後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

琉球語と日本語の関係について

2012年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム

琉球人は日本人なのか?それは難しい問題です。

そこで琉球語を検索して、Wikipedeaの概説を以下に引用します。文法は日本語に似ていますが会話は全く通じないそうです。ご参考になればと思いご紹介致します。

======琉球語の概説===========

琉球語(琉球方言)は、琉球諸島の広がりと、強力な中央語を持たなかった歴史(琉球王国時代、支配層では首里方言が中央語に近い位置にあったが、大衆同士のリングワ・フランカとしてはほとんど使われなかった)から、地域ごとの方言差が本土以上に大きい。北から奄美方言(奄美語)国頭方言(国頭語)沖縄方言(中央沖縄語)宮古方言(宮古語)八重山方言(八重山語)与那国方言(与那国語)の諸方言(諸言語)に分けられ、沖縄方言以北の北琉球方言と、宮古方言以南の南琉球方言の2グループに大別できる。

「沖縄県の言葉」という意味で「沖縄方言」や「沖縄語」、「ウチナーグチ(沖縄口)」などの呼称が使われることがあるが、本来「沖縄(ウチナー)」は沖縄本島を指す言葉であり(現在でも先島諸島の住民は沖縄本島を指して「沖縄」と言う)、今の沖縄県全体を指すようになったのは1879年(明治12年)の沖縄県設置以後であるため、沖縄本島以外の琉球語(琉球方言)まで「沖縄」の語で表すのは問題がある。また奄美群島は一度も沖縄県に属したことがないため、奄美方言を含む琉球語(琉球方言)全体を「沖縄方言」や「沖縄語」、「ウチナーグチ」などと呼ぶのは不適切である。

明治から昭和中期までの強力な標準語普及運動に、戦後のマスメディアの普及などの影響が重なり、現在琉球語(琉球方言)は衰退している。沖縄時代劇や組踊琉歌琉球民謡島唄などの伝統芸能で使われるほかは、日常生活では主に高齢者とその家族周辺に限られている。2009年、ユネスコは奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語のそれぞれを危機に瀕する言語と指定している。

明治以降の琉球語(琉球方言)と日本語(主に標準語および九州方言)の言語接触によって、琉球列島では日本語の影響を強く受けた新方言が発生した。沖縄県内のものは特に「ウチナーヤマトグチ」と呼ばれる。現在の中年層・若年層の多くでは、琉球語(琉球方言)に代わって、この新方言が第一言語として広く使われている。

===http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%AA%9E====


沖縄は400年間日本の圧政に苦しむ・・・普天間基地はその延長

2012年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム

以下の記事は、麗しき日本へ送る賛歌(3)沖縄、そのあまりにも美しい自然と人々の深い悲しみの続編です。

沖縄諸島を旅すると海の碧さ、熱帯性樹林の豊かな緑に感動し、楽しい気分になります。しかし沖縄の人々は長い間の日本の圧政にあえいで来たのです。苦しんで来たのです。悲しい思いが積もり積もっているのです。その事に気づいて悲しい気持ちにもなります。暗い気持ちにもなります。

1609年に薩摩藩が琉球王国へ侵攻し、琉球王国は薩摩藩へ重い税金を納めることで琉球王国の存続が認められたのです。財政的に困窮した琉球王府は宮古諸島などへ厳しい人頭税を課したのです。Nintouzeiseki1 宮古島に行くと観光バスが、左の人頭税石の前に一時停車して「この石柱より大きくなった男子には一人一人税金が取られ、薩摩藩へ送られたのです」と悲しげな説明があります。バスの中はシーンと静まりかえります。私もビックリして那覇市の大きな本屋さんで郷土史の本を2、3冊買って、沖縄の歴史を勉強しました。

そうしたら、人頭石より大きくなったら税金をかけたというのはウソでした。実際は15歳から50歳の男性にかかった税金で、その税額はその男の家の収穫量、身分、年齢、などによって細かい等級が決まっていました。決して男の身長によって決めたのではありません。

税金は粟などの農産物や反物で納められました。

この人頭税は驚くなかれ明治になっても続けられ、1903年になってやっと廃止されたのです。

薩摩藩の苛斂誅求によって困窮した琉球王国は未開墾の島々へ農民を移住させたのです。ところが村落全員がマラリアで死んでしまったという話も観光バスのガイドさんが悲しげに言います。未開墾の島々にはマラリアがあるので昔から人が住んでいなかったのです。

沖縄へ行くとサンゴ礁が美しいです。しかしそのサンゴ礁で出来あがった島々は水はけが良すぎて、サトウキビや粟などの農作物しか出来ないことにすぐ気がつきます。

人間が住むには過酷過ぎる島々なのです。過酷な生活の悲しさが沖縄の文化の基底に流れているのです。

さて薩摩藩の圧政の後、明治政府は1879年(明治12年)に琉球処分を断行し、琉球王国は完全に消滅しました。

ところが琉球王国は昔から清王朝を宗主国として貢物を送っていたのです。薩摩藩の横暴をけん制する目的もありました。

したがって明治政府が琉球王国を領土化した時に何人もの沖縄人が清国へ亡命したのです。そして清の政府へ「琉球王国の再興」を願い出るのです。

しかしこの琉球王国の再独立運動はに1894年の日清戦争で日本が勝った結果、終焉したのです。

沖縄の独立運動は1945年の敗戦後にも起きたのです。それはある意味では当然だったのです。

1854年に那覇を訪れたペリー提督は琉球王国と琉米修好条約を締結するのです。江戸幕府と結んだ日米修好条約とは別なのです。

したがってアメリカ側の理解では日本と沖縄は違う国なのです。

その上、米兵の血を流して上陸作戦をした米軍です。沖縄に広大な米軍基地を作る気分になったのも当然な気します。

米軍の沖縄占領とともに独立運動がまた起きます。明治政府以来の強引な「同化政策」に苦しんだ人々が立ちあがったのです。日本共産党や社会党は沖縄独立運動を支援したのです。

しかしソ連や共産党中国とアメリカの冷戦状態の緊迫化がこの独立運動を無視することになったのです。

日本中にある米軍基地と沖縄の米軍基地を統一的に運用して軍事戦略を立てるほうが有利になります。それと同時に佐藤首相がアメリカ軍への財政支援も言いだすのです。いろいろな事情が相乗効果をあげて、1972年にニクソン大統領と佐藤首相の間で沖縄の日本への返還が決まったのです。戦後27年間も沖縄はアメリカの領土だったのです。

以上のような日本政府の態度は沖縄の人々を歴史的に無視して来たことになります。

沖縄の運命はすべて、日本政府とアメリカ政府が頭越しに決めて来たのです。反発するのは当然です。

沖縄本島の中心部にある普天間基地を人のあまり住んでいない北部へ移転することは合理的な話です。それを闇雲に反対する沖縄県知事が何を考えているのか理解出来ません。

しかし沖縄人、琉球人の感情を知るとそれも仕方がないとも思えるのです。

日本と沖縄との関係は悲し関係です。

沖縄戦やひめゆりの塔の悲劇だけではないのです。もっと、もっと深く長い歴史的な背景があるのです。

この悲しいさを少し癒すために下に宮古島の美しい風景写真をお送りいたします。写真の出典は宮古島のHPです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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