が気にするのは、
 AIが自分のために役立つかどうかってことだろう?(中略)
 今のシステムには大きな弱点がある。
 個人的にはまだ問題ありだと思う」

「 何が問題なのか。
 『 今のシステムは、まだ推論が苦手だ。
   人間のやる有益なことの多くは、
   ある程度の複雑な推論を必要としている(中略)

   例えばGPT-4は、知識の量に関してはすこぶる超人的。
   ただ、その知識をどう使うかが問題だ。
   GPT-4はそういう基本的な推論ができない。
   だから、どんな人間よりも多くの知識を持っているのに、
   時には人間なら絶対しないような間違いをしでかしてしまう』

  日本の週刊誌になぜこういう記事ができないのか。 」


はい。さっそくニューズウィーク日本版を注文しました。

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関東大震災後の『72時間』。

2024-02-03 | 安房
阪神淡路大震災の際に、同じ地続きなのに、
家屋の倒壊の場所と、街並みが整然として被害がすくなかった場所と
の境界が、何だか不思議な感じで印象に残っております。

千葉県安房郡での、関東大震災の場所的被災状況を思う時、
関東大震災当時の安房郡には、どのような町村があったか、
まず、その確認からはじめてみます。

東京湾の内房から海岸に沿って、外房へとめぐってゆくと、
保田町・勝山町・岩井村・冨浦村・船形町・那古町・北條町・館山町
西岬村・神戸村・富崎村・長尾村・白浜村・七浦村・千倉町・千歳村
南三原村・和田町・江見村・太海村・鴨川町・東條村・天津町・湊村。

また安房の内陸部を北から南へと紹介すると
佐久間村・大山村・吉尾村・主基村・田原村・西條村
八束村・平群村・曽呂村・瀧田村・稲都村・丸村・北三原村
國府村・豊田村・館野村・九重村・健田村・豊房村。

郡役所の沿革によると、
「明治11年・・郡役所を開設せらるる・・
当時敷地は北條町北條の所有にかかり・・
表門は北條病院の前なる大槇樹の北にありて長屋門なりき。
明治16年5月10日新築落成・・現庁舎是なり(大正12年の大震にて倒潰す)」
          ( p497 「千葉県安房郡誌」大正15年6月 )

「安房震災誌」には、各種被害の写真が掲載されており、
そのなかには、「倒潰セル郡役所」「倒潰セル警察署」の写真もありました。

これら各町村への安房郡による「震災状況調査表」(大正12年9月19日調べ)
の数値一覧が載っております。全潰・半潰戸数・焼失・被害数百分比
死亡数・負傷数他・・とあり、調査項目として行き届いております。

もどって、震災当日の9月1日。

郡長は、家の前の松の木に腰を据えて、余震をやりすごし、
安房郡役所に来てからは、庭前の・・老樹の下に陣取り、
出来るだけ広く被害の状況を聞くこととなります。

『能ふだけ深切な救護の途を立てることに腐心した。
 県への報告も、青年団に対する救援の事も、
 皆なこの樹下で計画したのであった。』( p233 「安房震災誌」)

郡役所では合計3名の郡書記が、県庁へと向かうこととなり。
警察署からも、急使が立ちます。

そのあとに、郡長はどうしたか?
安房震災誌の記述から引用します。

「・・眼前に横たわる死者・傷者その累々たる中に、
 建物の下敷きとなった半死の悲鳴。悲絶とも惨絶とも形容の言葉がない。

 むろん、県の応援は時を移さず来るには違いないが、
 北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。

 手近で急速応援を求めねば、この眼前焦眉の急を救うことが出来ない。
 しかしどの地方に応援を要求したらよいか。
 郡長は・・・沈思黙考してみた・・・  」(p236~237)



別の本に、平川久太郡書記の記述が読めました。
それは、大山村から急遽、郡役所へもどる場面が描写されております。

「私(平川)は命を帯びて秋繭の共同販売斡旋のため
 大山村へ出張し佐久間書記と共にその準備中、
 轟然たる音響とともに、アア地震・・スワ無心の中に飛び出したが、
 居たまらず、庭に二人転び居った。・・・
 さっそく用務を中止して帰庁した。

 平群、瀧田、國府と北條に近づくにつれて潰れ家、土地の陥没、亀裂
 等次第に烈しく、一面空を見れば太陽には光りを失い真紅なる大きな
 輪郭を見せ、船形、北條の方面には大火らしき煙りを上げ
 その物凄さはいよいよ私を恐怖の中に包んだ。一時も早く帰らんと
 あせるも橋は落ち道は崩れてはかどらず4時頃やうやう北條に着いた。・・

 郡役所に馳せつけてみると郡衙、警察署、皆影も形もない。
 職員はほこりまみれになって皆青黒く半ば死想を帯び
 何かとそわそわしていた。

『 ヤア君帰ったか、杉田君はやられてしまったよ。
  中川君も下敷きになったが命だけは助かった。 』

  と大橋郡長が云うて呉れた。・・・  」
       ( p825~826  「大正大震災の回顧と其の復興」 )


