今朝、このブログに掲載した、麗しき日本へおくる賛歌(1)開聞岳と桜島という題目の記事へyuyu さんという方から下記のコメントをご投稿頂きました。
戦後生まれの全ての日本人に読んで頂けるようにと、祈りつつ、下にご紹介いたします。
今朝の記事では、知覧や鹿屋を飛び立った特攻隊が桜島を越えて、開聞岳へ日本へ最後の別れを告げて、沖縄へ飛んで行ったということを書きました。
なお、yuyu さんは陶芸の芸術家であり、また日本藝術協会の代表・理事長でいらっしゃいます。現在は愛知県にお住まいですが、福島県の郡山市のご出身です。雅号は尾張裕峯とおっしゃいます。詳しくは、「尾張裕峯」を検索すると資料が出ています。また、このブログの2009年11月2日掲載の記事、ネット上の友人の陶芸家、尾張裕峯さんをご紹介致します。 にもご紹介してあります。
=====yuyu さんのコメントの内容=======
私の脳裏に何時も消えないのは神宮球場での学徒出陣式です。学業半ばにして参戦した彼らは国のために命を潔く投げ出したのです。
予科練の特攻隊然りです。陸軍にも、また、海軍に人間魚雷艇もありました。
家内の兄が予科練でした。出撃して機械の故障で不時着。同乗の仲間が死に、彼一人生き残ったのです。
終戦後何年もその責任が消えず、「自分だけ生き残った」という恥が彼を支配していました。
酒に酔うと常に「俺は死に損ないだ」を何時までも言うのでした。父親が経営する会社の跡も継がず、半端な生涯を送りました。
彼は戦争の犠牲者だと何時も思う私でした。長男でも妻子を置いて家を出てしまいました。
両親の長い病気も帰らず、義務を果たさなかったから相続も拒否しました。彼を幸せから遠ざけたのは戦争です。
純粋な人間ほど傷つくのも大きいのだと思いました。家内と結婚後に彼の土木の経験を生かして父の仕事を再興しようともしましたが、彼の傷ついた心は修復できませんでした。
当時の若者が今日の日本を作ったと書かれた後藤様の文に同感なのです。その大きな犠牲のお陰を受けて私たちが存在すると思っていました。
彼の妻子は家内と私が面倒を見ました。それが私たちの務めだとも思っていました。
現代人たちがそれを知る人がどれほどいるのでしょうか。日の丸を、君が代を拒んだ日教組の教師たちが植えつけた自由気ままが悪い影響を残しているのだと思います。
不況が長引いても、戦時を思うと比較にならない豊かさです。それでも不満だけが増幅しつつある日本ではないでしょうか。
========(終り)=============