後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

気仙沼市鹿折(ししおり)地区の現状

2012年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災で津波に洗い流された地域の現状はどうなっているのでしょうか?

そして、福島原発の爆発で避難生活をしている人々が以前住んでいた家や農地は現在どのようになっているのでしょうか?

最近、日本のマスコミは報道しなくなりました。忘れてしまったのでしょうか?

一周年の3月11日だけは被害者が見たくない悲惨な映像をさんざん流しました。しかし真面目に被災地の現状と、人々が困っている問題を取上げていた報道は見ませんでした。

あちこちで復興の槌音がしているような楽観的な、そして断片的な報道が時々あるだけです。

私は心配になり最近、毎日のようにインターネットを検索して調べています。

昨日、ご紹介した、1年後の大津波被災地はほとんど全然復興していませんと題する記事もその1つです。

今日は、 misty_hillさんが書いている「イーハトーブの森を抜けて」(http://mistyhill.exblog.jp/14885850/) というブログを御紹介いたします。

気仙沼市にお住まいで、大津波の現地のその後の状況を真面目に、そして根気良くご報告しています。

以下は、「大津波と大火に見舞われた鹿折(ししおり)地区の今」と題した、3月19日の掲載記事の冒頭部分と写真です。

是非、彼のブログを丁寧にご覧下さい。マスコミ報道では伝わって来ない現地の苦しみや、現在起きているいろいろな問題が分かります。

東日本大震災の復興はまだ手つかずと言って過言ではありません。簡単に忘れてはいけないと思い、ここにmisty_hillさんが書いている「イーハトーブの森を抜けてを謹んでご紹介する次第です。(続く)

===大津波と大火に見舞われた鹿折(ししおり)地区の今=====

東日本大震災で,大津波と大火に見舞われ3日間,燃え続けた,気仙沼市鹿折(ししおり)地区。
震災で旅立った大切な友人が住んでいた場所だけに,気持ちが重いが久しく行ってなかったこともあり,復旧の状況を知りたくて、訪れた。
幸い、雪が消えたこともあり,コンパクトデジカメをポケットに入れて,バイクで訪れた。
本日の最高気温の時間帯を選んで出かけたのだが,やはり6度ではかなり寒かった。

鹿折地区は,水産加工場だけでなく,一般家屋も多い地区で住民の結束力はとても強く,いつも賑わいをみせていた地区。
大津波と大火のために,風景は,阿鼻叫喚の地獄のような状態になった。
いつも報道で,象徴的に取り上げられる 300tクラスの大きな船が小さく見える。

気仙沼信用金庫鹿折支店があった場所から,鹿折駅方向を写したのだが
向こうまで見渡せるほど,瓦礫や破壊された建物が取り除かれていた。
ほとんど何もなくなり,船までの距離およそ500mが見渡せる。
船のすぐ脇には,JR大船渡線の鹿折唐桑駅があったが,駅舎は取り壊されていた。
この地区で,最も賑わいを見せていた かもめ通り商店街は 

一部の建物と道路が残り,写真右端には 船が横たわったままだった。
震災では、この通りの道路も破壊された。この道路は,土盛りして復旧された道路である。
鹿折川にかかる浪板橋の上から,コの字岸壁と呼ばれる,鹿折の岸壁方向を写す。

津波で破壊された水産加工場の建物が残っている周囲にあった一般家屋はことごとく,取り払われ,基礎部分だけが残されていた。気温6度だというのに,とても臭い。 魚が腐った匂いだけではなく,いわば「異臭」である。とても鼻につく匂いである。気温の上昇とともに、匂いはきつくなるだろうことを思うと
少々、気が重い。
浪板橋から 鹿折駅方向を写す。

=====以下省略いたします========

misty_hillさんはフライフィッシングの釣りの友人を大津波でなくしました。旅立ってしまった友人のことを想い釣りは出来ませんでした。

misty_hillさんの心の傷がはやく癒されるようにお祈り致します。そして川釣りを再開すれば亡くなった友人も天国から喜んでくれると思います。

大震災で亡くなった全ての方々のご冥福を心からお祈りしつつこの記事の終りといたします。

合掌


北朝鮮が何故、長距離核弾頭ミサイルを持ってはいけないのですか?