この倒潰情報も含め、被害少ない大山方面に応援要求することとなります。
うん。これに関しては、安房郡長・大橋高四郎氏の文が残っております。

のちに県へ調査報告した表彰するに値する
『功績顕著と認むる事実の概要』は、
安房郡長による推薦文が残っておりました。
最後は、その記述のまま引用しておきます。

「 大震災によって稀有の大惨状を現出するや郡は直ちに
  急を本県に報じ救援を求めたるも当面の惨状は
  少時も放擲し置くを許さざるをもって
  急に手近に応援を求めるの要あり

  郡内平群、大山、吉尾等山間部は被害少なく求援に便なるを想像するも
  郡吏員はすでに救護のために八方に奔走し使者として適任者なく

  使丁、学校職員その他に人を求むるも遂に応諾するものなく
  大いに苦心の折柄たまたま同氏(久我武雄)のあるあり

  交渉中激震あり人々色を失ふの際
  氏は快諾一番闇夜悪路を冒し約13里の道程を突破して、
  平群、大山、吉尾等各町村に到り、

  青年団、在郷軍人分会、消防組の出動を請ひたるに
  いずれも即夜動員を行ひ2日未明2百余台の来援を得て
  死傷者の収容、救急薬品の蒐集、食糧の配給等に努力せらる

  なお之を端緒として引きつづき各町村青年団、在郷軍人分会
  等の活動を見る功績顕著なり。   」(p344)



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感謝の語り草。

2024-02-02 | 地震
関東大震災から、百年が過ぎました。

千葉県安房郡での被災をとりあげたいのですが、
そこで、安房郡長・大橋高四郎を語ってゆきたいのですが、

千葉県の『館山市史』(昭和46年)に、「関東大震災と館山」と題する
箇所があり、そこに『感謝の語り草となっている』という言葉がある。
はい。そこを詳しく引用してゆきます。

「一方、救護については、当時の記録を見ると
( 北條警察署報・安房震災誌 )

 北條病院と長須賀納涼博覧会場を救護所に当て、
 県派遣の医師14名の応援と、千葉医大医師3名、看護婦4名、
 他に薬剤師1名を加えて医師四五名(4~5のことか)にて
 看護に全力を尽くしたとあり、

 当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、
 郡役所職員、各町村首脳部が打って一丸となって、
 県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力は、
 
 今でも感謝の語り草となっている。
 ・・・・・             」(p565~566)

 
注目したいのは、昭和46(1971 )年出版『館山市史』ということ。
関東大震災から、まだ50年に満たない頃に出来た市史であること。

倉知克直著「江戸の災害史」(中公新書・2016年)のなかに、

    『 60~70年以上を超えると、
      口頭による伝承は
      不確かなものとならざるをえない。 』(p72)


それでは、関東大震災から100年を過ぎた2024年になってみて
いったい『 感謝の語り草 』とはどのような意味だったのか。
安房郡長大橋高四郎とは、いったいどのような人物だったのか。

記録された記述を組立て『 感謝の語り草 』を再現してゆき、
大橋高四郎の人物を、中心にして造形してゆこうと思うのです。


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宮澤賢治と貴島憲

2024-02-01 | 安房
宮澤賢治は大正10(1921)年12月3日、稗貫郡立稗貫農学校教諭となります。
賢治は翌年大正11(1922)年2月に「農学校のために精神歌を作詞」します。

そして翌年大正12(1923)年9月1日、関東大震災がありました。
千葉県安房郡の安房農学校は、その震災で校舎が倒壊し、火災で全焼します。
その震災の年に、安房農学校の貴島憲教諭は、『復興の歌』をつくり、
生徒と共に、歌っていたと、その時の生徒の記録にあります。

宮沢賢治の精神歌は4番まであり、ここには1番を引用してみます。

    日ハ君臨シカガヤキハ
    白金ノアメソソギタリ
    ワレラハ黒キツチニ俯シ
    マコトノクサノタネマケリ

貴島憲教諭の『復興の歌』は、農学校生への震災からの復興を
こめて8番までの歌詞がついておりました。以前に1番は引用したので、
ここには、2番と4番とを引用してみます。

  大地振(ふる)いて新たなる 命四海に漲(みなぎり)ぬ
  厳(おごそ)かなれや土の色 いざ固くとれ鍬(くわ)の柄(つか)

  太平洋の朝風に 汗拭く心地君知るや
  生気(せいき)溢るる黒土に 種蒔く思い君知るや


どちらも、農学校生への歌を作詞したという共通点がありますが、
片一方は、題名どおり関東大震災からの復興を意図したものです。

ちなみに、安房では女学校も倒壊します。
大正13年正月の作とある「安房高等女学校復興の歌」(豊原信一郎作詞)
が残っております。4番まであり、ここには1番と2番を引用。

   大地震(おほなゐ)すぎし 安房の国
   妖魔の影は 跡もなく
   若き光に  更生の
   鏡浦は富士を 写すかな。

   甍(いらか)ならべし 学舎(まなびや)は
   消えて空しく なりぬれど
   強固(つよき)をほこる 少女子が
   復興の意気 天を衝く。


同じ復興の歌でも、貴島憲教諭の歌詞との違いを
味わっていただきたいと思い、引用してみました。

   


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