後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

無人島になってしまった離島の一覧表と消えてしまった廃村

2013年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、五島列島の野首教会のある野崎島が10年ほど前に過疎化の末に無人島になってしまったことをご紹介しました。

それでは全国に過疎化の故に無人島になった島々は幾つほどあるのでしょうか?

いろいろな角度から検索して調べてみました。

Akio1そうしたら、HEYANEKO(浅原 昭生;Asahara Akio) さんのHPを発見しました。、(http://www.din.or.jp/~heyaneko/index.html)。左は浅原昭生さんの写真です。

それは驚くべきHPです。日本全国に過疎のために消えてしまった廃村の完璧な調査が体系的に報告してあるのです。

そしてこのHPの最初のページの検索欄に「無人島化した離島一覧」という言葉を入れて検索するとその一覧表が出てきます。URLは、http://heyaneko.web.fc2.com/0mujintou.htmlです。

この浅原さんは全国の廃村を訪ね歩いて本も出版しています。

廃村になった村に生まれ育った人々の故郷が消えて無くなってしまったのです。無人島になった島に生まれて育った人々の故郷も消えてしまったのです。

暑い夏の日や厳寒の日に通った小学校も中学校も消えて無くなってしまったのです。

何故、このような悲しいことが沢山起きるのでしょうか?

お釈迦様の教えた、「色即是空」という言葉を思い出します。それにしても人の世の儚さに胸がいたみます。

下に浅原さんの作った、「無人島化した離島一覧表」を転載させて頂きました。

この表には昭和時代になってから無人島になった78の島々の詳細な情報が示されているのです。

何故かしみじみと、いろいろな事を考えさせる一覧表です。

=====「無人島化した離島一覧表」==============

離島の廃村のうち,無人島化した離島については,「SHIMADAS」(日本離島センター刊)と「無人島が呼んでいる」(本木修次さん著,ハート出版刊)を丹念に見ていくと発見できることに気が付き,まとめることになりました。
表を見直すと,「無人島が呼んでいる」は,一種の全国規模で廃村をまとめた本ということがわかりました。改めて「無人島が呼んでいる」を見ると,多くの新たな発見ができそうです。
機会があったら,日本離島センターや全国過疎地域活性化連盟に足を運んで,関連の資料を紹介していただきたいものだと思います。

  島名 無人化時期 面積 最大人口 特記
1 北海道厚岸町小島(Kojima) 1994年(平成6年) 0.05k㎡ 10世帯 (学)(本)春~秋は有人となる(9世帯)。コンブ漁
2 東京都八丈町八丈小島(Hachijou-kojima) 1969年(昭和44年) 3.08k㎡ 513人 (学)(本)室町期からの歴史があった。集落名は宇津木,鳥打
3 東京都八丈支庁鳥島(Torishima) 1939年 4.79k㎡ 125人 (本)火山活動さかん。気象庁の施設があった
4 東京都小笠原村聟島(Mukojima) 1944年 2.57k㎡ 25人  
5 東京都小笠原村媒島(Nakoudojima) 1944年 1.37k㎡ 27人  
6 東京都小笠原村嫁島(Yomejima) 1944年頃 0.81k㎡ 20人  
7 東京都小笠原村弟島(Otoutojima) 大正末期? 5.20k㎡ 50~100人  
8 東京都小笠原村兄島(Anijima) 大正末期? 7.87k㎡ 2人  
9 東京都小笠原村姉島(Anejima) 大正末期? 1.43k㎡ 14人  
10 東京都小笠原村妹島(Imoutojima) 大正末期? 1.22k㎡ 33人  
11 東京都小笠原村姪島(Meijima) 大正末期? 1.11k㎡ 25人  
12 東京都小笠原村北硫黄島(Kita-ioujima) 1944年 5.57k㎡ 220人 集落名は石野村,西村
13 東京都小笠原村硫黄島(Iou-tou) 1945年 22.36k㎡ 1100人 (学)(本)旧硫黄島村。自衛隊の基地がある
14 東京都小笠原村南鳥島(Minami-torishima) 1933年 1.10k㎡ 70人 (本)集落名は水谷村。気象庁・自衛隊関係者がいる
15 島根県益田市高島(Takashima) 1975年(昭和50年) 0.39k㎡ 125人 (学)(本)室町期からの歴史があった
16 岡山県日生町鶴島(Tsurujima) 1990年(平成2年) 0.10k㎡ 9人 (本)キリシタンの遺跡あり
17 岡山県倉敷市釜島(Kamashima) 1990年頃 0.40k㎡ 76人 (学)(本)
18 岡山県倉敷市上水島(Kami-mizushima) 終戦頃? 0.46k㎡ 268人 (学)(本)精錬所があった
19 広島県福山市宇治島(Uji-shima) 1963年(昭和38年) 0.52k㎡ 41人 (学)(本)戦後の開拓集落。クジャクが居る
20 広島県竹原市大久野島(Ookuno-jima) 1945年 0.70k㎡ 不明 (本)戦時中,毒ガス製造施設があった
21 広島県東野町臼島(Usujima) 1969年(昭和44年) 0.46k㎡ 46人 (本)瓦の名産地だった
22 広島県東野町佐組島(Sakumijima) 1971年(昭和46年) 0.31k㎡ 25人 ミカン畑
23 広島県東野町船島(Funashima) 1971年(昭和46年) 0.30k㎡ 50人 戦後の開拓集落
24 広島県下蒲刈町上黒島(Kamigurojima) 1976年(昭和51年) 0.30k㎡ 43人 (本)廃棄物問題
25 広島県音戸町三子島(Mitsugo-jima) 1956年(昭和31年) 不明 65世帯 戦後の開拓集落
26 広島県倉橋町横島(Yokoshima) 1970年(昭和45年) 0.59k㎡ 130人 (学)(本)戦後の開拓集落。ミカン畑

