ナチ・ドイツは1935年にニュルンベルク法を作り、ドイツ国内在住のユダヤ人の市民権を剥奪し、迫害しはじめます。そして最終的には600万人のユダヤ人を絶滅収容所で殺戮したのです。ドイツと枢軸同盟を結んでいた日本はこの大量殺戮に責任があるのでしょうか?
昨年以来、この問題をすこしずつ調べてきました。今回は、日本の軍部はユダヤ人のことをどうしようとしていたのか?という問題を取り上げます。
奇想天外にも多数のユダヤ人を満州に受け入れ、彼等の自由な自治区を作ろうとしていたのです。この計画はユダヤ人に感謝され、戦後、アメリカ在住のハンガリー系ユダヤ人学者、トケイヤー博士によって研究され、「河豚計画」という本で詳細が発表されました。「河豚計画」とは関東軍も時々使っていた名前ですが、トケイヤー博士の本によって定着した呼び名であることにご留意下さい。
「河豚計画」の名は、1938年7月に行われた犬塚の演説に由来する。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った。
のちに、日本通として知られるアメリカ人ラビのマーヴィン・トケイヤーが同計画に関する研究書を執筆した際に、この喩えを借りて『河豚計画(The Fugu Plan)』と題したことから、「河豚計画」と通称する。ただし同書によれば、この語は当時も非公式に使われていたという。
下に、Wikipediaの「河豚計画」の項目にある説明文の抜粋を転載します。
注意して読んで頂きたい点を強調して置きます。
(1)陸軍の安江大佐や海軍の犬塚大佐はユダヤ社会を研究し、ユダヤ人の優秀性を知り、満州や上海へ多数のユダヤ人を受け入れることを計画しました。1938年の日本政府の五相会議で、その計画を国策として承認したのです。
(2)しかしドイツ軍が1939年にポーランドを占領すると、日独伊三国同盟の関係上、河豚計画は次第に勢いを失ったのです。始めは賛成派だった東條首相や松岡外務大臣が反対の立場をとったために実現はとん挫します。
(3)日本軍がドイツのユダヤ人殺戮へ協力したいという文章は一切有りません。
(4)1942年にドイツ親衛隊のマイジンガー大佐が日本へやって来て、上海まで行き、上海のユダヤ人を処分することを日本政府へ要求したのです。しかし日本の軍部はそれに従わなかったのです。
(5)日本の軍部はユダヤ人の優秀性を認め、アメリカ在住のユダヤ人を通して日米開戦の回避交渉を計画していたのです。
(6)日本の軍部はドイツのユダヤ人大量殺戮の意味が理解出来ず、そのようなドイツ軍の政策には一切協力をしていません。
日本人としてホッとする情報です。以下にWikipediaの河豚計画の説明文の抜粋をご紹介致します。
======Wikipediaの河豚計画の説明文の抜粋=======
河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチス党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。
日独防共協定に基づき設けられた駐日ドイツ大使館付警察武官として1941年5月に東京に赴任した「ワルシャワの虐殺者」と呼ばれる親衛隊大佐ヨーゼフ・マイジンガー (Josef Meisinger) は、1942年6月に、ハインリヒ・ヒムラーの命を帯びて上海に赴いた。彼は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。(1)黄浦江にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する 、(2)岩塩鉱で強制労働に従事させる、(3)長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする
要するに、彼はヒトラー及びヒムラーのユダヤ人大虐殺計画をアジアへ持ち込んだのである。この案は安江を経由して松岡洋右外相に伝えられたが、日本政府はこのような提案に従おうとしなかった。結局マイジンガーの計画は、いわゆる「上海ゲットー」を形成するのみに留まった。上海のユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを禁じられた。
以後終戦までの間、難民にとって状況は良くなるどころか悪化した。ユダヤ人指導者の中には、敵国人によって刑務所に送られた者もいる。また、多くの上海市民同様多くのユダヤ人は飢餓に陥っていた。市内の無線機破壊を目論むアメリカをはじめとする連合国軍の航空機によって、終戦のわずか数か月前に「ゲットー」は爆撃を受けたが、やがて解放された。
=====以下省略=========
東京は東西に長い土地です。西半分の昔の行政区は、西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡とよばれていました。武蔵野の畑作地帯が広がり、美しく手入れされた雑木林があちこちに有りました。現在は家が建てこんできましたが、それでも小さな雑木林が残っています。
私は何故か雑木林を見ると、心が振るえます。シーンとした静かな気分になり、体が透明になったように感じます。汚い考えが消えます。老年であることも忘れてしまいます。
今日は、二年まえの2月8日に掲載した、雑木林の写真をお送りします。昨日、カメラを持ってこれらの場所を見て来ましたが、2年前とまったく同じ風景でした。少し木々が大きくなっただけです。昨日は暗い曇り日で良い写真が撮れなかったので、2年前の写真をお送りすることにしました。
雑木林はクヌギ、コナラ、エゴの木、シデ、カシワなどの落葉樹にシイ、ヒノキ、スギ、マツなどの常緑樹も少し混じっています。
大きな写真をNo.1とし、下の小さな写真をNo.2とし順に右方向へ番号をつけるとNo.10まで番号がつきます。それぞれの撮影場所は;(1)府中市北部の浅間山がNo.2,3,5,7,10、(2)浅間山から甲州街道へでる欅並木がNo.6、(3)府中市営、郷土の森博物館敷地内がNo.1、8、9、(4)武蔵境浄水場近くの千川上水の写真がNo.4です。
お楽しみ頂ければ嬉しく思います。
(撮影場所;東京都調布市、都立神代植物公園、深大寺門より入ったアカシデ林などです。)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人