後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

イリア・レーピンの絵画と亡き友人の思い出

2010年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

今は亡き大阪大学のM田さんがブリジストン美術館で開催していたレーピンの特別展示会へ誘ってくれました。ソ連が崩壊する数年前のことです。大阪へ新幹線で帰るのを3時間遅らせて一緒に行ってくれました。その時見た絵が「ヴォルガの船曳き」でした。衝撃的な感動を受けました。友情篤かったM田さんを偲んでその絵を掲載いたします。

そして現在は復活祭の四旬節なのでレーピンの復活祭の十字架行列祭りの絵画を掲載します。レーピンはウクライナ人で、正教会の信徒でした。

Ilia_efimovich_repin_281844193029__ Kurskaya_korennaya1


東ヨーロッパを知るにはドイツ騎士団とコサック騎兵を理解するのが重要

2010年03月03日 | うんちく・小ネタ

Marienburg_2004_panorama1_2

ハンガリーに住んでいる盛田常夫さんから、ハンガリーの救急車には「ドイツ騎士団」という団体が派遣する救急車もありますと聞きました。吃驚しました。エストニア、リトアニア、ラトビア、プロイセンの歴史書を読むとドイツ騎士団の活躍が書かれています。この騎士団はローマ法王公認のカトリック修道会です。それが剣の力で領土をとり自治政府を持っていました。あるいは有力な王様の傭兵にもなるのです。プロイセンは彼等の国でした。ドイツ騎士団は慈善団体として東ヨーロッパに生き残っているのです。この騎士団の正式の名称は、「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」といいます。貴婦人を守る騎士精神の延長にありました。

一方、ウクライナの歴史には「ウクライナ・コサック」の活躍が重要で、現在でもウクライナ民族の誇りになっています。しかしコサックはロシアにも居ましたし、各地に存在した騎兵を中心にした軍事組織であり領地も持って、自治政府もありました。コサックとは正規の社会からはみ出した離れ者という意味だそうです。生活に行きづまった農奴や、社会的に失脚した指導階級がコサック集団に入りました。現在のウクライナの軍事組織や軍隊の精神はコサックの伝統を受け継いでいると言われています。それがロシアに対抗する精神的なよりどころになっています。現在流通しているウクライナ紙幣にはコサックの肖像画が印刷してあるそうです。当時のこの地方は東方正教会の信仰の篤いところでしたのでカトリックとは対立的な信仰形態をもっていました。(現在のウクライナ正教会はロシア正教会から独立した別の組織です)。

日本にはこのような宗教的な背景をもつ武力集団が封建領主に対抗して独立的に存在し領地を持っていたり、あるいは条件次第では封建領主の傭兵になったりする歴史が無いのです。そのために日本人にとっては分かりにくい存在でした。しかし現在のバチカン国の防衛はスイスからの傭兵と決まっているのを見るとご理解が頂けると思います。

このコサック騎兵隊とドイツ騎士団は東ヨーロッパの歴史に生き続けています。戦乱や国家の興亡の際にはこれらの騎兵隊の伝説が色々な形で影をさしているのではないかと、私個人は想像しています。

複雑な歴史で整理が出来ていません。とりあえずレーピンの「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサックたち」という絵画(下の写真)と、ドイツ騎士団のバルト海沿岸の重要なお城(上の写真)、マルボルグ城だけをご紹介いたします。出典はWikipediaの「ウクライナ・コサック」と「ドイツ騎士団」の項目の挿絵です。

Repin_cossacks1


春を呼ぶ季節の風物詩、東京、深大寺のだるま市

2010年03月03日 | 写真

季節の風物詩があります。深大寺のだるま市です。3月3日と明日の4日にあります。交通案内などは「東京、深大寺だるま市」で検索すると御座います。午前中にブラリと写真を撮って来ました。江戸時代の日本人の雰囲気の人々が群れて歩いています。大声を上げる人もなく静かに歩いています。だるま信仰の人々のようです。深大寺の元三大師の祭日に、門前で開かれています。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

028 009 022 021 029


国家の消滅と再興を繰り返す東ヨーロッパ(3)独ソ戦を理解すると現在のウクライナ国家の重要性が分かる

2010年03月03日 | うんちく・小ネタ

Volgograd_de_insulo1

1941年5月22日、ドイツ軍が突如、ソ連へ侵攻し、独ソ戦争が始まります。数ヵ月後にはモスクワの手前数十キロまで攻め込み、西部ロシアを占領してしまったのです。しかしレニングラードやスターリングラードでは過酷な攻防戦が続行されドイツ軍が消耗していきます。そして冬将軍がドイツ軍を襲い、独ソ戦の風向きが変わるのです。1942年以後のドイツ軍はじわじわと後退を重ね、遂に1944年5月にはソ連軍によってベルリンが陥落し、ドイツが降伏します。ソ連はさらにベルリンの西側まで占領し、広大な東ドイツを手中におさめます。英米仏軍の進撃が遅すぎたので戦後ソ連がドイツ東半分を領有することになったのです。こういう教科書的な知識は皆が知っています。

しかし独ソ戦争はこんな単純な戦争では無かったのです。東ヨーロッパの国々が戦争に参加し、多くの犠牲者を出したのです。ルーマニア、フィンランド、ハンガリー、スロバキア、クロアチア、ブルガリア、スペイン義勇軍などが始めはドイツ軍に加わり、ドイツ軍が劣勢になるとソ連側に加わったのです。

