後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北海道には弥生時代も古墳時代も無かったのです

2013年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っています。

石器時代から縄文時代までは本州と同じでしたが、本州の弥生時代や古墳時代は存在せず、代わって続縄文時代が本州での古墳時代まで続いたのです。その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついたのです。

そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。

そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htmです。

以下にこのHPの抜粋を示します。

下の抜粋文の中で、アンダーラインが引いてある言葉をクリックすると実に明快で多彩な歴史的情報が開きます。是非、ご覧下さい。

=====北海道教育委員会のHPの抜粋文========

北海道には、弥生時代や古墳時代っていう時代区分がなかった?

 北海道は、本州と津軽海峡を挟み、気候も寒冷であるため、本州とはちがう独自の文化を育みました。本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」(北海道史年表参照  PDF)を迎えていました。
 北海道に住むあなたの町にも、そのころの時代の遺跡があると思います。平成23年度に市町村で行われた発掘調査の概要を別ページで紹介しています。
 北海道立埋蔵文化財センターでは、色々な遺跡の様子や土器、石器、木製品、土偶などを展示公開しています。
 北海道立埋蔵文化財センターに、土器などを見に出かけませんか。

1  埋蔵文化財包蔵地数一覧 

2  埋蔵文化財保護のための事前協議

3  重要文化財  ママチの土面

4  北海道の珍しい土器やアクセサリーなど

5  埋蔵文化財 Q&A

6  出土文化財を見ることのできる主な博物館・資料館

=========以下省略===============

縄文時代の不思議な遺跡としてやく4000年くらい前に作られたストーンサークルがあります。

以下に北海道の森町にあるストーンサークルの写真を示します。

写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715です。

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このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。

ついでに秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真を下に示します。

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上下の写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.htmlです。

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話はそれましたが、私が想像している仮説をここで提起したいのです。

「縄文文化は主にアイヌ人の祖先が担っていて、弥生文化は南方や朝鮮、中国からの渡来、移住した日本人が担っていた」という仮説です。

この仮説が正しいとすると弥生遺跡や古墳が北海道に存在しないことも無理なく説明できます。

この仮説の最大の疑問点はアイヌ人が土器を焼かなかったという事実です。縄文時代や続縄文時代の北海道では数多くの多彩な土器が作られていました。

その文化が擦文土器に変化して、アイヌ文化成立とともに消えてしまったのです。擦文土器は本州の土師器の影響を受けたことが特徴です。後にこの土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられました。

このようなことが本当に起きたのでしょうか。自分で上の仮説を立てながら、それを疑っている最大の原因はここにあります。

どなたかこの問題についてお教え下さいませんでしょうか?(終わり)


自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(4)八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展

2013年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県北杜市の甲斐駒山麓に小生の山林の中の小屋があります。日本人の心にある「方丈記」を思い出し6畳と4畳半二間だけの小さな小屋を作りました。しかし40年ほど通っているとその北杜市が自分の故郷のようになります。

そこでこの連載記事ではこの北杜市の石器時代から縄文時代までの歴史を調べ下記のような記事を掲載してきました。

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう!(1)山梨、北杜市の考古学

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(2)八ヶ岳山麓から出土した土器

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(3)八ヶ岳山麓の縄文人の暮らし方

以上の記事の結果、北杜市の北半分の八ヶ岳南麓には見事な縄文土器が出土するが釜無川の南側の南半分からは殆ど縄文土器が出土しないことが明らかになりました。

釜無川の南側は甲斐駒の東北にあたり更に南アルプスの山陰になり日照時間がすくなく冬は厳寒の地になります。

従って小生の小屋のある甲斐駒山麓には縄文人が定住していなかったという結論を書いても大きな間違いはありません。

しかしあれほど栄えた八ヶ岳南麓の縄文人も後期の急激な寒冷化で衰退してしまったのです。

それに入れ替わるようにして甲府盆地には弥生文化(紀元前300年から紀元後300年)が入ってきて、水田耕作が始まるのです。当然、生活の安定を求めて縄文人が山を下り、韮崎市の湿地帯や甲府盆地で稲作を始めるようになったと推定されます。

