和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

食べ物の、わらべ歌。

2024-11-11 | 詩歌
「日本わらべ歌全集19下」(柳原書店)は、「山口のわらべ歌」でした。
本の帯には、この巻を語った、古田足日さんの短文が載っていました。

「 著者の一人内田伸氏は豊かな学識とともに、
  慶応生まれの祖母から聞き覚えたわらべ歌を、
  今でも150曲は歌えるという。
  この一冊は後世に伝えようという氏の成果であり、
  西の京山口の独自性を見事にとらえている。 」

はい。最初に載る『山口わらべ歌風土記』は、内田伸氏の文でした。

「 明治以降、中央政府に多くの大臣、大将を送った山口県は、
  文学、芸能的なものを文弱であるとしてさげすむ気風があり、
  それを温存し、育成しようとする気持ちを持つ者が少なかった。
  実際、現在の山口には、他県に比して遜色のない
  仕事歌や祝い歌の民謡、神事の芸能などがいくつも残っている。
  それに気付く者がいないわけで、
  良馬を見つける博労がいないのである。 」(p15)

はい。6ページの内田氏の文には、引用したい箇所がたくさん。
けれども、これだけにしときます(笑)。
それはそうと、食べ物に関する箇所を引用しておきます。

       一つ冷や飯   ( 数え歌 )

     一つ冷や飯 二つふくふく小豆飯
     三つ見てもうまそうな おすし飯
     四つよまし 五つ芋飯
     六つ麦飯 七つ菜飯
     八つ焼飯 九つこげ飯
     十で豆腐屋の おから飯    ( 山口市 )p166

       注:よまし = 麦を精白しただけのものは、     
               炊くのに長時間かかったので、
               前の晩に炊いておいた。
               これを『 よまし 』という。 


      そうだ そうだ   ( 地口歌 )

    そうだ そうだ
    そうだ村の 村長さんの
    惣領息子が 死んだそうだ
    葬式まんじゅう 大きいそうだ
    中にはあんこが ないそうだ    ( 山口市 )p177

   
      みかんきんかん    ( 地口歌 )
 
    みかん きんかん 酒のかん
    親の言うこと 子がきかん   ( 山口市 )p172

「 古くからよく言われる地口。
 『 親の言うこと 』を小野田地方では
 『 親の折檻 』という。この方が原形であろう。 」

【類歌】 蜜柑きんかん酒のかん、親父の喧嘩ハ私(わし)ア知らぬ。


ところで、内田伸氏の文に、真宗の教義に関連し
『 石川のわらべ歌 』の巻も見てほしいと指摘されておりました。
ということで、日本わらべ歌全集10上の『 石川のわらべ歌 』から、
食べ物に関する私の興味で引用したい箇所がありました。

「石川県は真宗大国といわれるとおり、とくにその開祖
 親鸞の徳を偲ぶ報恩講(ほうおんこう:ふつうは「ほんこさん」)
 が盛んである。・・・  」(p174・「日本わらべ歌全集10上」)

はい。最後は、石川のわらべ歌から、報恩講のわらべ歌を2つ。


        ねんねんとこに    ( 報恩講 )

     ねんねんとこに 報恩講
     ご坊様呼んで
     人参 牛蒡(ごぼう) シャキシャキなます
     紫炒菜(しいな)のお華足(きそく) ぎんなん 
                   ( 松任市徳光町 )

  注:「紫炒菜」は、松任から能美郡あたりかけ、欠かせない献立の一つ。
    紫蘇の実(しいな)を生かし、香んばしくいった荒挽きの大豆、
    ささかきの人参や牛蒡、こんにゃく、油揚げを加えた煮物。

    「お華足」は、仏前のお供えを盛る器具。
          ここではその供物、普通は餅。


 
         そこな方しの   ( 報恩講 )

     そこな方(かた)しの報恩講(ほんこ)さま
     大根(だいこ)の煮たがで勤まるそうな
     おっちゃの方しの報恩講さま
     人参 牛蒡に 山ね芋
     椎茸にかんぴょうさん
     穴の明いたの蓮根じゃ     ( 鹿島郡鹿島町 )

 注:『 そこな方しの 』= そっちの方の。
              『 し 』は強意の助詞。

   『 おっちゃ方しの 』= おのれ(自分)の方の。

   『 山ね芋 』= 山芋

そのあとに、こうあります。
「 報恩講においては、食べることが、いかに楽しみであったかがわかる 」

        ( 以上は p176 「日本わらべ歌全集10上」 )
     




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柳田國男の母。

2024-11-10 | 道しるべ
「日本わらべ歌全集10上」(柳原書店)は、「石川のわらべ歌」です。
小林輝治氏が、あとがきを書いております。そのはじまりに

「  伝承歌謡の収集に対して、これは
   『 今の時代の一番重要な仕事かもしれない 』
      ( 柳田國男『民謡と歌謡と』昭和31 )
   ということばにうなずいて、今では30年が経っている。・・ 」
                          (p237)

