多くの日本人は福島原発は日本の会社が作ったと思っています。しかし欧米が開発した原子力発電技術を輸入したものなのです。建設は確かに東芝や日立が担当しましたが、設計と運転技術はアメリカのジェネラル・エレクトリック社から輸入したものです。その輸入技術を何故上手に使い切れなったかという深い問題を考えて見たいと思います。
その為には、日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅した旗艦の三笠の場合と、60年以上の長年月にわたって日本の船員養成に貢献した帆船・日本丸の事情を振りかえって見ましょう。まず横須賀に保存、公開されている戦艦、三笠の写真をご覧下さい。2009年に小生が撮影しました。
この戦艦は1900年に英国のビッカース造船所で作られ、明治政府が輸入しました。この15140トン船は戦艦なので戦闘目的に関係しない装備は一切ありません。士官室は後部、水兵室は前甲板の下と画然と分離され規律保持が徹底されています。砲弾庫は船底の一番安全なところにあり、大量の食料は長期作戦のために冷凍庫に保存されています。撃沈した敵の戦艦の乗員を救助し、捕虜にする予定で「捕虜収容室」も装備してある。エンジンは石炭を燃やす蒸気機関で15000馬力、18ノットでした。
この船の輸入と共に操船方法と戦闘技術は英国海軍から忠実に輸入されたのです。ですから日本の海軍はイギリスの海軍と全く同じ戦闘方式を取るようになりました。東郷元帥が勝利したのはその輸入技術を自分で改良して日本海海戦に臨んだ為です。この日本と英国との信頼関係の故に、その後の日本の商船の船員養成もイギリス方式に従って行われて来たのです。英国から帆船、日本丸を1930年に輸入し、戦後までの長い期間活用して来たのです。その日本丸は現在、横濱のドックに係留され一般公開されています。毎年、春と秋に全ての帆を上げる訓練を現在でも実施しています。下に2009年春に帆を上げた時、小生が撮影した写真を示します。
この帆船はイギリスのラメージ&ファーガソン社が作りました。それを分解して日本へ運び、組み立てた2279トンの船です。現在でも船内の鋼鉄製の梁にはラメージ&ファーガソン社の名前が刻印されています。補助機関のエンジンだけは日本の池貝鉄工所製の600馬力2基が使われています。帆船なので29枚の帆の上下は全て人力だけで行います。太平洋を何度も横断しながら商船に乗る士官の訓練をイギリス方式で行って来たのです。上の2つの輸入技術は日本人が根気良く訓練を重ねその長所を使い切ることに成功した最善の実例です。
さてそれに比較してアメリカから輸入した原子力発電の技術の場合は何故失敗したのでしょうか?
日本へ輸入された原発には大きく分けて三つの方式があります。加圧水軽水炉、沸騰水型軽水炉と高速増殖炉です。下には沸騰水型軽水炉の見取り図を示します。
ここで原子炉の開発の歴史を少しだけ振りかえって見ましょう。
その最初は1942年シカゴ大学のエンリコ・フェルミ博士がつくった核分裂連鎖反応施設でした。そして1951年には初めて1kw発電用の原子炉、EBR-Iが出来たのです。
西側で初めて商用発電が始まったのは1956年で、イギリスのコールダーホール原発は6万kwの出力でした。この原発は2007年まで稼働し、老朽化の故に爆破、処理されました。そのすぐ後にアメリカやフランスで商用原子力発電が始まり普及し始めたのです。原発の設計、製作では特にGE社やウエスチングハウス社が有名になり、日本もこの両者から原発の技術を輸入して来たのです。
このように欧米からの輸入技術という事では戦艦、三笠も帆船、日本丸も原理力発電も全く同じなのです。
さてこれらの3つの輸入技術のうち、三笠と日本丸は日本の発展に大きな貢献をしましたが、原発だけは何故大事故を起こし多くの日本人を不幸にしたのでしょうか?その原因の考察は次回の記事で行います。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人