2012年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

北朝鮮が長距離核弾頭ミサイルでアメリカ本土を攻撃出来るようになるのは時間の問題です。核爆弾を持っていて、来月には人工衛星打ち上げの実験をします。それが成功すれば大陸間弾道ミサイルの技術が完成したことになります。

次の技術開発は核爆弾を小型化して、大陸間弾道ミサイルの先端に取り付ける技術を開発することです。

それも時間の問題です。

アメリカがいくら阻止しようとしても北朝鮮は長距離核弾頭ミサイルを必ず開発するでしょう。

アメリカが阻止出来ない理由は中国とロシアにあります。この2つの大国はアメリカだけによる世界支配を少しでも弱めようとしています。アメリカの独走だけを許すと中国もロシアも経済的な圧迫を受けるのが明白なのです。

この2国が北朝鮮を陰で支援し、味方になっている以上は、アメリカは軍事的に北朝鮮を占領出来ません。

第二次世界大戦後の朝鮮動乱を思い出して下さい。

アメリカ軍の北朝鮮への侵入を食い止めたのは中国共産党軍の人海戦術だったのです。「ウンカの如く」押し寄せる中国兵にアメリカ兵が蹴散らされたのです。

アメリカはイラクやアフガニスタンのように簡単に北朝鮮を占領出来ないのは明白です。

それなのに日本政府は北朝鮮の確信犯的な核ミサイル開発を甘く見て来たのです。食料支援をすれば、それを止めるという判断は相手が普通の国なら正しい判断です。

北朝鮮は普通国ではないのです。

2012032301002353ci00021 左の写真がミサイルの迎撃システム「PAC-3」です。今頃になって慌ててそれを沖縄へ配備しようとしています。下に示したニュースをみて、私はひどく驚きました。ミサイルの迎撃システム「PAC-3」は、前々から、北海道から沖縄までにまんべんなく配置して置くべきだったのです。

第一、迎撃システム「PAC-3」の命中率が問題です。100発打って、すべてが北朝鮮の核ミサイルに命中するなら安心です。しかし「PAC-3」の命中率が低いといううわさが流れています。

北朝鮮が核ミサイルを持ってはいけない。それは悪いことだと言っても仕方の無いことです。

そんな道徳論は止めにして、日本の迎撃システムの命中率の向上に技術的に努力すべきではないでしょうか?

日本人は東日本大震災で大変な時期です。しかしそれにもかかわらず自国の防衛にはもっと真剣であるべきと信じています。

皆様はこの問題をどの様におかんがえでしょうか?

=====今日のニュース==============

北朝鮮の人工衛星打ち上げ名目での弾道ミサイル発射予告をめぐり、政府は、地上配備型迎撃システム「PAC-3」の配備など、不測の事態に備えた自衛隊の迎撃態勢を大筋で固めた。
発射予告を受け、政府は、北朝鮮がIMO(国際海事機関)に通告した、軌道や射程距離などをもとに、迎撃態勢についての検討を続けてきた。
そして、23日までに、PAC-3を沖縄本島と石垣島、 それに宮古島に配備し、迎撃ミサイル搭載のイージス艦2隻を東シナ海に展開する方向で最終調整に入った。
PAC-3については、静岡・浜松市の高射教導隊、第2術科学校などから、自衛隊の輸送艦で運ぶ案が有力となっていて、輸送量次第で民間の船舶を利用することも検討されている。
また、軌道が大きくそれた場合の首都圏の防衛のため、PAC-3を東京都内に配備し、日本海にもイージス艦1隻を展開させる方向。
政府は、すでに関係自治体との協議に入っていて、来週中にも、安全保障会議を開いたうえで、田中防衛相が、自衛隊法に基づく「破壊措置命令」を発令する方針。


麗しき日本へ送る賛歌(5)旧懐の情をかきたてる奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿

2012年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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この麗しき日本という意味は自然の風景が美しいという意味です。しかしもう少しその意味を広げて考えてみます。日本古来の美しい神社仏閣の建物のたたずまいもあります。豊かに広がる農村風景も美しいものです。

そして昔の宿場町の景観も美しいものです。美しいだけでなく旧懐の情が湧いてきます。

何故か知りませんが、私は若い時から「旧懐の情」が突然、強くこの身を熱くするのです。それは旅先で突然起きる現象です。日本国内に限らず、ドイツの中世の村や町に入ると酔ったように気分になり、体が熱くなるのです。韓国の農村へ行った時も故郷へ戻ったような気がしました。

アメリカのさびれた田舎町を車で通り過ぎる時も同じです。そこでは、名も無い人々が生活のために働き、家族を愛して、そして静かに死んで行ったのです。あるいは若者達が捨てて出て行った町や村です。その若者たちが遠くで失意の生活をしている時、思い出す故郷です。いろいろな想念が私の体を駆け巡ります。しかし、旧懐の情は言葉では書けない一瞬の情念なのです。説明してしまうとウソになってしまう感情です。