また一方、降伏したロシアの将官と捕虜になった多数のロシア兵がドイツ軍に加わり共産主義の祖国の軍隊に銃口を向けたのです。

日本人が独ソ戦争を単純に教科書的に理解していたのでは現在の東ヨーロッパやウクライナやベラルーシの重要性が理解できません。

例えば、昨日の新聞にウクライナ共和国のヤヌコビッチ大統領がベルギーのブリュッセルを訪問して欧州連合(EU)の本部に行き、ファンロンパイEU大統領と会ったという記事がでていました。そしてEU加盟の前に自由貿易協定の締結を目指すことに合意しました。しかし、EU本部と同じ市内にある北大西洋軍事同盟(NATO)本部は訪問しませんでした。この事はウクライナは西ヨーロッパとは貿易を促進しながらEUのメンバーになりますが、軍事同盟には加わりませんという意思表示です。

エストニア、リトアニア、ラトビア、ポーランドなどが西ヨーロッパ諸国との軍事同盟の加わってしまったのです。その上で、ウクライナとベラルーシが西側軍事同盟に加わればロシアを刺激し過ぎて戦争の危機が迫ってきます。ウクライナは天然資源にも恵まれた工業国です。それがロシアと西ヨーロッパの緩衝的な役割をしてくれる限り平和が定着すると考えられています。日本の産業界がウクライナにもっと多くの工場を作り、交流を深めると良いと思っています。

ポーランドはカトリック国でウクライナは正教というキリスト教の国です。ウクライナ正教会はロシア正教会とも交流があります。ローマ法王が東方の諸正教会と友好関係を築くことも東ヨーロッパの平和の為になります。

人間は感情の動物です。平和を維持するには民族、文化、宗教の違いをお互いに許し合うように細心の注意が必要と信じています。

平和に流れているボルガ河と旧スターリングラード(ボルゴグラード)の風景写真をこの記事の上と下に示します。(出典はWikipediaの「スターリングラード攻防戦」です)

Murman_kurgan1


悲しく、輝いていた青春の日々

2010年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

旧制仙台一中、その面影深い新制高校時代。忘れ得ない3人の友人の話です。昭和29年3月の卒業以来、茫々56年、この3人の消息は分かりません。

野田君は何時も悲しそうな顔をした小柄な少年でした。色が白い美しい少年でした。あまり話もしない間柄でしたがお互いに気持が通っていたという安堵感があります。ある日、家に寄らないかと誘ってくれます。家は東七番丁の東北線の踏切に近い、暗い平屋建ての粗末な家です。ガランとして誰も居ません。部屋に入ると野田君は黒いビロードの布でつつまれた細長い箱を持ち出してきました。開けると銀色のフルートが輝いていました。複雑な構造の西洋の横笛です。彼は何気なくひょいと取り上げ、吹き出します。体がしびれるような美しい音色が暗い粗末な家を震えさせます。アッと吃驚して聴いてしまいます。曲が終わって、野田君が、これはオルガン曲のトッカータとフーガという曲をフルートの為に編曲したのだと教えてくれました。その時の何故か悲しそうな、しかし上気した顔を56年たった今も忘れられません。彼の消息は卒業したあと消えます。不誠実な私が調べなかったのです。彼には親がいるのか?とか大学は何処へ進学するのか?とは聞きませんでした。聞いてはいけない感じがしたからです。彼の悲しそうな顔を見ると、答えは私には想像がつきます。聞くのがはばかれたのです。

皆川君は何時も詩集を手に持っています。放課後、高校の土手に腰かけながら詩を読んでくれました。しかし意味がさっぱり分かりません。その筈です。その頃流行っていたフランスの抽象詩を翻訳した詩集でした。何度か聞いていると、突然、皆川君が。「君にこの本を上げるよ」と言って一冊のフランスの抽象詩集の本をくれました。大きな本と小さな本の中間ぐらいの大きさの不思議な装丁の本でした。丁寧な装丁です。詩の割り付けが美しい本です。言葉の意味は、日本語ですから理解できます。でも詩全体の意味が分かりません。皆川君が、意味は理解しなくても良いと言います。何か藝術的な感じを楽しめれば良いのですと、言います。

髪のちじれた、少しフランス人のような顔をした長身の少年でした。卒業以来会ったことがありません。一冊の装丁の良いフランスの抽象詩集を残して彼は私の眼前から消えてしまいました。

三人目の我孫子君は満州から引き揚げて来た少年でした。歯切れの良い東京言葉を喋っていました。男っ気溢れています。その上、テノールの美声でイタリア歌謡を歌い上げます。同じ演劇部にいましたので何かの舞台が終って慰労会をする時には必ず彼のイタリア歌謡が出ました。陽気でよく喋る男でしたが、時々フッと暗い表情になります。満州から引き揚げる時見た悲惨な場面を思い出すらしいと感じていました。誰もその事を聞きません。我孫子君も引き揚げのときのことは一切喋りません。

同じ演劇部だったので大学生になっても仲間づきあいをしていました。私がオハイオ州の大学へ留学するとき、演劇部の仲間達と一緒に羽田空港まで見送りにきてくれました。それが彼との最後の別れとなりました。その後、電気器具店を開いていた彼が、若くして病死したという風の便りを聞きます。

我孫子君が何時も陽気なイタリア歌謡を歌っていたのは、引き揚げの時に経験した悲しみを忘れようとしていたに違いありません。その我孫子君も居なくなってしまいました。

少年の頃は日本中が貧しく、人々は悲しげでした。でも毎日が輝いていたのです。あれから56年ほど経ちます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。藤山杜人