上下の写真は、和田フォトギャラリー、http://wadaphoto.jp/japan/zao3.htm から転載させて頂きました、「山形、蔵王、ドッコ沼の霧氷」です。山形駅前からバスで蔵王温泉(昔の高湯)へ上がり、そこから雪道を40分ほど登るとドッコ沼があります。沼の畔に、スキー客用のヒュッテがあり大学生の頃よく泊ったものです。ドッコ沼の上に登ればザンゲ坂の樹氷林地帯があり、夕日で赤く染まる時刻までスキーをしていました。スキーは下手でしたが、若くて体力があったので一日中ザンゲ坂で遊んでいました。そんな元気なころを思い出して気分が晴れました。霧氷の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終り)
どうも我々日本人は日本人のことしか視野になくて外国の人々を公平に評価することが不足しています。要するにこの地球上で起きる諸々の現象の見方が偏っているのです。
例えば杉原さんがユダヤ人を助けたと誇りに思っていますが、その時、何故杉原さんが日本の通過ビザが発給できたのでしょうか?それはオランダ領キュラソーへの入国ビザが有ったからです。それを発給したのがリトアニアのオランダ領事館、ヤン・ツバルテンディク名誉領事でした。杉原さんと同じくらい素晴らしいことを実行した人です。戦後になってイスラエル国家が杉原さんへ勲章を上げて感謝しましたが、ヤン・ツバルテンディク名誉領事へイスラエル国はどのような恩返しをしたのでしょうか?何方かご存知でしたなら、是非お教え下さい。
====「杉原千畝、運命の50日」(http://www.chiunesugihara100.com/visa-unmei.htm)の中にオランダ名誉領事、ヤン・ツバルテンディクとキャラソー・ビザについて以下のように書いてあります。
======ヤン・ツバルテンディク名誉領事の決断========
ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、スイスと同じように中立国と思われていたリトアニアに移住してたが、1940年7月15日親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となった。リトアニアがソ連邦下になれば、ユダヤ人たちは国外に出る自由は奪われてしまう。ヒトラーの戦略から、いずれは独ソの戦いが始まることも視野にいれると、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感していた。もはや一刻を争う状態だった。
すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。だが、日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要だった。ソ連併合に備え、領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国がない。この窮状を解決したのは、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクである。彼はカリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島なら、税関もないので入国できるということに目をつけ、キュラソー行きのビザの発給を決断した。キュラソー島は岩だらけの小島で、ユダヤ人の窮状を救うために考えられた方便であったが、もはやこれしか方法がない。「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日午前6時であった。
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数年前に紀伊半島一周の旅をしたことがあります。半島の突端の淋しい農村を通った時。その土地の人が大きな声で、「ここが坂本冬美さんの出身地ですよ!」と言います。途端に、冬美さんのあでやかな姿と美声を思い出し、その田園地方が明るく輝いているように見えたのです。
そこは和歌山県西牟婁郡上富田町でした。上富田町(かみとんだまち)の朝来小学校(あっそ しょうがっこう)を1979年に卒業し、上富田中学校を経て、県立熊野高校を1985年に卒業しています。 当時から歌の上手さは地元で有名でした。
その後上京して大活躍しています。昔の小学校、中学校や高校の同級生は冬美さんのことを大変自慢にしています。このように有名な芸能人の出身地では必ず明るい日差しが射します。その地方が活き活きとして来ます。色々な地方の文化が刺激を受けて活発になるります。ですから有名な冬美さんがが生まれ育った故郷の人々は彼女の歌が好きなのは当然ですが、もっと広い意味で彼女に感謝しています。そして誇りにしています。
お土産屋のおばさんが熱心に冬美さんを応援して下さいと頼んでいました。それ以来、テレビで彼女の姿が見えると一曲終るまで見続けることにしています。
故郷の人々が感謝しているのは芸能人だけではありません。
岐阜県加茂郡の八百津町には杉原千畝記念館があります。その地方のヒノキを使った豪華な記念館です。杉原さんは1940年のソ連占領地のリトアニアにあった日本の領事館で代理領事をしていました。そのリトアニアの隣のポーランドではドイツ軍がユダヤ人を強制収容し、絶滅収容所で殺し始めます。ソ連は当時はユダヤ人の自由移動を許可していたのです。当然、ポーランドのユダヤ人がリトアニアに殺到して、杉原さんの領事館へ押し寄せます。日本の通過ビザを貰う為です。シベリア鉄道で日本へ行き、そこからカリブ海のオランダ領の島へ亡命するのです。
東京の外務省はドイツに気を使い、ビザの発給を禁止する訓電を杉原さんへ送ります。杉原さんは一晩考えて、外務省を馘になる覚悟を決めて、翌日から6000人のユダヤ人へ日本の通過ぎるビザを発給し、その命を助けたのです。杉原さんは予想通り1947年に外務省を止めさせられます。その出身地が岐阜県加茂郡の八百津町なのです。地元の人々が杉原さんを誇りに思って八百津町が記念館を建てたのです。杉原千畝記念館を検索すると交通案内があります。杉原千畝記念基金の募集も町役場の産業振興課が受け付けています。
野球選手としての輝かしい実績は説明するまでも有りません。
私が感心しているのは彼の人柄です。インタビューの質問へは必ず誠実の答えています。どんなに疲れている時でも笑顔で丁寧に答えています。親類に石川県出身の人が居ますが、地元では彼の人柄の良さは昔から有名だったそうです。出身地の石川県能美町に、この写真のように、記念館が出来上ったときは郷土の人々が盛大に祝ったそうです。
石川県のスポーツ全般が活性化されるのが楽しみです。
さて、貴方の住んでいる地方で誇りにしている人は何方ですか?どのような人でしょうか?コメント欄へご投稿頂き、是非ご紹介下さい。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
石川県能美市山口町ロ137番地