ああそうだ、そうだ。と思い出したように、柳田國男。
以前に、柳田國男を読もうと思ったことがありました。
けど、思うだけで結局は一冊くらいしか読めなかった。
はい。柳田國男の著作山脈のどこかにきっと私にふさわしい登山
コースがある。それがわかりさえすれば展望がひらけるかもしれない。
そんなことを思いながらも、糸口もつかめなく、過ごしておりました。
はい。結局はホッポリだしたまま、読まなかったわけです。

今回は、わらべ歌という登山口から柳田國男山脈の展望がひらける。
そんな期待をもって読み齧りでもチャレンジしたいと思うわけです。

はい。そんなわけで、
筑摩書房の「新編 柳田國男集」の第10巻にある
『 母の手毬歌 』を、おもむろにひらきました。
今回引用するのは、そこにある『 母の手毬 』 。

 「私の母は、今活きていると106歳ほどになるのだが、
 もう50年前になくなってしまった。

 男の子ばかりが8人もあって、
 それを育てるのに大へんな苦労をして、
 朝から夜までじっとしている時がないくらい、
 用の多いからだであったのに、
 おまけに人の世話をすることが好きで、
 よく頼まれては若い者に意見をしたり、
 家庭のごたごたの仲裁をしてみたり、とかく理屈めいた話が多く、
 どちらかというと女らしい所の少ない人であったが、
 それでいて不思議に手毬だけを無上に愛していた。

 うちには女の子は一人もないのに、余った木綿糸さえ見れば、
 きっと自分で手毬をかがって、よその小娘にも遣れば
 またうちにも置いたので、私たちの玩具箱には、
 いつも2つも3つもごろごろしていた。

 そうして私たちがたまたまついてみたり揚げてみたりしていると、
 傍へ寄って来て正月でない時にも、自分で上手に遊んでみせてくれた。
 しかし母のはいつでも揚げ毬の方であった。
 そうしてその歌が村の女の子たちの歌っているのとは、
 大分にちがっていた。それを何べんも聴いているうちに、
 わざは真似ることができなかったが、
 歌だけは私も大よそ覚えてしまったのである。・・ 」
      ( p244~245 「新編柳田國男集」第十巻 1979年 )

いそいで、柳田國男の略年譜をひらく。
そのはじまりに

1875年(明治8) 7月31日、兵庫県神東郡田原村辻川 
         ( 現 神埼郡福崎町辻川 )に生まれる。

とあります。お母さんも出身は、その近くだったのでしょうか。

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よう受けとりました。

2024-11-09 | 詩歌
「日本わらべ歌全集24」(柳原書店)は、「佐賀長崎のわらべ歌」でした。
各巻県ごとに、採集者・編者がおられて、佐賀は福岡博。
福岡氏は、はじめに「佐賀わらべ歌風土記」を書いておりました。
そこに出てくる指摘が印象深い。

「 ・・・子供の言葉は叫び声に近い。
  それで自然発情的な叫びやかけ声に類するものが目につく。
  ・・・呼んだり、呼びかけたりするものが多い。  」

その次でした。

「 手まり歌、羽根つき歌、お手玉歌はもちろん、
  年中行事の歌にしても、すべて動作と共にあるもので、
  この点、いわゆる童謡とはその趣を異にしている。
  つまり遊びの要素である行動や動作を除外しては
  成立しない要素をもっていることがわかる。・・・  」(p20~21)

こうして、採集・採譜されたわらべ歌が引用されてゆくのですが、
その歌への説明も具体的でわかりやすかったのでした。
まずは、「手まり歌」の説明からはじめてみます。

「 古いわらべ歌の中で、手まり歌はもっとも美しいリズムに満ち、
  いまうたっても生き生きとした魅力を持っている。

  明治の頃まで手まりといえば、たいてい自分の家で作ったもので、
  赤いおもとの実のシンを抜き、白い灯芯で巻き包み、
  木綿糸を巻きつけていき、さらに赤、青、黄などの色糸で、
  花や麻の葉形の模様をかかった。
  そのころは佐賀でも、木綿の布を織る家が多く、
  くず糸がたくさん出ていたせいもあった。

  遊び方は、いまでこそ土間や板の間でつくのが普通であるが、
  そのころはお手玉のように手のひらでうける遊び方(揚げまり)
  があり、歌にも、つき歌とあげ歌の二通りがあった。

  もっとむかしは、布袋に小豆などを入れたお手玉のことを 
  ≪ 手まり ≫と呼んだそうで、
  歴史的には あげ歌が古いとされている。・・  」(p26)

