東日本大震災から1年がたちました。震災直後に見た人間の美しい行為が忘れられません。
1年前を振り返って、その感動的な場面を幾つか書いて行きたいと思います。
少し長くなりますが、よろしくお願い申し上げます。
尚、この記事に関連した4枚の写真は下にある「写真の追加」として示しました。合わせてご覧下さい。
(1)3月11日直後、テレビで見た美談、4つ:
3月11日の後の数日はガソリンの入手困難で車も使えません。そこで終日、テレビを見ています。その中で見た美談を4つ書きます。ご覧になった方も多いと思います。
(1)ある瓦礫の広がる町の隣で、幸運にも水の入らかったスーパーマーケットの快挙です。地震で店中は足の踏み場も無いのに店先の屋外でお菓子や食料の袋を全て200円で売っていました。罹災者たちが行儀良く行列し、1人5袋まで買っていました。停電でレジが使えないので昔のように現金で売っています。何かを買った老人へ記者が感想を聞くと、「非常に勇気づけられました」と言っていました。このスーパーは一袋300円、400円のお菓子や食品を全て200円で売る事にしたそうです。
(2)ある避難所の前に箱型の大型トラックが停まっています。取材中の記者が何をしてますかと聞いていました。怖い顔をした運転手が話しています。「運送用の大型トラックを持っているので、この際、避難者へこうして食べ物を届けているのです。市役所に食品が山積してあるのですが運ぶ人が居ないのです」と言ってました。自分の家も津波に全て持っていかれてしまったとも話していました。
以上は偶然、私が見ていたテレビに出ていた光景です。このような美談は被害を受けたあちこちであるようです。
(3)東京の民間テレビは地震・大津波発生以来、不謹慎なコマーシャルやお笑い芸人のドタバタ番組を一斉に放映しなくなりました。今まで民間テレビの露骨な儲け主義や低俗な番組を困ったものだと思っていました。
しかし今回の民間テレビ局の姿勢に感動しました。日本人の良識に今回ほど感動したことはありません。
(4)大槌町中学校のある中年の男性教師の生徒への愛
岩手県の北の方にある大槌町も大津波で壊滅しました。しかし生き残った人々の為に避難所が山沿いのあちこちにあります。
大槌町中学校のある中年の男性の教師の話です。
彼は避難所を一軒一軒回って、叫んでいます。「大槌中学校の生徒はいないか!」と。返事がありません。彼は泣きそうな顔になります。そしてその避難所の入り口の掲示板に大槌中学校はしばらく休校になるという張り紙をしています。彼が担任をしているクラスの多くが行方不明の様子です。彼は本当に悲しそうです。
最近、人間同士の絆が無くなったとよく言われています。しかし師弟愛は確かに存続しているのです。大津波は大悲劇ですが、それによって人間の絆が強くなっているのです。
(2)ニューヨークでのいろいろな宗教家が合同でした追悼式:
ニューヨーク中心部の教会の中に仏像を乗せた祭壇を作り、佛教、神道、キリスト教合同で、地震・大津波犠牲者への追悼式が18日に行われました。
参加者は約200人でした。現地在住の日本人僧侶、中垣顕実 師(浄土真宗)が読経し、神主がお祓いをし、牧師が聖書の一節を読みました。そして200人のアメリカ人や日本人がキャンドルを手にして5分間の黙とうを捧げたのです。
その鎮魂の祈りのあとにはキャンドルを手に市内を練り歩き、最後に国連本部の前の広場ですべてのキャンドルに火を灯し、冥福を祈ったのです。
(読売新聞夕刊、2011年4月19日版、2ページ目の記事、「震災鎮魂・・・NYでも」より)
(3)若い人々によるボランティア活動:
大震災直後にテレビで報じられた一例です。
東京の若いラーメン屋さん達が8名程、気仙沼市へ行って、温かいラーメンを1200食も作って避難民へ食べさせたのです。麺、スープ、から焼き豚、ネギ、メンマなど1200食分を自分達の乗用車へビッシリ積み込んで東北高速道路を一路北上したのです。東京の警察署も即刻通行証を出しました。
気仙沼市の避難所の学校の校庭にブロックで即製の炉を作り、持参の大鍋でラーメンを作ったのです。釜石市でラーメン屋をしていて、津波で店を流されてしまった男も参加しています。避難所の学校の中学生、数人も下働きとして走り回っています。
