後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

従軍慰安婦像がアメリカのあちこちに設置されつつあるこの状態!

2013年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカに住んでいる韓国系のアメリカ人がNPOを作り、アメリカ中に少なくとも20ケ所に従軍慰安婦像を設置しようとしています。

そして韓国の女性が、日本軍に強制連行され慰安婦にさせられたと宣伝しているのです。

7月30日にはカルフォルニア州のグレンデール市に最初の像の除幕式が行われました。

この韓国系のアメリカ人の団体は人権問題に敏感な政治家に働きかけ反日活動を繰り広げています。

一番ダメージを受けるのは日系アメリカ人で、その子供たちは学校でイジメにあっているそうです。

そして日系企業もカルフォルニア州での活動がやりにくくなります。

日本と韓国の歴史認識をめぐる闘争は太平洋を飛び越して、アメリカ大陸へと飛び火してしまったのです。窮地に立つのは日系のアメリカ人です。

このような問題に対して日本政府は対抗手段がとれるのでしょうか?

大変危惧される展開になっています。みなさまは如何お考えでしょうか?

下に関連の報道を掲載いたします。

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【写真説明】30日、ロサンゼルス近郊グレンデールで除幕された少女像と元慰安婦の金福童さん(共同)

 【グレンデール共同】韓国系米国人や在米韓国人の団体が、ロサンゼルス近郊グレンデールの市有地の公園に、第2次大戦中の従軍慰安婦の被害を象徴する少女像を設置し、30日、地元の市議会議員ら約300人が参加して除幕式が行われた。

 像はソウルの在韓国日本大使館前にあるものと同じデザインで、少女がいすに座った姿。元慰安婦の

金福童

キム・ボクドン

さん(87)は隣に腰掛けて像の手をさすり、式典後「ひどい過ちを繰り返さないよう、若い人たちがこの像から正しい歴史を学んでくれたらいい」と話した。

 設置を推進したフリードマン市議は「像を設置しないよう(日本などから)圧力を受けたが、歴史と真実は否定できない」と強調。戦時中、米国の日系人が敵性外国人として強制収容された歴史を語り継ぐ活動をしている日系人団体の代表もあいさつし、元慰安婦への連帯を表明した。

 慰安婦の碑は韓国系の人々が米国各地で熱心に設置を進めている。

 ロサンゼルスの日本総領事館の広報担当者は「少女像設置は日本政府の考えとは相いれない。これまでの日本の取り組みを説明してきたが、結果的に設置されたことは極めて残念」と話した。(出典:http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201307310147.html

【グレンデール(米西部)=黒沢潤】米カリフォルニア州グレンデール市で7月30日、慰安婦を象徴する少女像が設置された。東部州で慰安婦の碑が建立された例はあるが、西部州での設置は初めて。同様の動きは全米各地に広がる可能性があり、日系人社会は懸念を強めている。

 図書館脇で行われた像の設置式典は、地元警察官が警戒にあたる中、韓国国旗や日本批判の横断幕を掲げた韓国系住民ら約300人が詰めかける物々しい雰囲気で始まった。

像設置は韓国系団体が主導し、費用約3万ドル(約295万円)も負担した。

 「日本政府に歴史責任を認めさせることを求める」。韓国ソウルの日本大使館前に反日団体が設置したのと同じデザインの少女像の脇には、韓国側の主張が刻まれたプレートもあった。

 グレンデールの市長時代、像の設置実現に向けて奔走したフランク・クィンテロ市議は「日本側が過去の事実を認めることを否定する中、記念像を設置することができてうれしい」と語った。同市議は議会の過半数を占めるアルメニア系議員だ。遠巻きにして式典を見ていた在米約35年の高橋みつお氏(61)は「像設置はアルメニア系、韓国系住民が共闘した結果だ」という。

グレンデール(人口約19万2千人)の北方にある山並みが、「ノアの箱舟」で有名な故郷アルメニアのアララト山に似ているため、大量に流入したアルメニア系住民は約9万人。一方、韓国系は1万数千人。ある日系人も「両者で人口の半分だ。韓国系にとって、アルメニア系と手を組むことでキャスチングボートを握ることができる」と話す。

 オスマントルコに虐殺されたと主張するアルメニア系と、日本統治を経験した韓国系の双方にとり、「互いに犠牲を払った民族同士」との意識も強いという

 今回の像設置に対しては、日系人社会から「1カ月ほど前に突然、公聴会開催が発表され、7月9日の公聴会直後の議決で設置が決定された。なぜこんなに設置を急ぐのか」との批判が出た。

 地元邦字紙コラムニストの後藤英彦氏(73)も「像設置の前に日韓に加え、ハーバード大やオックスフォード大など米英の学者も交え事実を調査すべきだった」と疑問を呈する。