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(2)八ヶ岳山麓から出土した土器

2013年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

小生の山林の中の小屋から北西に20Kmくらいの所に江戸尻考古館という縄文土器の展示場があります。八ヶ岳の南麓や西南麓は伏流水が地表に現れ数多くの清流になっています。その多くは釜無川に流れくだっております。黒曜石の産地の和田峠も近いことから旧石器時代から縄文時代にかけて比較的多くの人が住んでいました。

特に5000年くらい前の縄文時代中期には住人も多かったらしく大型の土器が多数出土しています。炉跡のある円形の住居跡もあります。

それらの考古学的資料は江戸尻考古館http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.htmlに収蔵され、一部は常設展示されています。その中から代表的な縄文土器の写真を下に示します。

Doki0011 Doki0021
左は水煙渦巻文深鉢です。右は神人交会文深鉢です。

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左は蛇文装飾深鉢です。右は四方眉月文深 です。

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上は江戸尻史跡公園にある縄文時代の住居を復元した家です。

縄文時代の家なの中での炊事風景は次回にご紹介しますが、上に示した派手な飾りのついた土器は祭器として作られたと想像されます。

毎日、煮炊きに使用する土器は飾りの無い深い壺で、底が平らになっていて炉の真ん中に立て、回りから火を焚いて獣肉や穀類を煮込んで食べていたようです。

底が尖っている土器も多いのですが、それは炉の底土に突き刺し、周囲を石で支えて煮炊きしていたようです。

食材を煮たり蒸したり出来ることは旧石器時代の「焼き」だけの調理方法からみると革命的な進歩なのです。

その進歩を考慮に入れて縄文時代中期や晩期には畑作農業が狩猟採集と並行して行われていたという説もあります。

江戸尻考古館では縄文農耕説の証拠として農耕用に使用されたと推定される石器を体系的に整理して下のように展示しています。

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耕起具(左:石鍬)や除草具(右:除草用小型鍬)と考えられる。縄文中期の石器群。

江戸尻遺跡が縄文農耕説の発祥になっているという説明文をHPから以下に転載いたします。

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 井戸尻遺跡発掘に取り組み、八ケ岳山麓の考古学において、先駆的な業績をあげた藤森栄一は、戦後まもなく、八ケ岳山麓から出土する考古遺物を検討するなかでこれらの文化構成は、どうしても農耕があったと考えなくては理解がつかないという考え方に達した。縄文時代は、狩猟や採集などを中心とした社会であったとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。これが世にいう「縄文農耕論」である。これらも今日的にみれば、論旨のなかに不十分な点や修正すべき内容のあることはいなめない。
 井戸尻考古館では、この意志を受け継ぎ、縄文農耕の立証と文化内容を一貫して追求してきたが、この10年来、面目を一新するような段階に至った。中期の主要な石器群を体系的に把握することに成功したのである。石器は農作業の一連の過程を担う農具であり、その農具の組み合わせからは、常畑(じょうばた)における雑穀栽培を主とした集約的な農法があったという考えに到達している。

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私も縄文人の全部ではないが一部、農業の好きな人だけが自分の家の周囲に小さな畑を作り、野生の稗や粟を、あるいはクリの木や柿の木のような実のなる木を植えていたと考えるのが自然だと思います。

