この連載記事の第一回目の記事で書きましたように、鄧小平は1978年には「日中平和条約」の批准書を交換するために日本を訪問しました。そして昭和天皇を訪問し。新日鉄、君津製鉄所を見学し、新幹線に乗ってトヨタ自動車を見学、その後京都や奈良の観光もしたのです。中国の権力トップの人物が日本を訪問するのは日中の歴史で初めてのことでした。
このころから日本全国に日中友好促進運動が激しく燃え上がったのです。
各地の自治体が日中友好訪問団を派遣し、全国各地に日中友好協会が出来ました。
そして全国の多くの自治体が中国の都市と姉妹都市の協定を作ったのです。
1983年には日本を訪問した中国共産党主席の胡耀邦が中曽根首相と会談し、「日中友好四原則」を作りました。その後、かの右翼的な中曽根総理が靖国神社参拝をやめたのです。親日家の胡耀邦を窮地に追い込まないために止めたのです。
東京には大きな日中友好会館が出来、中国側の中日友好協会の事務所もその中に開設されたのです。それは、全国の市町村にある日本側の日中友好団体と緊密に連携し、両国の友好促進に努力したのです。
そして大連市や上海市は、その出先機関の大連東京事務所や上海市東京事務所を設置し、日本側からの投資を勧誘し、工場誘致に努力していました。
私は当時、北京と瀋陽の大学生を留学生として研究指導をしていたので大連や上海の東京事務所を訪問したことがありました。特に大連の事務所の人々は非常に親切で、友好的でした。
一方、中国政府も日本に感謝して残留孤児の調査を丁寧にして、3千人近くの孤児を日本へ返しました。家族連れで返したのです。
旧満州地区を日本人観光客に開放し、昔の満鉄職員関係者が旧宅を訪問したり、満州で命を落とした人々の慰霊碑を立てました。
私も1980年から北京と瀋陽の大学へ集中講義に招ばれ、大歓迎を受けました。各地の観光旅行にも連れて行ってくれました。
西安に行くと「安倍仲麻呂」の巨大な記念碑が建てられているので吃驚したものです。
このような日中友好時代には民間の人々も中国から来日した留学生を私財を投げ打って支援した人も多かったのです。以下に一つだけの実例を上げます。
それは神奈川県の大和市で会社を経営していた土屋 暹 氏のことです。
最近、その息子さんの翁三から頂いた資料によると、土屋 暹 氏は中国の社会主義体制に興味を持っていたそうです。
1966年に訪中し、1973年にはご夫妻で再び訪中、帰国後に大和市日中友好協会を設立しました。1975年には翁三さんも訪中し、その後、父と共に私財を使って中国人留学生を助けてきました。
1978年には大和市の市長を団長として各界友好訪中団を結成して中国を訪問しました。
そして土屋 暹 氏は自分の会社の社員寮に東京近辺の大学へ留学してきた中国人を無料で受け入れたのです。それは1999年に社員寮を解体するまで続けられ、その総数は42人だったそうです。
土屋 暹 氏は息子の翁三さんと共に中国人の面倒を親身になってみたのです。
その例として、下に1980年の春節の祝会の様子を写した写真を三枚示します。
私も瀋陽から留学して来た金応培先生を受け入れていたのでこの祝会に招待されました。
・上は祝会に参加した中国人で中国の大使館の教育関係の参事官もいました。
・上は餃子を皆でわいわい言いながら作っている場面です。右端の女性が家内です。
・右端が土屋 暹 社長で、真ん中が私の親友の北京鋼鉄学院の周栄章教授です。左端が小生です。
それにしても鄧小平が去り、胡耀邦が去った後の江沢民と胡錦濤の時代の中国は何故にこんなにも日本を敵視し、攻撃的な言動をとるのか不思議です。
その理由はいずれこの続編で書く予定です。
下に関連参考資料を添付します。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
======この記事に関連した参考資料========
日中友好協会の歴史:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E5%8D%94%E4%BC%9A
全国自治体の姉妹都市1635件の提携先:http://www.clair.or.jp/j/exchange/shimai/page.html
胡耀邦(1981年から1987年まで中国共産党主席):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6