(九寨溝の写真の出典:http://www.geocities.jp/jinyuht/jiuzhaigou_photo.html)
日中関係が、空前にそして多分、絶後に良好だった1972年から1989年の推移を描いた連載記事を以下のように掲載してきました。
1972年ー89年の熱烈日中友好時代(1)田中角栄、周恩来、鄧小平の時代
1972年ー89年の熱烈日中友好時代(2)全国の日中友好協会と日中姉妹都市の流行
1972年ー89年の熱烈日中友好時代(3)中国人の信義・周栄章さんのこと
1972年ー89年の熱烈日中友好時代(4)中国人の信義・金応培さんの思い出
田中角栄と周恩来の決断に始まり、鄧小平のほぼ10年にわたる改革開放の時代に、私が体験した中国人との交流を書いた連載記事でした。結論は中国人ほど信義に篤い民族は居ないということです。個人、個人を見ればこの結論は日中間で戦争が起きても私は正しいと信じて疑いません。
しかし国際関係を冷徹に考えると、このような個人的な特質にこだわって観察したり考察すると大きな間違いを犯します。
国際友好とか国際親善というような概念に含まれる偽善性をかなぐり捨てて、悪魔のような中国の権力者の欲望と、国家のエゴのみを基礎にして日中関係を理解すべきです。悪魔のような日本の権力者の考えかたと日本の利己心を理解すれば良いのです。
そうすれば貴方は何が起きようと吃驚しません。いつも平静な心でいられます。
そういう視点に立てば中国が日本からの投資と技術導入を渇望していた間だけ、「熱烈日中友好時代」が続いていたのです。
徹底した現実主義者の鄧小平が文化大革命で疲弊し、飢えていた国民のを外資導入と技術導入で救おうとしたのです。中国は食料難だったのです。
町はゴミの山。公衆便所は糞尿にまみれていました。都市には飢饉線上の流民が溢れかえっていたのです。私は1980年のそのような北京の街々をこの目で見ているのです。
北京の住宅の全ての窓には頑丈な鉄格子がはめてあったのです。飢えた紅衛兵が窓から侵入して食料を強奪するのを防いでいたのです。
頤和園には飢えた人々が沢山居ました。私を案内して行った周さんが弁当に持って行った豪華なサンドイッチの自分の分の半分を子づれの家族へ分け与えているのを私は見落としませんでした。そして私たちの遺した弁当をきれいに纏めてベンチにそっと置いていました。私も彼も何も言わずに悲しそうにしていました。
私は、街々に貼ってあった、「(共産党員は)為人民服務」というポスターの言葉を考えていました。周さんは共産党員なのです。
こんな感傷は鄧小平のような現実主義者にはどうでもよいのです。飢えた中国人に食料を十分に与えるには外資導入と技術導入による工業の発展しかないのです。鄧小平は固くそのように信じていたのです。それだけが彼の権力の座を守る唯一の方法だったのです。
そして中国経済は見事に高度成長しました。1989年の天安門事件で鄧小平は豹変するのです。いやもともと鄧小平は日本人を好きでも嫌いでもなかったのです。
このように日中間の関係を観察すると平静な気持ちで何故、日中抗争の時代が始まったかが明瞭に理解できます。次回へ続きます。
それにしても中国の自然はあまりにも美しいです。下にさらに2枚の九寨溝の風景写真をお送りします。出典は上の写真と同じです。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)