それでは、はじめに引用されてる「 手まり歌 」を引用しましょ。

       からうめからだけ  ( 手まり歌 )

     からうめ からだけ
     からすが一匹 とんで渡った
     この手まりゃ だれにあげましょ
     花のみちこさんに あーげましょ
     よう受けとんさいの
     よう受けとりました        ( 佐賀市 )

「 『 からうめからだけ 』は、手まりをつく人は一人で、
  最初はみんな合唱で『 ・・・だれにあげましょ 』
  までうたったあと、ついている人が、
  次につかせたい人の名をあげて、
  『 花の〇〇さんに、あーげましょ 』と
  一人でうたい、ポンと手まりを高く上げる。
  指名された人は、
  『 よう受けとりました 』と受けとり、
  また最初から繰り返す。          」(~p28)

はい。「日本わらべ歌全集」(柳原書店)は
ただ、わらべ歌を並べてあるだけでなく、
それにまつわる子供遊びが詳しく描写されています。
全国に同じわらべ歌はあるのですが、
各県の方の歌解説は人さまざまです。
そうした何気ない箇所に惹かれます。

ということで、今月中に残りの巻をひらいてゆくことに。
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だんだん=さよなら。

2024-11-08 | 詩歌
「日本わらべ歌全集25」(柳原書店)は、「熊本宮崎わらべ歌」です。
その熊本の箇所を読む。といってもパラパラ歌をめくるくらいです。
『 縄とび歌 』を引用してみます。

         大なみ 小なみ    ( 縄とび )
  
     大なみ小なみ ささなみ小なみ
     一 二 三 四 五       ( 菊池市赤星 )


         おはいり〈 1 〉

     花子さん おはいり 内緒でジャンケン致しましょ
     負けたお方は お逃げなさい   ( 菊池市赤星 )

         おはいり 〈 2 〉

     花子さん おはいり
     オッピリ ピリピリ オッパッパ
     ジャンケン ポン
     負けたお方は お逃げなさい   ( 菊池市赤星 )


        くまさん くまさん

      くまさん くまさん 後ろを向いて
      くまさん くまさん 両手をついて
      くまさん くまさん 片足あげて
      くまさん くまさん おわかれ  (菊池市赤星)p124  


『 遊びにさそわれて、家を出ることのできない子の断りことば 』
 というのが『 早口ことば 』に載っておりました(p166~167)

        でんでらるんなら   ( 早口ことば )

     でんでらるんなら でてくるばってん
     でんでられんけん でられられんけん
     でんけん こんけん
     こんこられんけん こんこん
             ( 玉名郡南関(かんなん)町東豊水 )

 訳:  出られるならば 出てくるけれども
     出られないから 出ることができないから 
     出ないから 来ないから
     来らない(行けない)から 来ない(行かない)よ



縄とび歌の『 お逃げなさい 』『 おわかれ 』が
聞いたこともなかったので、遊びの気持ちがなぜか伝わるようでした。
すこし先のページに(168~170)『 別れ 』と題する歌が3つ。
まずは、その説明を引用して、最後に3つの歌を引用します。

「 一日の遊びが終って別れるとき、
  これらの歌が誰からともなくうたい出される。

 『 だんだん団子汁・・・ 』とうたい、友だちの方をたたき、
  相手からたたきかえされないうちに急いで駆けだす。
 『 帰ろい帰ろい 』は子供たち全員が、
  合唱するようにうたいながら帰るときの歌である。 」

      だんだん団子汁   ( 別れ )

    だんだん団子汁(だごじゅッ) あしたの目さまし
                    ( 球磨郡上村永里 )
       注: だんだん=さよなら

       さよなら三角    ( 別れ )

    さよなら三角 また来て四角
                 ( 人吉市中青井町 )

         帰ろい帰ろい  ( 別れ )

      帰(かい)ろい 帰ろい
      柿ちぎろい
      戻(もど)ろい 戻ろい
      桃ちぎろい       ( 玉名市伊倉北方 )


  
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田舎じゃ菜種の花ざかり

2024-11-07 | 詩歌
「日本わらべ歌全集6下」(柳原書店)は「千葉のわらべ歌」でした。
わたしは、安房に住んでるので、安房のわらべ歌をまずはさがします。

すると、最初にある「房総わらべ歌風土記」の文にはこうありました。

「 ・・・安房の歌は、ここでは2曲しか収録できなかった。 」(p19)

あれれ、そうなんだ。残念。そんな気持ちで続きを読む。

「 しかし、『安房の子守歌』の跳躍の多い、それでいて
  しっとりと落ちついた、いうにいわれぬ温かみ、
  なつかしみを感じさせるその旋律は、まさに
  子守歌の絶品のひとつに数えられてもよいくらいである。
  
