老境とは長い人生のなかの素晴らしい季節のような感じがします。仕事のことで他人を出しぬいたり、出しぬかれたりする必要が一切ありません。時間が悠々と流れ、何時も明るい日差しが射しこんでいるような心地です。その至福の時間を長続きさせるための秘訣があります。それは自然の些細な変化に、わざと大げさに感動して見せるのです。例えば一番上の写真のように水仙が庭に咲きます。昨年の12月15日に伊豆半島の突端の爪木崎で買って来た球根を庭の畑に植え、大切に育てた結果咲いたものです。日本原産の野水仙です。爪木崎から200Kmも旅をして、この武蔵野で花を咲かせたのです。何故か感動します。
その下の白梅は1964年にこの家を新築した時植えた梅の木です。茫々46年にもなりますが、毎年季節になると純白の花を咲かせます。
もう一本紅梅もあったのですが、その木は1998年に座敷を建て増しするとき邪魔なので切りました。その代わり湯島天神の市から紅梅の苗木を買ってきました。今年は紅梅も良く咲きました。私共の2人の子供の為に植えた2本の木です。子供も48歳と46歳になる訳です。何故か大きな感動を覚えます。
下の左の写真は娘が結婚する前に婚約者の男性がくれた白い沈丁花です。23年前の木です。月日のたつのは早いものですね。何故か感動します。
下の右の写真は2年前に潮来のあやめ祭りで買って来たあやめが植えてある水盤です。今年も6月に大きなあやめの花が咲く筈です。水盤の左手前にある汚い物体は庭に棲んでいる土蛙の卵です。土蛙とは私の命名です。小さめのガマカエルですが、池も無い庭の土にもぐって生活しています。毎年、啓蟄のころに土から這いだして、数日、クウ、クウと可愛い声でオスがメスを呼び、メスが産卵します。産卵したら水を入れた水槽で飼い、オタマジャクシにします。そのうち手足が出て、バケツから庭へ飛び出して行きます。この土地に1964年に引っ越してきて以来毎年続いています。勿論、武蔵野の台地で縄文時代から続いて来たのでしょう。感動します。大げさに感動していると、自然に毎日が充実感で包まれます。すると幸福な日々になります。自然の移り変わりを注意深く観察し、喜びを味わう。これが老境を楽しく、明るくする私の秘訣です。皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。
いきなり私ごとで恐縮ですが、私はカトリック小金井教会に行っている信者です。今日の山本量太郎神父様の説教は代父と洗礼名の聖人の役目の説明でした。とても分かり易いお話だったので皆様へもご紹介したいと思います。カトリックには2つの教会があります。地上のこのカトリック小金井教会と天上の教会です。現世の教会で洗礼を受けるとき、その教会の案内をしてくれたり、洗礼後の世話をしてくれるのが代父です。私は1971年にカトリック立川教会で洗礼を受けましたが、その時の代父は、ある大学の先生で、山本大二郎先生という方でした。お世話になりっぱなしでした。その山本大二郎先生のご長男は神父になりました。亡くなって暫くしてから小金井教会へ主任司祭として来て下さったのです。息子の山本神父様にもお世話になっています。人の縁の不思議さを考えています。時々、フッと、これはイエス様が私を愛している証拠のように感じて居ます。
カトリックでは、この現世の教会の他に「天上の教会」があります。死んだら、そちらへ引越しします。その教会は非常に大きな教会で地球上の人々が死後、皆一緒に入って居る所です。その教会の案内をしてくれたり、世話を焼いてくれるのが洗礼名の聖人様です。私の洗礼名はシルベスターさんです。昔、森の中に住んでいた聖人です。立川教会で洗礼を受ける時、塚本金明神父さんが私に与えてくれた聖人です。今日の山本神父様の説教で、シルベスターさんが「死後の私」の後見人として、天上の教会が私にとって居心地良いように世話を焼いて下さるのです。安心なことです。
天上の教会には左の写真のヨハネ・パウロ2世も居らっしゃいます。この写真は1981年に来日された折に、長崎で修道者へ按手して祝福を与えている光景です。
死んだら皆一緒に仲良く、平安に暮らすのです。仏教の倶会一処(くえいっしょ)と同じような考え方です。信者であっても無くても人々が死ぬと皆が平和に暮らすーそれが倶会一処です。美しい考え方と思います。
この文章を読んで下さった方々とも、いずれご一緒にお会い出来ることをお祈り致します。(終り)
老境の人々を3種類に分類して見ましょう。孤独でない人。幸せな孤独を楽しむ人。不幸な孤独に苦しむ人。
同じ家に嫁や孫と一緒に住んでいる老境の人は孤独でない人です。
幸せな孤独を楽しんでいる人は山林の中の一軒家に独りで悠々と独り暮らしを楽しんでいる人です。私の山林の中の小屋の周辺に5人居ます。何時行っても上機嫌で楽しそうです。
不幸な孤独の例を上げると、須賀敦子さんのように自分が為すべきことを見つけられず一生迷って苦しむ人です。彼女の描いた「コルシオ書店の仲間達」に登場する人々は皆孤独感ただよう人々です。自分が孤独なのでそういう人々に心が惹かれます。
彼女はイタリア人と結婚し、間もなく夫が病死して日本へ帰って来ます。帰って来ても何をするのか迷います。そして60歳になってから突然魅力的な文章で本を書き出しました。文章が美しく、つい読んでしまいますが、読後に何故か淋しくなります。ああ、この人は不幸な孤独を生きて、死んで行ったと感じます。
彼女の老境の日々では、何時も若い男の弟子達を引き連れて遊んでいたそうです。高価な外車を乗り回していたそうです。彼女の作品から受ける孤独感とは反対な生活ぶりだったそうです。そんな噂を聞くとますます彼女の不幸な孤独感の深さがしみじみ分かります。才能に恵まれながらその才能をどの様に使って良いか一生迷う人がいます。人並み以上の才能があるために幸せな人間関係が作れないのかも知れません。
孤独といえば、カトリックの神父さん、シスター達は皆な一生独身です。しかし孤独ではありません。自分の周りに居る信者が家族です。神やイエス様の愛に包まれています。孤独とは無縁な人々です。須賀敦子さんはミッションスクールを卒業しカトリックの洗礼を受けていたようです。それでも孤独だったのは何故でしょう?
それはそれとして老境にある多くの人々はあまり宗教と縁がありません。しかし幸せな孤独を楽しんでいる人々が多いと思います。家族が居ても、夫婦で生活していても幸せな孤独の楽しさを見つけて、華やかな老境を過ごしています。このことはもう少し説明が必要ですので、続編で書きます。
さて貴方は幸せな孤独ですか?家族運が良い人ですか?
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人