避難以来、例年になく寒い日が続いたので、人々はアツアツのラーメンを感動しながら食べていました。汗か涙か分からいないものを拭いながら食べている人もいます。たったラーメン一杯でも家族を亡くした人々へ生きる希望を与えたに違いありません。
マスコミは福島原発の事ばかりですが、大津波で壊滅してしまった東北地方の復興へ向けて全国の人々は立ちあがっているのです。放射能も怖いのは事実ですが、東北地方には大津波のあとの惨状が累々と広がっているのです。自衛隊も外国の救援隊も日夜苦しい仕事を黙々としているのです。頭が下がります。
(4)枝野官房長官の仕事ぶりを外国のマスコミが絶賛:
http://rocketnews24.com/?p=81025に出ている記事を読むと枝野官房長官の仕事ぶりが絶賛されていることが分かります。その記事に出ていた彼の写真を下に掲載します。私はこのブログで枝野さんの広報ぶりは立派だと褒めて来ましたので大変満足しています。彼の政治家としての素顔は知りませんが今回の仕事ぶりは確かに称賛に値します。
何故、枝野さんの広報が立派かというと、技術専門家の言うことをまず深く理解して、その上、自分で一般人の不安も考えて発言しているのです。自分が理解していない事は一切喋りません。不眠不休の情報収集をしていながら何度も記者会見をしています。そして忙しくても必ず一つや二つの記者からの質問を注意深く聞きます。質問の意図をよく理解してから簡明な返事をします。絶対にはぐらかりたり、逃げたり、誤魔化したりしないのです。凄く広報の上手な政治家だと感動しました。
(5)更に感動的な話:
目を転じて、被災地を支援するボランティアの多彩な活動ぶりを見ると感動します。胸が熱くなります。特に学生や若者の活動に心強さを感じ、日本の将来に安堵します。心が明るくなりました。
ボランティアの活動は組織だっていて被災者のニーズに合わせてタイムリーに助けているのです。ボランティアが行っても被災者へ絶対に迷惑をかけないように細心の注意をしています。
大学生はお金が無くて交通費や現地での宿泊費がありません。しかし労働力はあります。そこでお金のある社会人のボランティア組織と共同して労働力だけをニーズに合わせて提供しています。そのチームワークに感動しています。
ある学生ボランティアグループは被災地で家族のアルバムや故人の遺影を探し、持ち主へ手渡す作業だけをしています。あるいは行方不明になったペットだけを専門に探すグループもいます。
石原軍団が大掛かりな炊き出しをしました。東京のラーメン屋さん達が結集して温かいラーメンを現地で作り、何千食も提供しました。
このような感動的な支援の話を書いて居たら何枚もの原稿用紙が必要になります。しかしもっと感動した事はボランティアへ行った若者が言っていたことです。「助けに行った我々がいつの間にか逆に励まされていた」という言葉です。苦しい重労働に負けて暗い顔をしていたら、被災者に温かい飲みものを貰って涙が流れたという体験を語っていました。家族を失った被災者でも他人を思いやる優しさを持っているのです。底知れぬ勇気を持っているのです。人間の凄さ、良い意味での凄さに感動します。
そして世界中の人々からの支援で私の心を熱くなります。一つだけ書いて終わりにします。宮城県の女川町のある工場で働いていた20名の中国人をその会社の常務だった佐藤 充さんが高台へ誘導して助けたのです。そしてもっと多くの人々を助けようとして低い町へ降りていって津波に流され死んでしまったのです。女川町では合計9つの会社で54名の中国人が働いていました。しかし全員が無事に、帰国したのです。
佐藤 充さんは中国の新聞に大きく「英雄」として報道されたそうです。
そして54人の中国人を派遣した大連の中国の会社の代表者、王 軍さんら5人が昨日女川町を訪問したのです。感謝の言葉を話し、54名の中国人の働いていた9つの会社全てに義捐金を渡したのです。
それはそれとして、
今日は東日本の被災地で多彩なボランティア活動をした全ての人々へ深い感謝の意を表したいと思います。
そして皆様のご健康をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)