さてこの水稲栽培は何処から導入されたのでしょうか?いろいろな経路が想定されますが、一番自然な経路は静岡県から富士川を遡って甲府盆地へ伝えられたと考えられます。ただし、これは私の想像で、学問的結論ではありません。

そこで重要なのは富士川の河口に近い登呂遺跡の水田跡です。

登呂遺跡は弥生時代後期の紀元後100年から300年頃の集落跡です。

以下にその復元写真を示します。

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農家や米の貯蔵庫が縄文時代よりも大型になっていることにご注目下さい。

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登呂遺跡の周辺から発見された畔を作る杭や水路遺構から弥生時代の水田を復元したものの写真を上と下にしめします。特に下の水路の整然とした様子に吃驚します。

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登呂遺跡の水田復元写真の出典は、http://kankodori.net/japaneseculture/site/023/index.htmlです。

山梨県の弥生時代の遺跡は下に示すように数がそんなに多くありません。静岡県のような温暖地に比較すると寒冷で水稲の栽培に向いていなのです。

現在こそ山梨県は武川米なというブランド米などを生産していますが、弥生時代の稲は品種改良も進んでいなくて寒冷地では収穫量が少なかった筈です。

勿論、水稲栽培が始まっても従来通り八ヶ岳山麓に棲みついて縄文時代と同じような生活をしている人も少数ながら居た筈です。そして平地で稲作をしている人々も周囲の山地で狩猟や採集も兼業していた筈です。

縄文時代から弥生時代への移行時期については地方、地方によって非常に異なると私は信じています。

北杜市の縄文遺跡は金生遺跡、神取遺跡、酒呑場遺跡とあり隣町には江戸尻遺跡があります。しかし弥生遺跡は皆無なのです。

従って一般的に言えば、現在の北杜市や韮崎市や甲府市は弥生時代には衰退した時代と言えます。

弥生時代には北杜市の人口は縄文時代に比較して非常に減少してしまったのです。結果、小生の山林の中の小屋の近辺には人が入ってこなくなったのです。

鹿や猪や猿や雉や山鳥の天国になったのでしょう。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=======参考資料========================

(1)山梨県の弥生時代の遺跡:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.B1.B1.E6.A2.A8.E7.9C.8C

山梨県の弥生時代の遺跡:

  • 身洗沢遺跡(笛吹市)
  • 油田遺跡(南アルプス市)
  • 大師東丹保遺跡(南アルプス市)
  • 二本柳遺跡(南アルプス市十日市場)
  • 長田口遺跡(南アルプス市)
  • 金の尾遺跡(甲斐市)
  • 宮ノ前遺跡(韮崎市)

(2)金尾遺跡と韮崎市の宮の前遺跡の概略:

以下の文章の出典: http://www.pref.yamanashi.jp/smartphone/maizou-bnk/topics/201-300/0273.html

1、金の尾遺跡は、山梨県甲斐市、中央線竜王駅の約400m北にある遺跡で、1978年に中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。調査の結果、縄文時代前期から弥生時代後期にかけての家の跡などが見つかりましたが、弥生時代の大規模な集落跡というのは山梨県内ではこのときが初めての発見でした。現在、金の尾遺跡は、山梨県を代表する弥生時代の遺跡として知られています。

2、韮崎市、宮の前遺跡:http://www.isekiwalker.com/iseki/356529/

時代:縄文/弥生/奈良/平安

所在地:山梨県韮崎市藤井町駒井字宮ノ前

遺構概要

市報1991(縄文(前期+中期+後期)-竪穴住居6+配石+単独埋甕/弥生-水田/奈良~平安-竪穴住居417+掘立柱建物54+土坑+溝+条里関連溝/平安-水田)
遺物概要
市報1991(縄文(前期+中期+後期)-縄文土器+石器/奈良~平安-土師器+須恵器(墨書土器+線刻土器)+灰釉陶器+緑釉陶器+金属製品+鍛冶関連遺物+石製品+木製品/平安-奈良三彩+須恵器製円面硯+帯金具+線刻土器(「寺」)+人面墨書土器+斎串)
発掘概要:韮崎北東小学校建設