1614年10月7日に一隻の帆船が長崎の港を出て行った。日本を徳川家康によって追放された、キリシタン大名高山右近とキリシタン武将の内藤如安を含めた100人以上が寿司詰め状態になった船である。季節外れの無理な出港で逆風に悩まされ、マニラ到着が11月21日と言われている。狭い船内は不衛生になり病没するものも多かった。
しかし、右近と如安は無事マニラに上陸する。当時のルソン総督のファン・デ・シルバが儀仗兵を従え、岸壁で右近や如安を凱旋将軍のように迎えたのです。
右近と如安はゼズス会学院を宿舎にして、大歓迎され、宴会続きの生活が始まります。その上スペイン国王から俸禄を授けるという申し出を受けます。しかし、自分は家臣を日本に残してきた日本の武将としてスペイン王から俸禄を貰うことはできないと丁重に断ったのです。
その後で直ぐ、過酷な船旅で疲れた右近は病に斃れます。マニラ到着後、40日余りで死にます。1615年、慶長20年の正月8日でした。遺骸はゼズス会の管区長が葬られるサンタ・アンナ聖堂の主祭壇の傍らに葬られたのです。一方、如安はその後12年間マニラで生活をし天寿をまっとうします。
私が本当に書きたいことは、歴史学者、海老沢有道さんのことです。かれは明治43年生まれの歴史学者で、吉川弘文館から「高山右近」という本を出します。昭和33年12月初版で平成元年9月に新装版第一冊が出版されています。
彼は第二次大戦中に右近の遺跡を調べていました。葬られた聖アンナ聖堂は間もなく崩壊したため、遺骸はサン・ホセ学院へ移葬されたのです。
フィリッピンはその後アメリカの領有となり、ゼズス会学院はアメリカ軍の兵舎になったのです。右近や如安の遺族の消息は杳として消えてしまいます。
海老沢さんは右近の埋葬地を探そうとしますが、第二次大戦へ徴兵され、それどころではなくなります。しかし彼の友人がマニラへ行って、ゼズス会学院の跡地を探し出し、そこへ、「高山右近終焉之地」(埋葬地)という木柱を立てたのです。しかしアメリカ軍がマッカーサーとともにマニラを再占領すると、その木の柱も撤去されてしまうのです。
海老沢さんは右近や如安を尊敬し、誇りに思っていたのです。
海老沢さんのような日本人を私は尊敬します。(終り)