ヨーロッパの北に、スカンジナヴィヤ半島に囲まれている大きなバルト海があります。上の写真はこの東岸にあるリトアニアから見たバルト海です。この海岸に沿って、リトアニアの北がラトヴィアで、その北がエストニアです。よくバルト3国と呼ばれている国々です。小さな国々ですが、歴史、文化、宗教がそれぞれ違い、固有の言語を持っています。
一次大戦の後、1920年に3国の独立が認められ、国際連盟にも加入します。それから19年間はヨーロッパの国家として繁栄しました。しかし1939年ドイツがポーランドに突如侵入すると3国の運命は暗転します。
当時はソ連とドイツは相互不可侵条約を結んでいる友好国です。その独ソ間の秘密条約によりポーランドの西半分をドイツ領とするかわりソ連はバルト3国を占領しても良いとドイツが認めていたのです。
この秘密条約にしたがって1939年秋にソ連は3国と防衛・相互援助条約を結び、軍隊を進駐させます。1939年の終わりまでにエストニアとラトヴィアに在住していた65000人のドイツ人が一斉に本国へ移住してしまったのです。ソ連は占領と同時に議会制民主国家を共産党独裁国家のソ連へ隷属させるための政策を要求し1940年6月19日までに完全掌握を完了するのです。この時、エストニア、ラトヴィア両国の大統領と閣僚はソ連へ強制連行され、リトアニア大統領だけがかろうじてアメリカへ亡命できたのです。その後の7月に人民会議が作られソ連傘下のソヴィエト共和国のメンバーに加わる決議をしました。
これで悲劇が終わるどころか、その後に続く凄惨な運命の始まりでした。
1941年5月22日、ドイツはソ連との不可侵条約を破り、ソ連領内へ侵攻します。バルト3国もドイツ軍がすぐに占領する勢いです。ドイツ軍がバルト3国を占領する1週間前の1941年6月13日に、ソ連はバルト3国の幹部数万人を逮捕しロシア北部やシベリアへ強制抑留したのです。この強制抑留の対象は政府関係者、知識人、文化人、政治エリートや聖職者でした。エストニアから10000人、ラトヴィアから20000人、リトアニアから18000人と言われています。もともと人口が数百万人しかいない国々から、各界のリーダーを48000人も強制連行したのです。
この48000人の強制連行、シベリア流しの終った直後の1941年6月22日にドイツ軍はリトアニアへ、そして北へ進撃して、7月1日にはリーガ市を占領し、7月5日にはエストニアまでを占領してしまったのです。バルト3国の人々はドイツ軍を解放軍と歓迎したのですが、すぐに侵略軍であることに気が付きました。ドイツ軍はエストニアとラトヴィアで強制的な徴兵を行い、ソ連軍との戦いに現地徴兵の若者達を投入したのです。一方、リトアニアにでは3万人の義勇兵が自ら志願してソ連軍と戦ったのです。
1939年9月にドイツ軍によって占領されたポーランドから、多くのユダヤ人がソ連領内のラトビアへ逃げてきました。日本経由でアメリカへ亡命するためです。このアメリカ亡命を助けたのが、ラトビアのカウナス市にあった日本領事館領事代理の杉原千畝さん(1900-1986年)でした。日本経由でアメリカへ行くための通過ヴィザを与えたのです。こうして6000人のユダヤ人を助けたのです。
この杉原さんの人道的活躍の直後の1941年7月初旬にバルト3国はドイツ軍により完全占領され、ユダヤ人が殺されたのです。1941年の年末までにリトワニアでは18万人のユダヤ人が殺されたと言います。
こしてドイツの過酷な徴兵と占領政策が1944年の9月のソ連によるバルト三国の再占領まで3年余、続くのです。その事は続編に致します。(続)
この記事は、志摩園子さん著、「ものがたりバルト三国の歴史」中公文庫2004年初版を参考にしました。志摩園子さんへ感謝の意を表します。
下にリトワニアの世界遺産である古い街の風景写真を掲載します。出典は冒頭の写真とともにWikipediaの「リトアニア」の項目から引用しました。