2011年3月26日から28日に行った客船の旅は、東日本大震災のすぐ後だったので悲しい旅になってしまいました。東日本の復興を祈る旅になってしまいました。
人生にはそんな悲しい旅もあるものです。
戦前生まれ、戦後育ちの私は飢餓時代を経験しました。
貧困にあえぐ時代を経験しました。日本全国がそうでしたから恨みには思っていません。
しかしこいう体験は私の人生に深く暗い影を落としています。
どんなに楽しいことがあっても反射的に悲しいことを思い出します。
ですから100%楽しむことが出来ません。完全に享楽的な生活が出来ないのです。
以下にその記録をお送り致します。
そうして今日もこれを書きながら東日本の復興を強くお祈りいたします。
客船の旅は横濱大桟橋から始まりました。総トン数25000トンのにっぽん丸で太平洋を西へ、岩国まで巡航する旅です。
夕方、出港したので横濱の街がシルエットにように美しく見えます。
横濱港のベイブリッジをくぐり、港外へ出ます。
船の最上階の丸窓の向こうにう夕日が見えます。
海上からは、いつまでも紅の富士山が見えていました。東日本大震災で亡くなった2万人の方々のご冥福を祈りました。東日本の1日も早い復興を祈りました。
横濱出港後約40時間、2日目の朝、神戸沖を通過し、明石大橋をくぐりました。そこからは一路風光明媚は瀬戸内海を航海し、昼前に岩国港に上陸しました。
上陸後はバスで錦帯橋と宮島を観光し、広島空港から羽田に帰る旅でした・
======悲しい旅、祈る旅==============
大地震・大津波のすぐ後なので太平洋上から見える富士山や緑の本州を眺め、「大和民族よ強くあれ」と心の中で祈っていました。
海上から富士山へ亡くなった方々のご冥福をお祈り致しました。東日本の一日も早い復興を祈りました。
厳島神社や錦帯橋では東日本大震災への義捐金の箱へ人々がお金を入れていました。ひっきり無しに入れていました。義捐金を入れる人々がみな悲しそうにしています。胸の熱くなる光景でした。どこに行っても義捐金を入れている人々がいるのです。それは悲しい光景でした。
今回の大災害を考える時、私は少年の頃経験した終戦前後のことを思い出しています。そして、それと比較して考えています。
当時は全国の都市がB29の編隊爆撃で一面、焼け野原になったのです。焼け残った白壁の土蔵以外は一面瓦礫が広がっていたのです。今回大津波に襲われた後の町の風景に似ていました。
当時住んでいた仙台の焼け野原を歩きまわった記憶を思い出しています。
焼け跡には黒焦げになった遺体があちこちに転がっていました。広瀬川の河原では遺体を焼く大きな焚火の煙が上がっていました。
そして8月15日の終戦です。
日本の船も飛行機もアメリカ軍にやられてしまい、復員船も米軍のLSTという上陸用舟艇を借りていたのです。シベリアからの復員船の興安丸は日本の船でしたが、それは数少ない日本の船の一つでした。帆船日本丸もすべてのセールやマストを取り外して復員船として使われていました。
なにもかも失ったしまった日本でしたが力強く復興したのです。戦前以上に豊かな、そして平和な国になったのです。
東日本大震災の復興は第二次大戦後の日本の復興よりは短い期間で成し遂げられると信じています。
西日本に残った無傷の船や高速道路や新幹線のような大きな財産が、復興の足がかりになります。東北地方の復興の支えになります。
緑豊かな山並みは残ったのです。船の上からその緑豊かな本州の山並みを見ると涙がにじんできます。
漢詩の「国破れて山河あり 城春にして草木深し・・・・」を思い出していました。
無傷で残った西日本の大きな財産を足がかりにして東日本は必ず復興します。そんな確信が沸いてきます。その復興を祈る客船の旅でした。
あれから丁度1年がたちました。
福島の原発も冷温停止状態になりました。大津波で洗い流された東日本の町々には復興のきざしが見えて来ました。ゆっくりではありますが希望の光が見えてきました。日本中が、ほんの少しですが明るくなったようです。
今日は、ここに皆様とご一緒に東日本の一日も早い復興をお祈りしたいと思います。後藤和弘(藤山杜人)