  ・・・関東地方では光彩を放つ貴重な子守歌といえよう。

      お江戸じゃちりちり ちりめんづくし
      いなかじゃ菜種の 花ざかり
   
   南国安房の花畑の美しい風景が目に浮かぶ。・・・  」(p19)


はい。貴重な2曲を、最後に引用しておきます。

         ひとてきな   ( 羽根つき )

     ひとてきな ふたてきな
     見てきな よんできな
     いつきてみても
     ななこの帯を やの字にしめて
     ここのはで とまれ
                  ( 安房郡鋸南町佐久間 )p82


       ホラホラほうらい豆  ( 安房の子守歌 )

     ホラホラ ほうらい豆 十六ささげ
     ささげが嫁に行って 追い出された

     お留(とめ)が大きくなったら 江戸へやる
   
     お江戸じゃちりちり ちりめんづくし
     お江戸じゃちりちり ちりめんづくし
     
     いなかじゃ菜種の 花ざかり   ( 安房郡千倉町 )p212  



追記: 「鋸南町史」(昭和44年)をひらいてみると、
    『 羽子突唄 』(p363)が載っておりました。

         羽子突唄

     一(ひと)てきな  二(ふた)てきな 三(み)てきな
     四(よ)ってきな  五(い)つ来て見ても
     娘(むすめ)達そろって 七(なな)子の帯を
     八(や)の字にしめて 九(ここ)のはで 十(とお)よ
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水清め。若水汲み。

2024-11-06 | 詩歌
「兵庫のわらべ歌」で、水の歌があるのでした。
「水清め」と「若水汲み」。それを順番に引用。

      濁りしゅめしゅめ    ( 水清め )

     濁(にご)り しゅめしゅめ
     丹後のおじの子が 水汲みきよる

       ( 宍粟(しそう)郡千種(ちくさ)町岩野辺 )


 注: しゅめしゅめ = 「 澄め澄め 」の訛り。

「 山深い村に住む人たちは、谷あいの水や湧き水の所を
  手で掘って水たまりを作り、その水を利用した。
  はじめ濁っていた水が、早くきれいになるように
  と唱えた『 水清め 』の歌である。   」 ( p148 )

「日本わらべ歌全集」は各巻の終りの方に県の地図と地名が載って
おります。宍粟郡千種町は、鳥取県と岡山県と両県との県境にある。


        福とんぶり    ( 若水汲み )

    福とんぶり 徳とんぶり   ( 養父(やぶ)郡養父町森 )


「 元旦に使う水は、年男が早朝に恵方から汲んでくる。
  この若水を汲むとき、豆がらを焚いてこの歌をとなえた。

  若水は、昔、宮中で立春の日の早朝天皇に奉った水をいったが、
  後世はもっぱら元旦に汲んで一年中の邪気を払うものとされた。

  万葉集に『 月読の変若(おち)水 』という言葉が出ていて、
  変若(おつ)は元へもどる。若返るの意。

  この水を飲み、浴びると、人も若返るという神聖な水で、
  若水もこの信仰から出たものであろうか。
  若水を汲む場所は、川・池・井戸などで、県下でも
  地域によって多様なやり方が行われている。   」

 【類歌】 
    〇 ふくとう。( 養父郡大屋町蔵垣 )
    〇 年徳さん、福おくれ。( 美方郡美方町広井 )
    〇 若とんぶり。( 美方郡浜坂町 )
    〇 とんぶりや、とんぶりや、若とんぶりや。( 養父郡関宮町 )

                        ( p162 )


ちょっと、気になって、兵庫県の近県のわらべ歌の目次をめくったのですが、
この『 若水汲み 』というのは出ておりませんでした。
若水汲みで、思い浮かぶのは、歌人岡野弘彦氏です。
岡野氏は、大正13年7月7日生まれで、神主を継ぐはずだったそうです。
今回の最後には、その岡野氏へのインタビューからの引用。

「 私のところは三重県の伊勢の西の端です。
  ちょっと北へ行くと伊賀、ちょと西へ行くと大和です。
  この三つの国のちょうど境になるわけです。・・・ 」( p24 )

「 小学校で僕はわりあい歌と縁ができるようになりましてね。
  お正月は、子どもなりにきちんと着物を着せられて、
  白木の桶に若水を汲みに行くんです。

     今朝汲む水は福汲む、
     水汲む、宝汲む。
     命長くの水を汲むかな

   と三遍唱えて、切麻(きりぬさ)と御饌米(おせんまい)を
   川の神様に撒いて、白木の新しい桶でスゥーッと
   上流に向かって水を汲むわけです。

   うちへ帰ってきて、それを母親に渡すと、
   母親はすぐに茶釜でお湯を沸かして福茶にする。
   残りは硯で、書き初めの水にしたりするわけです。
   それを五つのときからさせられました。