あm ウィーバー現市長も懐疑的な見方で、日系人社会のこうした主張に歩調を合わせるかのように、式典への参加を見合わせた。

(出典;http://sankei.jp.msn.com/world/news/130801/kor13080108570001-n1.htm 


この世から全ての差別を撤廃しよう(2)学歴差別のある日本と無いアメリカ

2013年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

学校で成績の悪かったガキ大将が、世の中に出てから偉くなることはよくあります。学校の成績なんて当てになりません。その事はみんなが知っています。

しかし「学歴」ということになると、その言葉にはいろいろな苦労や悲しみがまとわりつくものです。そこで今日は学歴による差別の問題を考えてみましょう。

日本の履歴書には、始めに学歴欄があり、小学校から中学校、高等学校と続き、卒業した大学を書きます。大学院を出ればそれも書きます。職歴欄は学歴欄の下に書くのが普通です。

その学歴欄にしたがってあからさまな差別が当然のように行われていたのです。特に、経済の高度成長時代の初めころまでは、あからさまに差別があったのです。

中央官庁や大会社が新人を採用する場合には、戦前の旧学校制度の帝国大学と一ツ橋大学と東京工業大学が優先されていました。その他に早稲田大学と慶応大学だけの卒業生は採用されていました。この差別は非常に厳しく、就職後の昇進にも差別があったのです。他の大学は影が薄くて就職後も苦労があったのです。

従って、多くの日本人は人間の価値は卒業した大学によって決まると思っていたのです。

勿論、それは貧しい精神文化でした。しかしこのような精神的風土が中央官公庁の風土でした。

しかし経済の高度成長時代になって、学歴より個人の能力が重視されるようになって来ました。そうして、学歴による差別は弱くなって来たのです。少なくとも表面上は学歴差別は無くなったのです。

当然のことながら、人間の価値は学歴では決まらないのです。

小学校しか卒業していなくても大きな事業をしていて、かつ人間的にも立派な人が沢山いることを人々が認めだしたのです。

このように世の中の考え方が変わると、若い人は就職後の出世のために大学を選ぶのをやめるようになります。

少なくとも出世の為に大学を選ぶ若者が少なくなったことは事実です。

この事は最近の大学の学生募集のためのホームページを開いてみると確信できます。

例えば上智大学のHPを開くと下のような建物と綺麗な教会の写真があります。

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そしてHPには楽しげにしている学生の写真が沢山でています。学生たちがいかにキャンパス・ライフを謳歌しているかを示す沢山の写真が出ています。

清潔で立派な食堂の写真があります。

そして学内へで出店、営業しているアメリカのカフェのチェーン店の写真も出ています。

いかにこの大学は快適で楽しいかを熱心に宣伝しています。

私は戸惑ってしまいました。この大学はローマ法王傘下のイエズス会が経営している大学の筈です。

ところが宗教教育をしていないようなHPの内容です。それではあんまりなので上の写真のように大学の構内にある聖イグナチオ教会の写真がさり気なく示してあります。兎に角、カトリックの宣伝が微塵もありません。まあ、それはそれで良しとしましょう。

結論を書けば大学は就職後の出世の為にあるのでなくは青春を楽しむために存在するのです。(ここに日本の大学の質の低下の原因があるのですが、今日はその議論を致しません。)

私立大学だけでなく国立大学もこのような雰囲気になって来ました。そして日本では学歴差別が消滅して来たのです。

このように書くと強く反対する人々の声が聞こえるようです。

現在でも東京大学や京都大学を卒業した人の中には理由もなく威張っている人がいます。そんな人を理由も無く大切にする人もいます。そういう人に限って中学校しか卒業しなかった人を見降すのです。

現在でも学歴差別のある職種の中央官公庁と大会社では人事を考える時必ず学歴を勘案します。その他の職場でも同様です。それは履歴書に学歴欄があぎり生き残ります。

私はアメリカの大学で働いていたことがありますが、アメリカ社会には学歴差別は殆どありません。

履歴書の書く順は、現在どのような仕事をしているか、過去数年間にした仕事を書きます。そして最後に参考として卒業した大学を書きます。

パーティの時に少し酔うと他人の噂話をします。あの人は現在何をしていて、来年や将来は何をしようとしているかが噂話の中心です。絶対に学歴の話は出ません。将来何を実行するかによって人間の価値が決まる社会なのです。

学歴差別がない理由の一つは、アメリカの大学には入学試験が無いことです。

入学者は高校のときの成績だけの評価で決める書類選考だけです。

大量に新入生を受け入れて学年進級の度に成績の悪い学生を強制的に退学させるのです。この強制退学の制度こそが学生をふるいわける一番公平な制度なのです。

ですから、日本のように、2,3日間だけの入学試験を絶対にしません。

学生の能力の判定を1、2、3年間と時間をかけて行っているのです。

その上、違う大学への転校も非常に自由です。

それを例で説明すると、埼玉大学から東京大学へ転校し、卒業の年に早稲田大学に転校するような具合です。

そのような社会では当然、学歴差別は無意味になってくるのです。

日本の社会もここまで徹底しないとやはり学歴差別は残ると考えられます。

ですから、表面上は日本の学歴差別が無くなったように見えても楽観的には考えられません。

現在の入試制度の抜本的な改革と、転校の自由化が徹底しないかぎり日本からは学歴差別は消えないと思います。さて皆様はいかがお考えでしょうか?

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)