後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大津波の後で宗教の話はすべきでない!・・・しかし祈りたい!

2011年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

私には分かります。東北地方には、熱心にお釈迦さまを崇拝し、毎日お経をあげて仏教へ帰依していた人々が沢山居た事を。そしてイエス様の愛を信じ、朝・昼・晩と日常のお祈りをしていた人々が沢山居た事を。しかしそのような人々も津波にさらわれてしまったと想像出来ます。ですから私は3月11日の大津波以来、宗教の事をこのブログで書くことを控えていました。なぜか書くことが不謹慎なことのように思えたのです。

しかし今日は4月21日です。大災害の日から40日が経過しました。その時間の流れが少しずつ私の心を変えて行きます。そうして信じられるようになって来ました。お釈迦様が大津波で亡くなった全ての人々へ慈悲を心で、温かく浄土へお迎えしてくれた事を。そしてイエス様が全ての亡くなった人々を愛し、天国へ迎えてくれた事を。そう私は信じられるようになりました。

信じられるようになったので、私は自由に宗教の話が書けるようになりました。

書きたい事があるのです。今年の復活祭は今度の日曜日の4月24日です。その復活の意味を書きたいのです。イエス様はユダヤ教徒でしたが、愛を中心にした新しい教えを説いたのです。後にその教えは記録され、新約聖書になり「キリスト教」という新しい宗教になりました。

そのイエス様はユダヤ教の保守派である律法学者やパリサイ派の人々の嫉妬によって、当時ユダヤを占領していたローマ帝国の総督ピラトによって死刑の判決を受けました。ピラトは死刑の判決などしたくなかったのです。しかしパリサイ派の群衆が死刑にしろと叫ぶので仕方なく死刑にしたのです。ピラトにとってはそんな事はどうでも良かったのです。ただ自分の占領地で騒ぎが起きて、自分の出世の邪魔になるのを恐れただけだったのです。

十字架の上で絶命し、洞穴に葬られたイエス様は3日目に生き返って墓を出て行くのです。そして12人の弟子たちの前に現れて話をします。それがイエス様の復活です。そして12人の弟子たちと話をした後で天に登って神の右の座に着きます。

そしてこの世の全ての終末の日にイエス様はもう一度地上に降り立って、全ての死者を生き返えさせるのです。全ての死者がもう一度生き返るのです。全ての家族がもう一度生き返って地上で会えるのです。生身の肉体へ復活するのです。イエス様は深く全ての人々を愛し続けているが故に全ての人を復活させるのです。神の愛がそれを保障しているのです。これがキリスト教の信仰です。私はイエス様の復活を信じます。終末の日にイエス様の再臨があって全ての死者が生き返る事を信じています。

ですから今回の大津波で死んだ全ての人々がイエス様の再臨と共に生き返える事を信じています。家族同士の天国での再会を信じます。終末の日の肉体の活き返りを信じています。

それを信じるのがキリスト教なのです。如何でしょうか?

大津波で亡くなった全ての人々の鎮魂の為に神様とイエス様へ強く、強く、お祈りいたします。

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今日の散歩・・・上野公園と東京藝大の「香り」展へ

2011年04月21日 | 写真

天気は曇りですが、明日から数日雨になるようなので思い切って上野公園を散歩しながら、東京藝術大学の美術館での「香り」展へ行って来ました。

精養軒で不忍池を見降ろしながら昼食後、上野公園を東京藝大まで歩きました。

この「香り」展は芸大主催で、4月7日から5月29日まで開催しています。伽羅や沈香の香木の大きな実物の展示から、見事な細工、彩色の香炉、香合、香道の品、丁寧な仕上げの蒔絵の道具入れ、小さい棚、などなどが展示されています。そして香道に関連する文書や、香り高い花の絵画、日本画の美人図、木像などが2つの大きな展示室に公開してあります。

奈良、平安時代から江戸時代、そして現在へ続く雅やかな趣味の世界へ入り込んだような気分になります。優美で楽しい雰囲気です。見物人に和服を着たご婦人もいて、会場全体が静かでいながら華やいでいました。

その後、私の若い友人が藝大の先生をしているのを思い出し、電話をしました。丁度暇だと言って、大学の中をあちこち案内してくれました。藝大の内部の様子は別の記事でご紹介いたします。

下の写真は上から順に、精養軒から見た不忍池、上野公園の八重桜、藝大美術館前の「香り」展の看板、国際子ども図書館の建物などです。

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欧米から輸入した技術の使い方・・・(2)原発技術の輸入の間違い

2011年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、日本は数多くの欧米技術を導入してきました。前回ご紹介した、戦艦三笠や帆船、日本丸だけに限りません。蒸気機関車はもとより、あらゆる近代工業は欧米から輸入して使って来たのです。その近代工業の礎をなすものが溶鉱炉による近代製鉄技術です。その写真を下に示します。

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工業技術というもので一番重要な事は現場の人間の長年の経験の積み重ねです。その経験が工業技術の安全性と品質管理を保証するのです。一般的に安全度の高い技術を完成度が高いと評価します。

帆船や蒸気機関は欧米で長い年月の使用経験が積み重なった完成度の高い技術だったのです。完成度が高いので安全な技術なのです。

三笠も日本丸も溶鉱炉も長い年月、安全に使用され続けたのです。

それに比べて原子力発電はイギリスで1956年に実用化されてから早急に日本が輸入した技術です。日本で実用化されたのは1970年前後ですから、たった14年位しか経過していません。完成度の低い、安全でない技術だったのです。日本の政治家や経営者は技術の完成度を深く考えないで、高度成長に間に合うように急いで輸入したのです。急ぎ過ぎてその危険性を見落としていたのです。これが第一の大きな間違いでした。

第二の間違いは原発工場で働く人間の訓練をおろそかにして来た事です。

前にご紹介した戦艦、三笠でも帆船、日本丸でも、そして上に示した溶鉱炉でも現場で働く人間の訓練方法も一緒に導入されたのです。日本人が欧米に行って、滞在して技術の使用法の訓練を受け、更に欧米の技術者が日本に来て、滞在して使用方法を徹底的に訓練したのです。訓練を受けた人は専門の職人として一生その技術を守ったのです。

原子力発電の技術輸入の場合は現場の職人を育てませんでした。放射能の故に職工が定住せず、いつも季節労働者を主にした素人だけで操業して来たのです。これでは原発の安全が保障されません。

第三の間違いが致命的な悲劇の直接の原因になりました。それは原発を輸入する時、日本の立地条件に合わせて改良をしなかった事です。日本は世界でも有数な地震国です。津波が何回も襲って来た歴史を持っています。その事実に合わせて原発施設を作る時は海岸にしても標高の高い所に作り、耐震構造にし、さらに長期の停電にも対処できる自動電源切り替え装置を設置すべきだったのです。

明治以来、どのような輸入技術でも日本人は改良に、改良を加え、安全対策を徹底的にしてきたのです。民間会社ではそれが常識です。所が電力会社は半官半民の会社なので安全が徹底的に追求されなかったのです。

以上の3つの間違いが今回の福島原発の大事故の直接的な原因なのです。

こんな危険な技術導入を急いだ日本人の倫理性については明日の記事で書く予定です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人