   ちょうどその時間、夜中の一時くらいですが、
   上の神社の森のお社から、村の青年たちを手伝わせて
   元日のお祭りをしている父親の
   祝詞(のりと)の声が川音に交じって聞こえてくるのです。 」

    ( p20 「岡野弘彦 インタビュー集」本阿弥書店・2020年)
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だるまさん だるまさん

2024-11-05 | 詩歌
「日本わらべ歌全集18上」(柳原書店)は「兵庫のわらべ歌」でした。
長めのわらべ歌があるのですが、ここには短かいわらべ歌を並べます。

      だるまさん だるまさん   ( 顔遊び )

  ①  だるまさん だるまさん
  ②  にらみやこ しましょ
  ③  笑ったもんは 負けで
  ➃  笑わんもんが 勝ちで
  ⑤  ウントコドッコイショ
                ( 美方郡温泉町塩山 )p100

注: 各行ごとに、注がありました。

  ①  『 恵比須さんさんと大黒さんと 』とも (伊丹市)

  ②  県下全域で若い人の場合『 にらめっこ 』が多い。
     尼崎市・伊丹市・芦屋市では『 にらみっこ 』。

  ③  姫路市・加古川市・神戸市・伊丹市・
     芦屋市・尼崎市では 『 笑(わろ)たら 』。
     但馬・丹波地方では『 笑(わら)ったら 』。

  ➃  他地域では、この文句はほとんどない。

  ⑤  『 アップップ 』『 エンプラプのプ 』などがある。



夕焼けをとりあげた歌には、こんな説明文がありました。

「   秋の夕焼けは美しく印象的。六甲山をもつ
    摂津から播州にかけて、よくうたわれている。   」


       山焼ける    ( 夕焼け )    ( p146 )

     山焼ける  猪(しし)踊る
     猿が豆食って のどキッキ
                  ( 加古川市加古川町 )



いろいろな『 ねかせ歌 』を読むことができました。
短いけれどひとつだけ選ぶとしたら、これでしょうか。

      ねんねんよ   ( ねかせ歌 )

    ねんねんよ ねんねんよ
    ねんねんよいよい よいよいよ
                  ( 美方郡温泉町桐岡 )p192

はい。この解説が印象に残ります。

「 子守歌の中でも、もっとも素朴で一番子守歌らしいものであろう。
  ただいとし子の安らかなねむりのみを願ってうたう母親にしても、
  いっときも早くねむらせて遊びに出たいと願う守り子にしても、
  その美しい心情がそのまま結晶した歌といってもよく、

  この曲にはほかの歌詞など無用であると主張しているようだ。

  時には『 よいよいよー、よいよいよ、
         よいよいよいよ、よいよいよー 』
  ともうたわれる。                 」(p194)



巻末の、あとがきは長谷坂栄治氏。

「 ・・兵庫県は何といっても広く、地形は複雑、
  文化的にも様相を異にする多くの地域をもっており、
  採集・採譜に長い時間を要することになってしまった。 」(p243)

とあります。最後の長谷坂栄治氏の著者略歴を見ると、
「 昭和9年兵庫県に生まれる。」とあり。
「 兵庫県温泉町立照来中学校教諭 」
この本が出版された昭和62年の時の現住所が
「 兵庫県美方郡温泉町桐岡・・ 」となっております。
その地域の守り子歌の採集が充実しております。
その説明文にも、採集での誠実さが伝わるようです。
長谷坂氏の文を引用。

「  兵庫県北部の但馬地方は、江戸時代から、
   冬季雪のある間出稼ぎに出る者が多かった。
   大和の福貴(ふき)、丹波の山奥へ   
   凍り豆腐(高野豆腐)を作りに出たり、
   灘や伏見など西日本各地へ
   杜氏(とうじ)として酒造りに出かける。

   若い娘や子供たちも例外でなく、娘は女中奉公、
   子供も七、八歳になると男の子は近くの村へ牛飼い奉公に、
   女の子は子守奉公に出て、口減らしをしたという。
   小さい間は近くの村へ、少し大きくなると、
   鳥取や京阪神方面まで子守奉公に出たそうである。  」(p226)


こうして、本の最後の方では「子守歌」が採集されているのですが、
それを読んでいると、積雪の心情が降り積もっているかのようです。



ここは、よくばって最後に引用したいのが、
「 輪遊び 」の歌と、その遊びの場の説明文。



        ひらいたひらいた   ( 輪遊び )

     ひらいたひらいた 何の花がひらいた
     蓮華(れんげ)の花がひらいた
     ひらいたと思ったら いつのまにかすぼんだ

     すぼんだすぼんだ 何の花がすぼんだ
     蓮華の花がすぼんだ
     すぼんだと思ったら いつのまにかひらいた
                    ( 姫路市糸引区伊伝居 )


