後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

1960年チリ地震による津波の日本の被害を思い出しましょう!

2010年03月01日 | うんちく・小ネタ

1960年5月22日、チリー沖地震で生じた津波は翌日、日本を襲い、多くの被害が出ました。

今回の津波警報と住民の避難、鉄道路線の運休は大げさすぎたと非難があると思います。

しかし1960年5月の日本の被害を考えると決して大げさすぎたと非難すべきではありません。

津波の高さを予測する科学的方法に大きな誤差があるのが当然ですから避難や予防措置は大げさ過ぎるほうが良いのです。

下記はWikipediaの「チリ地震」の項目から抜粋しました。

日本では地震による津波の被害が大きかった。地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、142名が死亡した。

津波による被害が大きかった岩手県大船渡市では53名、宮城県志津川町(現・南三陸町)では41名、北海道浜中町霧多布では11名が死亡。この浜中町では8年前の1952年十勝沖地震でも津波被害を受けており、2度目の市街地壊滅。街の中心でもある霧多布村がこのチリ地震津波により土砂が流出し北海道本島より切り離され島と化す(現在は陸継きだった所に2つ橋が架けられており、北海道本島と行き来が出来る。1つは耐震橋、もう1つは予備橋で橋が津波で流出する恐れがあるためと避難経路を2路確保するため)。

また、同じく度重なる津波被害を受けた田老町(現・宮古市)では高さ10メートルの巨大防潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。この田老町の防災の取り組みを取り入れ浜中町防潮堤が建設される。北海道の防潮堤については後の北海道南西沖地震でも津波による人的被害の甚大な奥尻島などでも建設された。

地球の反対側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かった事が指摘され以後、気象庁は日本国外で発生した海洋型巨大地震に対してもたとえばハワイ太平洋津波警報センターと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになった。以下省略。


国家の消滅と再興を繰り返す東ヨーロッパ(1)ウクライナ共和国の第二次大戦中の悲劇

2010年03月01日 | うんちく・小ネタ

最近、このブログでは「悲劇の国、ポーランド」という9回の連載記事を掲載しました。私たちは明治維新以来、おもにイギリスやフランス、ドイツ、イタリーそしてアメリカとだけ付き合ってきました。それ以外の東ヨーロッパの諸国とは疎遠な関係にありました。イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどは明治維新以後、その国境が大きく変わることなく存続しています。日本も海に囲まれていて国土は安泰でした。従って国家というものはそのように長期間存在するものと思っていました。

しかしポーランドは消滅と再興を繰り返したのです。国土が海に守られた日本に生まれた私は吃驚しました。と同時に自分の国家観が少なからず変化しました。

そこでもう少し東ヨーロッパの諸国の歴史を調べてみることにしました。

最近、ウクライナ共和国がロシアから独立して、ヨーロッパ連合(EU)へ加入する運動をしています。アメリカがその動きを支援しています。ウクライナはロシアの一地方と理解していた私は又吃驚しました。ロシアと対立する完全な独立国になろうとしているのです。

中世のキエフ大公国を祖とするウクライナの国家としての消滅と再興は複雑です。その複雑さは、第二次大戦中のウクライナの悲劇を見ると理解出来ます。

以下にWikipediaの「ウクライナ」という項目から第二次大戦中の部分だけ転載します。

1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになった。ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎された面もあり、ウクライナ人の警察部隊が結成された。

独ソ戦では、ウクライナも激戦地となり、500万以上の死者を出した(ソ連の内務人民委員部(NKVD)はウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN) 19416月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツは、「帝国コミッサリアート」を設置しナチス親衛隊が直接統治を行うこととした。ウクライナ人は「劣等人種」とみなされ数百万の人々が、「東方労働者」としてドイツへ送られて強制労働に従事させられた。

またウクライナに住むユダヤ人はすべて絶滅の対象になった。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。なお、ユダヤ人虐殺に関しては現地の住民の協力があったことが知られている。人だけでなく、穀物や木材などの物的資源も略奪され、ウクライナは荒廃した。このドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗し、やがて194210月、ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成されるに至る。おもに西ウクライナにおいて、テロ活動などでドイツ軍と戦った。UPAが活動を活発化させればさせるほど、ドイツ軍もウクライナ人迫害の手を強めた。ーーー以下省略ーーー

あまりにも悲惨な歴史で付け加える言葉もありません。読者の心の平安の為にウクライナ共和国のブナ林の写真、ウクライナ正教会の教会の写真とキエフの2004年のオレンジ革命で集まった人々の写真をお送りします。出典はWikipediaの「ウクライナ」の項目の挿絵の写真です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

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霞ヶ浦へも津波が(?)

2010年03月01日 | 写真

昨日の午後、津波が利根川を16kmも遡って来たというテレビニュースを見ました。南米のポロロッカのように両岸の間に一段高くなった水面が、不気味に上流の方向へさかのぼっている映像をみました。霞ヶ浦は利根川につながっています。

そこで今日、ヨットの係留地の岸辺を注意深く見ました。下の写真のように一段低い岸壁の上に水面があがり、沖から流れて来た葦やゴミが一面に広がっていました。同じ高さの岸壁でも向側が広いところは水が上がっていません。狭くせばまった所だけ葦やゴミが上がっています。20cm位の高さになった津波と推定しましたが、間違っているかも知れません。

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折角来たにので船を出し港の外を一回りセイリングしてきました。(撮影:Mrs.藤山)。それにしても日本全国、津波の被害が小さくて良かったですね。

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