後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

義兄が特攻隊員だった方からのご投稿をご紹介します

2012年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、このブログに掲載した、麗しき日本へおくる賛歌(1)開聞岳と桜島という題目の記事へyuyu さんという方から下記のコメントをご投稿頂きました。

戦後生まれの全ての日本人に読んで頂けるようにと、祈りつつ、下にご紹介いたします。

今朝の記事では、知覧や鹿屋を飛び立った特攻隊が桜島を越えて、開聞岳へ日本へ最後の別れを告げて、沖縄へ飛んで行ったということを書きました。

なお、yuyu さんは陶芸の芸術家であり、また日本藝術協会の代表・理事長でいらっしゃいます。現在は愛知県にお住まいですが、福島県の郡山市のご出身です。雅号は尾張裕峯とおっしゃいます。詳しくは、「尾張裕峯」を検索すると資料が出ています。また、このブログの2009年11月2日掲載の記事、ネット上の友人の陶芸家、尾張裕峯さんをご紹介致します。 にもご紹介してあります。

=====yuyu さんのコメントの内容=======
私の脳裏に何時も消えないのは神宮球場での学徒出陣式です。学業半ばにして参戦した彼らは国のために命を潔く投げ出したのです。

予科練の特攻隊然りです。陸軍にも、また、海軍に人間魚雷艇もありました。

家内の兄が予科練でした。出撃して機械の故障で不時着。同乗の仲間が死に、彼一人生き残ったのです。

終戦後何年もその責任が消えず、「自分だけ生き残った」という恥が彼を支配していました。

酒に酔うと常に「俺は死に損ないだ」を何時までも言うのでした。父親が経営する会社の跡も継がず、半端な生涯を送りました。

彼は戦争の犠牲者だと何時も思う私でした。長男でも妻子を置いて家を出てしまいました。

両親の長い病気も帰らず、義務を果たさなかったから相続も拒否しました。彼を幸せから遠ざけたのは戦争です。

純粋な人間ほど傷つくのも大きいのだと思いました。家内と結婚後に彼の土木の経験を生かして父の仕事を再興しようともしましたが、彼の傷ついた心は修復できませんでした。

当時の若者が今日の日本を作ったと書かれた後藤様の文に同感なのです。その大きな犠牲のお陰を受けて私たちが存在すると思っていました。

彼の妻子は家内と私が面倒を見ました。それが私たちの務めだとも思っていました。

現代人たちがそれを知る人がどれほどいるのでしょうか。日の丸を、君が代を拒んだ日教組の教師たちが植えつけた自由気ままが悪い影響を残しているのだと思います。

不況が長引いても、戦時を思うと比較にならない豊かさです。それでも不満だけが増幅しつつある日本ではないでしょうか。

========(終り)=============


花屋さんの花々の写真を送りいたします

2012年03月09日 | 写真

昨日、三鷹市のJ マートの中にある花屋さんを見て廻りました。大きなスペースの売り場に、非常に多種多様の花々が並んでいます。切花の種類も多く、また鉢植えの豪華な花々も沢山並んでいます。

お客さんは好きな切花を数本、十数本と選んで中央の台の上で、お店の人に綺麗な花束に纏めてもらっていましした。比較的安価なので気軽に選べそうです。私も2種類の切花を買いました。

ついでに写真も撮らせて貰いました。

下に鉢植えの豪華な花々の写真をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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麗しき日本へおくる賛歌(1)開聞岳と桜島

2012年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

70歳で仕事を止めてから6年間、日本の各地への旅をかさねてきました。

日本がまだ貧しかった時代に働く人々は、出張以外の観光旅行は難しい時代でした。お金と時間の余裕が無かったのです。私も例外ではなかったのです。

その反動のように老後は国内の観光旅行にあけくれました。6年間いろいろな地方を旅して、沢山の発見をしました。地方、地方には美しい景観とともに心温かい人々が悠々と暮らしているのです。そしてこの麗しい日本の各地に固有の文化があることを発見したのです。

今日から何回かにわたって日本へ送る賛歌の気持ちで地方の景観と文化を書いてゆきたいと思います。今日は知覧、鹿屋、鹿児島、桜島、指宿、池田湖、開聞岳をめぐる旅の一こまです。

戦前生まれの私はどうしても知覧、鹿屋などの特攻基地を見たいと思いました。そして基地を飛び立った特攻機が最後の別れをした開聞岳を見たかったのです。開聞岳に別れを告げ、沖縄めがけて飛んで行ったのです。下にその開聞岳の写真を示します。

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「マッチ擦る つかのまの海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」という歌があります。特攻隊に飛び立った人々は マッチ擦る つかのまに 祖国の為に身を捨てて行ったのです。

この歌は寺山修司が作ったものです。彼は祖国のために身を捨てることに疑問を感じています。そうです。平和な時代には皆が疑問に思います。

しかし6000人位の特攻隊のお陰で、今日の日本があるのです。この麗しい日本が経済的にも精神的にも豊かになっているのです。

そんな事をしみじみと考えさせる旅でした。同行した家内も知覧の特攻隊記念館で若人達の手紙と写真を涙ぐみながら感銘深そうに見ていました。あまり2人で話をしなかった静かな旅でした。

観光として面白かったのは神秘的な池田湖の菜の花に囲まれた景観と、そこに棲む大ウナギでした。土地の人々が大ウナギを誇りにしているのです。神様のようにです。

もう一つ面白かったのは桜島です。鹿児島市にこんなに近い所に噴煙を上げている火山があるのです。その上、桜島の中の火山灰に大根畑が広がっているのです。桜島大根です。農家も散在しているのです。聞くところによると危険な噴火・爆発が起きるときは噴煙が多くなるので分かるそうです。一時避難していれば良いそうです。何故か火山と仲良く暮らしているようです。

下にその桜島の写真を示します。

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それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)