「 江戸末期の行智編『童謡集』にも類歌を見る古い歌である。
  子供たちが輪になって手をつなぎ、
  『 ひらいたひらいた ・・・ 』で輪を大きくして回り、
  『 いつのまにかすぼんだ 』では真ん中に寄って花の蕾をあらわす。
  二番目ではその反対になる。
  蓮華の花は蓮(はす)の花であるが、地方によって
  『 さくら花 』『 げんげの花 』『 牡丹の花 』
  などとうたうところもある。

 【類歌】
     れんげ れんげ。つゥぼんだ つゥぼんだ。
     やッとことッちや つぼんだ。
     ひらいた ひらいた。
     やッとことッちや ひらいた ひらいた (「童謡集」)

 【参考歌】
     れんげつもか、花つもか、
     今年のれんげは よう咲くれんげ  (神戸市垂水区) 」
                          ( p134 )

   
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あっちの町と

2024-11-04 | 詩歌
「日本わらべ歌全集9上」(柳原書店)は「富山のわらべ歌」。
短い歌から、はじめましょ。

      泣きべそこべそ    ( からかい歌 )

    泣きべそ こべそ
    泣いた顔 どこいった
    山の谷へ とんでった
    いま来てわろた ワーイ ワイ
              ( 富山市湊入船町 )p193~194

もっと短い歌も引用。

      大なみ小なみ   ( 縄とび )

     大なみ 小なみ
     どうどう ひびき
     かえして 波の音
              ( 富山市下熊野 )p128

こちらには、解説と類歌とがついておりました。

「 『大なみ小なみ』の縄とび歌は、
  北海道から九州鹿児島まで、各地で遊ばれている。

  はじめ『 大なみ小なみ 』ではゆるく左右にゆらし、
  『 どうどう 』から大きく回転させる。
  終わりは、縄をまたいで止まるものが多い。

 【類歌】  大なみ小なみで、ドードードー。
      一ぺん、二へん、三べん、四へん、五へん、
      六へん、七へん、八へん、九へん、十ぺん。
             ( 石川県 )        」p128

何だか、橋にまつわる歌が印象深いので引用。

      あっちの町と

    あっちの町と こっちの町と
    太鼓橋かけた
    赤いじょじょ履いて みんなで渡ろ
    あの子も渡れ この子も渡れ
    みんなで渡ろ 虹の橋ゃ高いぞ
    手手(てて)ひいて渡ろ 手手ひいて渡ろ
                  ( 新湊市八幡町 )p151

 注: 太鼓橋(たいこばし)は、橋の下を舟などが通れるように、
    橋の中央部を半円形に高くした橋。
    じょじょとは、草履の幼児語。

 【類歌】   渡ろ渡ろ、あの橋わたろ、
       虹の橋渡ろ、傘きて渡ろ、
       渡ろと思ったら、渡らんまに消えた。
              ( 京都府宇治市 )  」p151

橋ということで、思い浮かんだのは、
茶木滋の詩です。最後はそれを引用。

      このはし わたろ    茶木滋

    このはし わたろ
    このかわこえて
    しらない ところへ
    いこうか よそか。

    むこうの ほうは
    ひろっぱ のはら
    とんとこ おうちが
    ちらほら みえる

    どこからきたか
    むくいぬ こいぬ
    ともだちいるのか
    わたっていった。  

    ( 「茶木滋童謡詩集 めだかの学校」岩崎書店 p36 )
    ( 岩崎書店「美しい日本の詩歌」シリーズの中の一冊 ) 

     


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しまった。南無三宝。

2024-11-03 | 詩歌
「日本わらべ歌全集2下」(柳原書店)は「岩手のわらべ歌」でした。
岩手で思い浮ぶのは、花巻東高校・大谷翔平。花巻農学校・宮沢賢治。

とりあえず、パラパラとめくっていたら、四行の短い手まり歌。
その歌はわからなくても、その説明でもってやっと納得します。


           池の中から    ( 手まり歌 )


       池の中から 鮒コとっつかめえで
       味噌コつけつけ 焼いて焦がし
       棚(たんな)にあげだけゃ 猫にとられて
       でがくさんぼん 南無三宝(なむさんぼう)

                 ( 稗貫郡大迫町 )

「 海から遠い内陸部では、重要な動物性タンパク質は川魚にたよった。
  この地方で≪ べんけい ≫と呼ぶワラを束ねたものに、
  くし焼きした魚をたくさん刺して保存した。