日本にもそのような古い町があります。奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿です。江戸時代そのままの宿場を復原して、見事に保存しています。そこでは時間が停まったようです。江戸時代の時間を写真に撮れるのです。

この4ケ所は何度も訪問しました。特に木曽街道の奈良井宿は比較的近いので7回くらい訪れました。そこで以下に少し詳しくご説明いたします。

大内宿、妻籠宿、そして馬籠宿もそれぞれ違った感動を与えてくれます。とにかく遠路訪ねるだけのことはあります。詳細は割愛し、下に写真だけを示します。

長野県、塩尻から木曾谷へ国道19号線を木曽福島の方向へ20km位走ると奈良井宿があります。昔の中仙道の奈良井宿が右手に見えて来ます。奈良井へ入る道の案内看板があり、駐車場があります。車を預け、徒歩で江戸時代の宿場町の通りを散策するのです。長さ1kmくらいの通りを静かに歩くだけです。

奈良井宿は鎌倉時代から宿駅として栄えたそうです。木曽路の分水嶺、鳥居峠の北側のこの付近に土豪奈良井氏が居館を構えたのが始まりと言います。

戦国時代は木曽一族と甲斐の武田一族の戦いの場所でした。付近には多数の戦死者を葬った沢が「葬沢」という名前が残っています

江戸時代になり徳川家康により慶長7年(1602年)中仙道の宿駅として決められました。それ以来、260年間、奈良井宿は江戸と京都を結ぶ中仙道の重要な宿場だったのです。

奈良井宿は木曽11宿で一番大きな宿であり、中山道、全67宿の中でも有数の規模を誇っていたそうです。

参勤交代の大名行列が通るだけではありません、数多くの行商人や巡礼の庶民が通り抜けた宿場です。庶民の泊るところは大きな広間です。一緒に寝たのです。その広間の傍には馬が繋いであったのです。芭蕉の、「のみしらみ馬のしとする枕元」という奥の細道での俳句は現実だったのです。

宿場町には本陣や脇本陣が公開されています。しかし多くの庶民が泊った旅籠を見落とさないことが重要と思います。当時の名も無い庶民の旅の苦しさが分かります。

奈良井宿は幸い大きな火災にもあわず江戸時代の家屋が残っていたのです。戦後、昭和30年台から、修理、復元の努力を続け、昭和53年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

同じ木曽路の馬籠宿と妻籠宿ほど有名でないので観光客も少なく落ち着いた雰囲気です。人影まばらな宿場町を季節の風が通り過ぎて行きます。

ある年の初夏に訪れたときに、裏山の森から澄んだ春ゼミの声が絶え間なく聞こえていました。偶然立ち寄った古いお寺の裏手に、処刑された隠れキリシタンの墓が一基淋しく立っているのを見つけました。木曽へ逃げ、身を隠していた「隠れキリシタン」が捕まって、奈良井宿で処刑されたと書いてあります。裏山から聞こえる澄んだ春ゼミの声が鎮魂の歌のようでした。

随分と時が流れてから、木曽蕎麦の「盛り」と「五平餅」で遅れた昼食をとって帰って来たことが忘れられません。

撮影日時:2010年6月1日午前11時から午後1時、撮影場所:長野県塩尻市大字奈良井(奈良井宿の観光情報のURL:http://www.naraijyuku.com は良く出来ているので是非ご覧下さい。特に建物の特徴が面白いです))

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下は大内宿の通りを山の上から見た風景です。合津藩が作った宿場で会津盆地と日光街道の今市宿の中間の山の中にあります。交通が不便な所なので昔の家々がそのまま残りました。

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大内宿の通りの両側のカヤブキの家々が旅籠だったのです。家と家との間が離れているのが珍しいと思いました。現在は丁寧に復元されています。下の写真のように土産物屋や蕎麦屋になっています。本陣も公開されています。

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大内宿の写真をもう3枚、下にお送りします。クリックすると拡大します。

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妻籠宿は下の写真のように昔のままに丁寧に復元されています。

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下は夜の妻籠宿です。

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下の写真2枚は馬籠宿です。急な坂道の両側に旅籠があるという変わった宿場です。木曽は山が険しく平地が無いのです。

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この坂を登った通りに面して島崎藤村の生家が復元され、公開されています。

長野県の小諸城跡にある懐古園の中の「島崎藤村記念館」を見たあとで、藤村の生家を見学すると、何故、彼が故郷を捨てたかが分かるような気がします。山々ばかりで、因習にとらわれた人々の閉鎖的な雰囲気がやりきれなかったのでしょう。

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