「中国に共産党独裁政治が続くかぎり対日抗争も続く」という短い文章の意味を、正確に理解出来る日本人は少ないのではと思います。
勿論、私も深く、正確には理解出来ませんが、今回は少し視点を変えて自分なりに説明を試みて見ようと思います。
それは鄧小平の忠実な配下で、1980年から1987年に中国共産党中央委員総書記を解任されるまで権力の座にあった胡耀邦の改革路線の挫折から理解しようとすることです。
1983年に中曽根総理と会い、その親日的態度にすっかり感銘を受けた中曽根さんが以後、靖国神社参拝を止めたことは有名な話です。
この日本を大切に思っていた権力者が1987年に鄧小平によって解任され、1989年に病死したのです。
そして鄧小平が豹変し、親日政策を撤回したのです。
中国の対日抗争が始まるのは必然ではないでしょうか?
中国人の多くは高度経済成長が進むにしたがって次第に政治改革や政治の自由化を求めるようになります。当然、共産党独裁への疑問を感じるようになります。
時あたかもポーランドにはワレサ大統領が現れ、ソ連ではゴルバチョフ大統領が情報公開の運動を推進していたのです。
その影響もあり、自由を求めだしたのです。それは歴史の必然です。中国人も例外ではなかったのです。
この改革へ理解を示したのが胡耀邦総書記でした。
しかし鄧小平は共産党独裁こそが中国の経済発展の絶対条件だと固く信じていたのです。
そこで1987年に自分の忠実な配下であった胡耀邦を切り捨てたのです。
そして1989年の4月15日に胡耀邦が病死します。
すると6月4日に、「民主化の希望だった胡耀邦」の死を悼む民衆が、天安門に集まり、慰霊式典をしようとしたのです。当然のことながら慰霊式典とデモは政治の民主化要求の運動でもあったのです。
ここでデモを看過すれば中国はバラバラに分裂します。
経済成長など止まってしまいます。
そこで鄧小平は躊躇なく天安門広場へ戦車部隊を送り込んだのです。
北京から遠く離れた場所に駐在していた戦車部隊をあらかじめ呼び寄せて武力鎮圧の準備をしていたのです。
1976年4月5日の天安門広場での周恩来の慰霊デモを武力鎮圧したとき、鎮圧部隊の兵隊が周恩来に同情してデモ隊に合流したのです。それを避けるために中央の政治状況に無知な戦車部隊を遠方から呼び寄せたのです。
鄧小平の断固とした決断を示しています。
中国共産党の独裁を堅持するには、日本から民主主義思想の害毒が流入するのを完全に防止する必要があったのです。
日本と国交断絶したいのが中国人権力者の本音なのです。しかし日本企業が中国に数多くの工場を作っている状況では、国交断絶は無理です。手遅れです。
このような経緯で、対日批判が始まり、現在に至っています。尖閣諸島の問題は氷山の一角なのです。
対日抗争は中国共産党の内部問題です。一党独裁の矛盾が原因になっています。ですから日本がどのような外交交渉をしても効果は殆どありません。原因は中国国内にあり、日本側に無いのですから、暖簾に腕押しなのです。
===胡耀邦はこんな男だった===============
1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、1887年の胡耀邦の更迭後撤回された。
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6
====================================
下に胡耀邦の写真と天安門広場を制圧した戦車の写真をしめします。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
・
・