  べんけいとは西磐井郡平泉町で討死した源義経の家臣、
  武蔵坊弁慶のこと。主義経自刃の時間かせぎのため、
  押し寄せた泰衝勢とすさまじい戦いを演じ、
  身に数十本の矢を射立てられながらも倒れず、
  立ち往生したと伝えられる。
  魚のくし焼きを刺したのが彼の立ち往生さながら
  であるというわけである。

  この歌は丁寧に味をつけて焼いた魚を
  ねこにとられた悔しさ、おかしさを歌にしている。
  子供の目で大人の失敗をからかっているような
  ユーモラスな響きがある。

  最後の『 南無三宝 』はもちろん仏教用語のそれではなく
  『 しまった 』というほどの感じで使われている。
  四音だけの陰旋法だが、明るいリズム感をもっている。  」
                         (p47~48)


自然の歌という箇所には、雪がありました。

          上見れば  ( 雪 )

      上見れば      虫コ
      中(なか)見れば  綿(わた)コ
      下見れば      雪コ
                   (二戸郡安代町田山)

「 ・・・雪の降る状況を、これほど単純化して
  幻想的・詩的にとらえた例は、他にないだろう。
  のんのんと降り続く雪を見上げたら、
  羽虫が舞うように見えた。
  地面近くを舞うところは綿のようだし、
  降り積んだところは雪そのものだ――と、・・・

  虫コ、綿コ、雪コと重ねた音のひびきも、
  方言としての接尾語というだけでなく、
  この歌のもつ情感を強調し、
  同時に子供らしく、かわいらしい効果をあげている。 」
                    ( p136~137 )
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おろうそく一丁献じられましょう

2024-11-02 | 詩歌
古本で、一度もページをめくられていない本に出合うことがあります。
安い古本を買ったはいいものの、私も一度もひらかなかったりします。

そんなことを、繰り返していたせいか。


まず古本への礼儀として、頁をめくる。
やっとそんな気持ちになっております。

さてっと、「日本わらべ歌全集10上」は「石川のわらべ歌」でした。
パラパラとひらくと、そこには歌と採譜とが並んで、みじかい解説。

祭事歌という箇所から引用。

       精霊さん    ( 盆 )

  ≪ 迎え火 ≫   精霊(しょうらい)さん 精霊さん
            この明かりに来てくさいませ

  ≪ 送り火 ≫   精霊さん 精霊さん
            この明かりに行ってくさいませ

                    ( 羽咋(はくい)郡志雄町 )

  「 志雄町(しおまち)荻ノ谷(おぎのやち)では、
    この迎え火、送り火が、毎年の子供の行事として、
    今も守られている。  」  (p174)
 

        一銭三文   ( 地蔵盆 )  

      一銭三文 おろうそく一丁 
      上がりました また一丁 ( チーン ) 

                 ( 江沼郡山中町 ) 

「  山中の地蔵盆は、子供たちの行事である。
   8月24日の夕刻から、子供たちは
   町内のお地蔵様の所へ集まり、
   前日こしらえたヤタイ(仮設の拝殿)の前で、
   町の人の地蔵参りを待ちうける。
   お賽銭が上げられるたびに みなでうたい、
   そのたびに鉦の音がチーンとはいる。  」(p174)


「 おろうそく一丁 」といえば、
「 祇園祭のお札売り 」が思い浮かびます。

      ご安産のお守りは
      これよりでます
      ご信心のおん方さまは
      うけてお帰りなされましょう
      おろうそく一ちょう
      献じられましょう


「 遠くから近くからきこえるお囃子に誘われて山鉾を順に回ります。
 鉾の真下に立ってふり仰ぐと、お囃子の人たちが別世界の人のように
 思えました。そのころ、鉾の上は女人禁制でしたから、
 うらやましくて一そうそのように思えたのでしょう。
 そんな中を、ひときわ高くきこえてくるのが、
 お札を売る子どもたちの合唱です。

 安産のお守りや腹帯は、
 神功皇后(じんぐうこうごう)を祭る占出山(うらでやま)で売られます。
 神功皇后は身重の体で新羅に出陣されましたが、ご安産であったという
 故事から、京女の信仰は昔も今もあつく・・・

 ちなみに、山鉾の巡行順序は、先頭をきる長刀鉾(なぎなたぼこ)
 などは別として、くじで決められますが、占出山の順番が早い年は、
 お産が軽いといって喜ばれます。・・・   」
    ( p136~137 高橋美智子著「あんなのかぼちゃ」京都新聞社 )

  祇園祭のお札売りは、まだありました。
  最後は、それも引用しておきます。

    厄除け 火除けの おちまきは これより出ます
    つねは出ません こんばんかぎり
    ご信心のおん方さまは
    うけてお帰りなされましょう
    おろうそく一ちょう献じられましょう   
        ( p236 「日本わらべ歌全集15・京都のわらべ歌」 )
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一生の病(やまい)じゃ