しかし当時はイノシシや鹿や猿が現在よりも非常に多数棲んでいたので家から遠い畑は全て彼らに食べつくされ役に立たなかったと信じています。

その様子は自分の山林の中の小屋では野獣に食べつくされ、とても農耕など不可能なことから明白です。

農業は山地でなく野獣の来ない広い平野に水田を作るようになった弥生時代から本格的に発達したという理解が正しい理解と思います。

しかし小規模ながら縄文時代にも農耕が行われていたという理解も正しいと思います。その違いは規模の大小と水田の有無である思います。

文化というものは突然変化するものではなく、少しずつ変化して行くのが原則だと思っています。ですから地方によっては縄文文化と弥生文化が並行したり、混合していた時代があると理解できます。

(続く)


日本民族が誇りに思うべき地方の歴史・・・五島列島の無人島に残る天主堂

2013年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典は、http://www1.odn.ne.jp/tomas/nokubi.htm です。)
上の写真は長崎県、小値賀(おぢか)町の無人島、野崎島にポツンと残っている石組みの天主堂です。旧 野首(のくび)教会です。その詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%A6%96%E6%95%99%E4%BC%9A にあります。

隠れキリシタンの住んでいたこの離島の信者達が明治6年の禁教令廃止後の明治41年に貧しい生活の中で建てた天主堂です。

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(写真の出典は、http://yuru-chara.jp/prof-t53.html です。)
この島の生活が厳し過ぎるので、過疎化が進み、10年前から完全に無人島になってしまいました。写真に写っている教会は現在、小値賀町の所有になり、街が保存しています。

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(写真の出典は、http://chabashira.sowzow.com/juumin/19usagi/usagi_041.html です。)
町役場に予約すると教会の内部も観光客が見ることが出来るようです。

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(写真の出典は、http://yumiusa217.blog133.fc2.com/blog-entry-1134.html です。)
天気の良い昼間は上のように美しい姿を見せますが、星空の夜は下のように静かに座っています。

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(写真の出典は、http://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201110040074.html です。)
隠れキリシタンが多く住んでいた五島列島の島々は年々過疎化が進み明治期に建設された天主堂(カトリック教会)だけが島の守り神のように残っています。

五島列島だけでなく長崎県全域にはこのように隠れキリシタンが禁教令の廃止後に建てた美しい天主堂(カトリック教会)が300もあると言います。

そこで長崎県はそれらの古い教会や修道院をまとめて「世界文化遺産」として認定してもらう準備を丁寧に進めています。

古い荘厳な教会堂はヨーロッパに幾らでもあります。それらに比べると長崎県の教会は質素すぎます。建築芸術としてもあまり優れていません。

しかし何故、それらが「世界文化遺産」になるのでしょうか?

理由はたった一つです。江戸幕府による250年間の過酷な禁教政策と処刑にもかかわらず日本人がキリスト教を信仰したからです。ザビエルたちの宣教師を裏切らなかったからです。古い天主堂や修道院こそが日本民族の誠実さと勇気を示しているからです。

権力者の禁教と弾圧にも耐え忍ぶという事は人間として誇るべき文化なのです。それは外国にはあまり例の無い長崎県の歴史です。

だからこそ「世界文化遺産」なのです。

考えて見ると世界に誇れる日本特有の文化は地方にまだまだ沢山あります。例えば青森県の「ねぶた」祭りなども考えられます。

日本の地方、地方には世界に誇れる文化遺産が沢山あります。そんな事実を考え、私は日本民族を非常に誇りに思っています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料====================

1614年、慶長18年の大禁教令が出て、日本中のキリスト教徒は隠れて信仰を守る行動に入ったのです。それが隠れキリシタンです。

一方、高山右近という大名はキリスト教を捨てる代わりにフィリッピンへ逃げて行ったのです。

幕府は隠れキリシタンを摘発する為に「踏絵」を毎年、明治4年まで続行したのです。明治維新後もキリシタン禁教は厳しく守られていたのです。

しかし、この江戸幕府の厳しい禁教政策にも拘わらず、隠れキリシタンは251年も信仰を守ったのです。

この歴史ほど日本人の勇気と誠実さを証明するものはありません。日本人として世界に自慢したい歴史的事実です。

1614年、慶長18年の大禁教令から251年目の1865年、元治2年に隠れキリシタン達が、下の写真のような大浦天主堂に現れたのです。そしてフランスから来ていたプチジャン神父へ、ザビエルの伝えた天主教(カトリック)を信じてきたことを告げたのです。

しかしそれは早過ぎました。信者たちは多数捕縛され各地の藩へ預けられたのです。それは「浦上番崩れ」ともよばれています。このような刑罰は明治政府にそのまま継承され。完全に禁教令が廃止されたのは明治6年になってからでした。

詳細は以下の記事にあります。

日本人として世界に自慢したい250年間の隠れキリシタンの歴史

秋の旅へのお誘い(3)悲しい歴史の町、津和野