2024-11-01 | 詩歌
大村しげ著「こんこんさん遊びまひょ」(筑摩書房・1989年)の
副題は「京のあそびうた」とあります。

この本のあとがきは、こうはじまっておりました。

「 さあ、わたしといっしょにわらべ歌をお歌いになりませんか。
 あなた様の歌は、どんな文句でどんな節まわしでしたでしょうか。

 以前、わらべ歌は、いまのように採譜はされていませず、
 それは口から口へと伝わるものでした。

 それで歌う人によって少しずつ節も文句も違うところがありました。
 地域の別もありますし、家、家の違いもあります。・・・・ 」(p240)

採譜ということでは、
柳原書店の「日本わらべ歌全集」では、各歌に採譜が載っております。
「日本わらべ歌全集15」は「京都のわらべ歌」で、あとがきは、
高橋美智子とあります。そこから、

「 ・・わたしの生まれ育った三条高倉は京のほぼ真ん中で、
  わらべ歌は子供たちの暮らしの中にまだ生きていました。
  この本に紹介しました『旧京都市域』の歌も、
  ほとんどはわたしが毎日うたい遊んでいたものです。

  京に残るわらべ歌をすこしずつ五線譜に書くことをはじめて、
  もう20年になりますでしょうか。・・・  
   ・・・・ 昭和54年11月  高橋美智子  」( p340∼341 )


高橋美智子さんには、京都新聞社から出版された
「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」(1998年)がありました。
そこに、『 よいさっさ 』があります。

「 ・・・わたしは残念なことに、
  この『 一丁まわり 』は見たことがありません。
  けれど、子どものころこの遊びをなさった方たちは、
  みなさん一様になつかしく話されます。
  明治生まれであったわたしの母も、

 『  隣の町内の一丁まわりと出合うとなあ、
   あんたとこよりうちの方が人数が多い言うて
   けんかしたり、ほんまに面白かったえ 』

   と、よく思い出しておりました。 」 ( p141 )


高橋美智子さんは、『 三条高倉 』なのですが、
大村しげさんのお母さんは、どこの生まれだったのか。
大村しげ著「こんこんさん遊びまひょ」から、「よいさっさ」を引用。

「 日ごろおっとりしている母が、
  この話をするときだけは、別人のように生き生きとしていた。
  それは、お盆にこどもが遊ぶよいさっさのこと。

  ・・・わたしのころにはもううちの町内ではなかったけれど、
  母があんまりたのしそうに話すもんやから、
  わたしまでが遊んだような気になっていた。
  ちなみに母は寺町の二条で生まれ育った・・・

    よいさっさ よいさっさ
    これから八丁 十八丁
    八丁目のごくりは
    こぐりにくい こぐりで
    頭のてっぺん すりむいて
    一貫こうやく 二貫こうやく
    これで治らな
    一生の病いじゃーい

   『 病いじゃーい 』というときは、いちだんと大きい声を出す。
   わたしも母といっしょに歌うた。   」


はい。もう少し引用させてください。

「 男の子は、家の定紋をつけたちょうちんを持って、
  5人ぐらいずつ、一列横隊に並ぶ。そして5人の前に
  さお竹を渡して、それにちょうちんをひっかけ、
  両手でさお竹を持つ。

  ちょうちんには、もう灯がはいっていて、
  そんな列が何列もできると、
  女の子はそのうしろへ続く、女の子にはちょうちんはないし、
  そやから、さお竹も持たしてもらえない。
  こうして、おとながついて、町内中を元気に回るのである。

  母は、いつも、あのさお竹がいっぺん持ちたかった、
  と、いうていた。・・・・
  母は明治24年の生まれである。そのころは、
  お町内ごとでよいさっさがあったという。   」(p104∼106)



ちなみに『一生の病』には、『女遊び』の意味合いもあります。
それはそうと、高齢者の『 一生の病 』という視点で、
最後に、白川淑著「京のほそみち あるきまひょ うまいまひょ」から引用。
それは『 ヨーイサッサ ヨイサッサ 』の歌にまつわる文でした。

「 わたしの母は東山区粟田に生まれたが、
  長く吉田山(徒然草の吉田兼好の庵)の近くに住んでいた。
  母が口ずさんでいたわらべ唄を・・・・・ 」

  このあとに『 よいさっさ 』の歌詞が載っており、
  そして最後を、白川さんはこうしめくくるのでした。


「 わたしもお年頃になり、肩が凝るとか、腰が痛いとか、
  昔の母の口ぐせを真似るようになった。
  貼ってみたり、叩いてみたり、いろいろと試している。

   『  まあとしやし、
     なおらんでもしょうがないえ、
      一生の病とおもうとおき。
     こけんように気ぃおつけやぁ  』
  
   母の声が聞こえてくる。     」( p211 )
    



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